思い出ハニーキャラメル
第1話
甘く味付けされた思い出に、今のあたしは残念ながら心当たりがなかった。
たしかくるみに渡された小さな食べ物が、歯の裏とか、喉の奥とか、心の底とかにべったりと張り付いて、そんな感覚だけが曇り空のようにおおいかぶさっている。正直不快だったんじゃないかと当時のあたしを想像してみる。
すると、それは銀紙に丸めて、ぽいっと捨てられるほど粗末に扱えるものではなく、不快とか悪感情に変化することはなかった。
そもそも簡単に忘れてしまうような単純な作りの脳が悪いわけで、そんな薄情なあたしに嫌悪感を抱いて、自身にため息をついてしまう。ため息は、もう悪癖と化していた。
煮え切らない脳内に少しでも刺激をと、こめかみ辺りをこつんと小突いてみたけれど、痛いだけで、当然記憶に変化はなかった。
そんなこんなで、くるみと冬を探しに出た日の翌日。日曜日。あたしは何も置かれていない机に頬づえをついていた。頬が手のひらに押されて持ち上がるだけで、それ以上は何もない。
偶の日曜日にこれほど何もないのは、一女子高生としてどうなんだろうと悩みたくなるところでもあり、そんな一日が昔から変わらずあることに少しだけ安心する。
時刻は午後二時。このまま夕飯まで布団の中でウトウトしている日曜日もいいかもしれない。あたしの部屋に来るのはせいぜい、ノックの返事を待たずにドアを開け入ってくる母か、いろいろと鬱陶しいくるみくらいが、呆れるように咎めるだけだ。そして、そのくるみもさすがに今日は訪ねてきていない。それはそうだろうと、あたしはキャンバスを目の前に絵筆を走らせるあいつを想像した。
あわてている。
あたしは口の中で小さく笑った。
ほどなくして、よし寝ようか、となってくる。外にも出ていないし、このままの格好でいいかな、と独りごちりながら椅子を立ったその時だった。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
なんだ? と思ってそっちを見つめていると、少し間を空けてから声が聞こえてきた。
「……スズちゃん、起きてる?」
そっと囁くような声だった。それではドア越しのあたしの耳には届かなくはないかと訝しんでいると、少しの間があったことを思い出して、ああなるほど、となる。
どうやらあたしの返事を待っていた間だったようだ。
室内のあたしは目もパッチリ起きているわけで、そんなことは知らない訪ね人を待たせるわけにもいかず、あたしは早急にドアを開ける。
だいたい、こんな礼儀正しいことをする子は誰なんだ、と感心するが、まあ、知らないわけもなくて。それこそ忘れたとなったら薄情この上ない。
内に開かれたドアの向こうには、あたしと同じ背丈の可愛らしい女の子が、不安そうな顔つきで立っていた。
ストンと床に真っ直ぐ伸びる黒髪は、あたしと違って毛先まで芯が通っていて、清楚な印象を与えている。
はあぁ、と久しぶりに真っ正面から見た彼女の顔に、感嘆の息を漏らしてしまう。そちらの方が、あたしよりもよっぽど細胞の作りがいいみたいだ。これはモテるな、と卑しいことを考えてしまう。
見惚れてしまったままちょっとのあいだ黙っていると、彼女はますます不安になったのか、眉を八の字にゆがめて、あたしの顔にその端整な顔を近づけてくる。近い近い。そのまま一線超えてしまうぞ。……冗談だけど。
「スズちゃん、大丈夫?」
こてんと小首をかしげて訊いてくる。
仕草がやけに作り物っぽいなと感じた。
「んぁ、ごめんごめん。ついぼうっとしちゃって……。あたしはこんなにできる妹を持って幸せだよ」
「なにそれ?――もしかして、からかってる?」
ちょっとでけ不貞腐れるように頬を膨らませた愛おしい仕草をする彼女は、あたしの妹だ。正真正銘っていう言い方は、なんだか物に言っているみたいで嫌だから、その単語はあたしの頭の中ですぐに切り捨てられた。
ちなみに我が妹は只今中学三年生で、あまりよく覚えてはいないけど、あたしと三、四ヶ月くらいしか年齢が変わらなかったと記憶している。来年には、あたしもつい最近経験した高校入試が待ち構えているわけで、時折見る彼女はほとんどの場合、勉強に勤しんでいた。成績は優秀らしいのにそこまでやられると、平凡なあたしにはとても太刀打ちできなくなる。
それから、出し惜しみするのもなんなので、この際もう一人も紹介しておくことにする。
実は、あたしには姉もいる。それも一個上の高校二年生。誕生日は……、忘れた。薄情な。
肩ほどまで長さがある姉の髪は、妹の髪質に似ていて、清楚さはあるけれど、ぱっと見冷たい印象の方が強い。それが化粧の効果であることは最近知った。女のたしなみだと痛い所を衝かれた気になったあたしは、姉監修の下、道具をお借りして簡単に自分を彩ってみたけれど、まあ、とにかく面倒くさくてその日でやめた。
カッコイイ姉と優秀な妹に挟まれた、平凡なあたし。うちの三姉妹としてはなかなかバランスが取れているなと思う今日この頃で、あたしたちは良好な姉妹関係を築き上げているように思える。
さてさてお待たせ。うちの優秀な妹君は、平凡な方の姉に何用だというのかい。
「今日がなんの日か覚えてる?」
「今日?」
はて、何の日だったかな。頭を悩ませる。かまぼこの日はまだ先だったはずだから違うだろうし。
んんん、と唸って数十秒後、何かが舌の上を引っかけるような妹の声が答えを紡いだ。
「お出かけする日だよ。わたしと、スズちゃんと、お姉ちゃんで」
待てど暮らせど正解を言いそうにない平凡でダメな姉に、心優しい妹は微笑みを向けている。その表情に取り繕った感があるのは、たんに苦笑も混じっていたからだった。
そういえばそうだったなと納得する。昨日くるみに振り回されて忘れてしまっていた。
あたしたち三姉妹は月に一度、そろって出かける日を作っている。もう何年も前からの決まりごとで、一番上の姉が高校に入学したら止めようかとも話していたけれど、結局あたしが高校生になってもその日は残っていた。無くすにも無くせない大切な日だってことは、あたしだけじゃなく、姉も妹もわかっていたみたいだ。あたしの家にはそういうものがいっぱいある。
「あぁ……、覚えてたよ、忘れてたわけじゃないから」
失念していたことに蓋をしようにも無理があった。その証拠に、妹の微笑みが完全な苦笑いになっていた。ちょっと心苦しい。
「昨日くるみさんとお出かけしてたの知ってるから、大丈夫だよ」
妹に慰められてしまった。しかも何気にくるみのせいにしているところが面白い。妹のちょっと腹黒いところが垣間見えた瞬間だった。
「それでどこ行くの?」
棒立ちで話しているのもなんなので、あたしは昨日も使っていた外出着一式をクローゼットに取りにいく。それに合わせて、廊下にいた妹も部屋に入ってきた。横目に見ると、興味津々で部屋中を見回している。
「近所の喫茶店にホットケーキを食べに行きたいなって思ってて」
「うん、いいね。遠出するにはちょっと遅いもんね」
「それはスズちゃんのせいだけどね」
「え?」
クローゼットを閉めて振り返ると、腰に手を当てて肩をそびやかした妹の姿があった。
わかりやすくお怒りのようだ。まだまだ中学生だな、と内心ちょっと大人ぶる。そういうのを乗り越えて人は大人に成長していくんだよ、妹よ。
「日曜日だからって起きるの遅いし」
グサッとあたしの身体に鋭利な何かが刺さる感じがする。
「昨日はくるみさんと遊んでたくせに」
グサグサッと鋭利な何かが追撃する。
「極めつけは、今日のこと忘れてたし」
グサグサグサッと、あたしの心は妹の的確な言葉責めに、あっという間にボロボロになっていた。もう何でもかんでもお見通しというわけか。これでは、妹の方が大人っぽく見えてしまう。
落ち込んでいると、フフフと妹の笑い声が聞こえてくる。
「ごめんね、スズちゃん。意地悪しちゃったね」
俯く心を上げてみる。目を細め朗らかな笑みを湛えている妹の表情に優しさが戻っていた。
彼女の心で優先されるのが優しさなのか、小悪魔的な棘なのか、それを知るには捉えどころがなさすぎる。
「……本当にいい妹なのか精査する必要がありそうだ」
「えぇ、それは悲しい」
「冗談だよ」
よし、カウンターパンチが決まった。
勝手に満足して部屋を出ながらマフラーを首に巻く。その後を妹がついてくる。
階段を落りている途中で、
「お姉ちゃんはもう準備万端でリビングにいるよ」
と言うので、少し驚く。
「速いね」
「楽しみにしてたんだよ」
姉まで待たせてしまっていた。それは悪いことをしたな、と罪悪感に苛まれるのも今は仕方ない。悪いのはあたしなんだし。
今日のお出かけ代はあたし持ちが水面下で決まったところで、二人でリビングに入った。
向かって右側のテラス窓に近い所には、早々と炬燵が出されている。まだ本領を発揮するには時期が早いため、電源ケーブルは紐で巻かれて一纏めにされている。家族が誰もいなくなった隙を見計らって、ひとりでこっそりぬくぬくしていることは黙っておく。
こちらに背中を向けるように炬燵に入っている人物が一人いて、室内だというのに真っ黒のブルゾンを既に羽織っていた。妹の言ったことは本当だったようだ。
あれがあたしの姉である。
あたしたちがリビングに入ってきたのに気がついて、姉は首だけ振り向いた。
「やっと来たぁ」
ため息混じりで待ちくたびれたように呟いた。こんなにもなるなら無理にでも起こしてくれればよかったのに。そう言っても、たぶん強硬手段に出ないのがこの姉妹で、そんな思慮深いさがいいところでもあるのだろう。
とりあえず謝っておかないと。
「ごめん。……昨日くるみと出かけてたから」
「あぁ……。それは仕方ない」
あっさりと許されてしまう。
というか、冗談でくるみの名前を出したのに、この姉妹はどうしてそこまで、くるみを迫害するような言い方に落ち着くのだろう。面白いから、あたしはいいけれど。
ごそごそと姉は炬燵から這い出て、こっちに近寄ってくる。その身長は、あたしや妹よりも低い。
じいっと、あたしの頭のてっぺんくらいで姉の視線が止まる。
なにかな、と思って黙っていると、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる姉が、その手をあたしの頭にかぶせてくる。いきなりの出来事に身体がビクッと反応してしまう。白黒しそうな目を、無理に姉に合わせた。
「スズちゃん、また大きくなった?」
ぽんぽん、と軽く頭を叩いてくる。
姉妹の中で一番年上のはずの姉が一番背が低いことに、彼女なりに悩んでいたりいなかったりする。そんなことしてもあたしの身長は小さくなりませんよ、と相手の心に言ってみても聞こえるわけなかった。
「そんなことないと思うけど」
いつまでも頭をぽんぽんされているのが恥ずかしくなってくる。幼い頃はよくそうされたけど、高校生にもなればちょっとだけ抵抗したい気持ちが湧いてくる。
何の気なしで姉の頭に手を添えてみると、石膏でも浴びせられたように姉の身体は瞬時に固まった。表情がまるでぎこちない。
あれ、いけないことしたか。
正直言えば、姉の頭をぽんぽんするのはこれが初めてだった。なんとなく手を出せない感じでむずがゆくて、代わりに妹で試すくらいしかしてこなかった。ちなみに妹はされるがままだった。
「あ、ごめん、つい……」
あわてて手を引っ込めると、姉の口から「あぁぁ……」と何かを惜しむような声が漏れ出した。
あたしの頭上にあったはずの姉の手がいつの間にか元の位置に戻っていて、彼女の目だけがあたしの左手に一点集中している。状態が膠着していた。
べつに姉が怒っているわけでもなさそうだし。
どういう状況なんだと、妹に助けを求めて目を向けると、妹は妹でとても微笑ましそうな満面の笑みを浮かべていた。口角が上がってニヤリとした感じの。その笑みの奥になにかよからぬ企みがありそうで、あたしはすぐに視線を逸らした。
「えーっと、遅くなるのもあれだから、早めに喫茶店行っちゃおうか」
それぞれがそれぞれ宙に浮いてしまうような意識状態なので、あたしは率先して提案する。
声にふたりともはっとして、姉は目を泳がせて、妹はわずかに赤面していた。
「そ、それもそうね。遅くなっちゃうと夕飯食べれなくなっちゃいそうだしぃ?」
「う、うん」
ぎこちない姉と妹が、どこか頼りない足取りでリビングを出ていく。ゴツンとか、あっ、痛! とか危なっかしい声が聞こえてあたしは腕を組んで考えた。
いや、ほんと、どういう状況なんだ、と。
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