後編



「……ない」


 さっきの元気はどこへやった。


 あたしたちはイチョウの木に翻弄されたのち、公園に入って冬探しを再開した。

 しかしながら、思うような冬を見つけることはできず、心が折れかけたくるみは、街並みが見渡せる開けた平地のベンチに腰を下ろしていた。

 イチョウ、もみじ、金木犀、どんぐり、赤とんぼ。公園で目につくのはどれも秋の代名詞と呼べるものばかりで、お目当ての冬に関係するものではない。というか、ハロウィンも終わっていないのに冬を探すなんてフライングにもほどがある。


 あたしは、うなだれるくるみの隣に座り、首に巻いたマフラーを緩めた。さっきまで歩き回っていたので少しだけ暑い。隙間に乾いた秋の風が入り込み、あたしは、ふーと息を漏らした。


「……ねえ。そもそも、なんで冬なんか探そうなんて思ったわけ?」


 この質問のなかには、くるみが落ち込み気味である理由を見つける意図もあった。


「んー? なんでかってー?」


 肩が背もたれにつくほどぐでんと座り込んでいるくるみの視線は、斜め上にある。視線の先の小さな飛行機を見つめているあいだにも、彼女の身体はずるずると滑っていた。

 ほどなくして、やる気のない声が聞こえてくる。


新見にいみさんとか、祐澄ゆうずみさんってスゴイと思わない?」

「はあ……。新見さんと祐澄さん……?」


 今名前があがった二人は、あたしたちの同級生のことだと思う。入学早々、それぞれ部活で結果を残し、学年ではそこそこ知名度があってあたしも名前だけは知っている。けれど、その二人の存在が、くるみに冬を探すきっかけを作ったのとなんの関係があるというのか。


「あのふたりってさ、ずうっと先の季節のなんかを、いつも持ってる気がするんだよね」

「……ごめん、意味がわかんない」

「えー、もー。すずきは物分かりが悪いなぁ」

「悪かったわね。物分かりが悪くて」


 今ので意味を理解できた人をあたしは褒め湛えようと思う。


 嫌味っぽさが伝わったのか、くるみはくつりと喉を鳴らして笑った。

 なんだ、笑えるには笑えるのか、となぜかホッとする。くおー、とまた一機の飛行機が、あたしたちの遥か上空を通過していく。


「ね、手出して」


 視線を元に戻すと、怠そうな体勢のくるみが顔だけこちらに向けていた。話に脈絡がなさすぎて、少し困る。


「はぁ? なんで」

「いいから」


 何を企んでいるんだ、こいつは。突拍子もない発言の裏には、いつだって振り回されるあたしの姿がある。

 ためらいながら、左手を差し向けると、くるみは右手でぎゅっと握ってくる。

 肌が触れた瞬間、心臓がトキンとなって、ビリビリと首筋の産毛が逆立つ感覚を覚えた。それは緊張というよりも寒気に近かった。


「え、なに?」


 困惑しながらくるみを見ると、彼女の緩んだ瞳が握られる手を見つめている。


「あったかいね、すずきの手」

「なに言ってんの、あんた」

「だってあったかいんだもーん」


 くるみの握る手の力が一層強くなる。

 なんだかんだ言って、こいつの手も薄着のわりには温かい。あたしがそう感じるってことは、こいつの方が体温が高いのか。さっきまで身体を動かしていたのは主にくるみだったから、そのせいもあるかもしれない。

 しかしこの状態はいつまで続くのだろうと気にしていると、くるみはおもむろに切り出した。


「つまりこういうことだよ」

「どういうことだよ」

「いま、私はなんかを持っている状態じゃん」

「なんかじゃなくて、あたしの手を握ってるんだよ」

「そんで、すずきもなんかを持ってる」

「正しくはお前の手に握られているな」

「つまりそういうことだよ」


 ……いや、どういうことだよ。

 心の中でツッコミが治まらない。これが新見さんや祐澄さんが持ってるものってこと?

 けど、季節とは一切関係ないと思うんだけど。


 ふと気がつく。さっきまで顔色一つ変えなかったくるみの表情が、若干だが緩んだような。

 あたしの手の中でくるみの指が鍵盤を弾くような動きをしている。彼女の脳内では、何かの曲が流れているのかもしれない。ピアノは確か弾けなかったはずだけど。


 何かを持っていたい年頃なのか、ただ甘えているのだけなのか。


 甘えっていうのはくるみっぽくないな、とあたしは思う。こいつは自由奔放な馬っぽい。臆病なハリネズミとか、斜に構えたキリンとか、そういうところはほとんどなくて、自分の楽しみのために広場を駆け回っている様子だけがイメージとして浮かんでくる。

 そんなのが何かを持っていたいなどと繊細なことを思っているのは、やっぱりそういう年頃だからなのだろうと結論づけた。時期、という意味で。

 その時期というものに思い当たる節はあったけれど、それがどういう接点を持っているのかわからず、また思考していると、くるみの口からその単語が出てきた。


「文化祭ってもう一週間後だよね」

「ん? ああ、そうだっけね」


 虚ろに白を切ってみる。


 あたしたちの通う高校の文化祭は秋に行われる。十月の最終土、日を利用し、校内だけに解放される前夜祭と、一般公開される本祭で予定が組まれている。ちょうど、来週の今日がその前夜祭にあたるが、あたしにとって大した行事ではなく、興味もあまりなかった。


 曖昧な返事をしたあとに、会話がいったん途切れる形になった。


 ベンチに座る二人の女子。無言のままその手は繋がれていて、哀愁を漂わせながらありふれた街並みを眺めている。

 傍から見れば、そこには仲睦まじさを感じるだろうか。あたしとしては、変な奴らだと思ってチラッと見るに留めてほしいところである。誰かに見られでもしていたら、恥ずかしくて死にたくなるでしょ。


 あたしはキョロキョロして公園内を見回した。あいにく、この公園は人気があると言えた場所でもないので、あたしたち以外、人っ子一人いなかった。

 杞憂に終わって、ふうっと息をはく。そろそろ続きを話してくれると助かるんだけど、と思って、あたしは頭のなかで一、二、三とかぞえて、十まできてもくるみは何も言いそうになかったので先に問うた。


「それがなに?」


 ちょっと冷たい言い方になったかなと思って、言下に言い直す。


「持ってるどうのこうのって話に関係あるんでしょ?」


 やや間があって、くるみは緊張から解放されるように、ふへー、と大きく息をはいた。

 そのあと深く空気を吸う。肩が上がって、下がった。


「ううーん。まあ。……まだ描いてないんだよ」

「描いてない? なにを?」

「美術部の文化祭の出し物。秋をテーマにした創作」

「へー。そんなのあったんだ」


 それは初耳だ。


「……で?」

「え、で? って……。来週の金曜日までに提出になってるんだよ?」

「描いて出せばいいでしょ」


 違うの? と思ってすまし顔を決めてみせる。


 くるみは困ったように、眉を八の字にゆがめた。


「……描けないんだよ。こんなに描けなかったことがなかったから、どうしたらいいかわからなくて」

「ほお」


 これは人によっては贅沢な悩みだと妬まれやしないか。


 あ、そうか、とあたしのなかで腑に落ちた。くるみが落ち込んでいたのは絵が描けなかったからなのかと、ようやくそこで理解する。

 持ってるどうのこうのっていうのも、好調なクラスメイトを自分なりに客観視してみて、辿り着いたくるみなりの答えなのだろう。なんかがなんなのかわかっていないところが、余計にそれっぽい。それで秋を飛ばして、より貴重なフライング冬を探そうと思ったわけか。


 まるで草原の上で草原を探している馬のようだと思った。


 姿勢の悪い俯きがちなくるみを見据え、あたしは胸のなかのままならない考えを、無理矢理一纏めにして言った。


「やっぱり描けばいいんじゃない? 止まってたって、前には進まないんだから」


 こんな言葉が何の役に立つわけがないけれど、やってみるだけやってみろ、ということは伝えたかった。

 すると、あたしの答えを聞いたくるみは、目を丸くして微動だにしなかったので、一瞬時が止まったんじゃないかという錯覚に陥ったあと、あっはっは、と笑いはじめた。


 突然のことであたしの方が目を丸くしてしまう。どこに笑いのツボがあったのか、皆目見当もつかなかった。

 ひいひいしているくるみは、服の袖で涙を拭いて、ベンチに座り直したと思うと、零れ落ちそうな笑みを湛えてこちらに向き直った。


「すずきって、やっぱすずき! って感じだね」

「なにそれ、褒めてる? けなしてる?」

「褒めてる褒めてる」


 軽々しい口調でそう言うと、あたしの手を離して、くるみは立ち上がった。

 覆いかぶさるものがなくなったあたしの手が、なんでか寂しくベンチにコトンと落ちる。手のひらがやけに寒く感じた。


 くるみはトントンと前に進み出て、つま先立ちをした。きゅっと、彼女のアキレス腱が浮き上がる。さほど運動はしていないはずなのに、細く引き締まった足首に目を奪われた。


「そっか、描けばいいんだよね。そうだよ、そうだ」

「ねぇ、ちょっと。自分一人で解決しないでくれる?」

「なにが? なーんも問題なかったけど」

「はあ?」


 あたしは大仰に眉をひそめてみた。

 振り向いてあたしの顔を見たはずのくるみは、にっと口角を吊り上げて、太陽に似た笑みを浮かべた。機嫌悪そうにしてみたのに、こいつはまったく意に介さない。

 どうやら彼女のなかで靄が晴れたらしいのはわかった。その表情に、「数瞬の間」は似合わなくなっていたから。なんて自由人なんだと呆れてしまう。


 けれど、まあいいかとなる。

 今までだってくるみに振り回されて、結局何が何だかわからないうちに彼女は笑顔を取り戻していることがあった。そのたびにあたしが思うのは、凡人には理解できない領域のことを非凡な人に聞いたって意味がない、ということ。最後まで疑問を持って納得できずに終わる自信があたしにはある。

 ショートケーキのいちごを先に食べるか取っておくか、そういうのにちょっと似ている。


「まさか、冬探しもお終い?」

「うん、そうだね。まあ、すずきがどうしても探したいって言うならつきあうけど」

「……いや、遠慮しとく」


 あたしの反応にケラケラ笑うくるみの顔が、途端に真面目なものに変わった。

 表情もころころと忙しい奴だ。


「ありがとね、すずき」

「はぇ?」


 何か感謝されるようなことしたかな。

 重ねに重ねられた意味不明に釈然とせず、あたしは口を尖らせた。


 夏とは違う、てっぺんにはほど遠い太陽が、地上に正午の影を落とす。風に乗って、甘い金木犀の香りが鼻孔をくすぐった。


「私も、冬を探すことよりも大事なのもの、ちゃんと持ってたんだって、」

「はあ」と、あたしはほとんど脱力して返事した。


 まったく、こいつの考えは読めないものだなと思う。それはたぶん、この先も同じようなものなんだろう。ため息混じりで彼女を見つめる自分の姿が、容易に想像できてしまった。なんていうお人好しなんだ、あたしは。


 それでもまた、まあいいか、となってしまうところに、あたしはあたしで、凡人の中の凡人なんだと実感する。結局のところ、最後まで話す気も聞く気もあたしにはなくて、こいつにもなくて、なあなあに済ませて、普通の日常が戻ってくることに感謝してしまっている自分たちがいるだけだった。


 あたしは心の中であたしを嗤った。


「今日のお礼にジュースでもおごってしんぜよう!」


 明るさ満点で、ポジティブシンキングを表面に塗り直したようなくるみが、偉そうに言ってきた。


 イラッとするはずもなく、

「……お言葉に甘えさせてもらうよ」

 と断る理由もないので、素直に応じてあたしはベンチを立った。


 公衆トイレの近くに一台だけポツンと設置されている自販機の側面にはオレンジ色でDyDoと書かれている。

 それに寄っていくと、前面に並ぶ見本の少し下を見て、あたしたちは、「あっ」と同時に声を上げた。


 くるみはあたしの顔を見て、また自販機に視線を戻す。


「ねえ、すずき。これってさ、そうだよね」


 あたしはちょっとだけ考えて応えた。


「……うん、まあ、ちょっと早い気もするけど、そういうことでいいんじゃない」


 ふへへ、と笑いながら、くるみが自販機に寄っていく。


「せっかくだからこれでいいよね?」

「せっかくだからね」


 よしよしと、くるみは購入ボタンを押した。下の方でガコンと音がして、取り出し口から飲み物を出すと、それをあたしに渡してくる。受け取ると、「あちっ」となって両手で交互にペットボトルを回した。


「あったか~い、っていうより、あっつーいだよね」

「そりゃそうよ」


 蓋を開けると、林檎の熱気が上品に香り立つ。こくっ、と飲んだアップルティーは、さすがのあたしでも熱いなって思った。


 自販機の前で二人で並んでアップルティーをちびちび啜る。ふと、くるみが言ってきた。


「そうだ。すずき、私の絵のモデルになってよ」

「モデル?」


 もしかして、文化祭の出し物にあたしの顔の絵でも出すというのだろうか。そんなこと堪ったものじゃない。


「いやよ」


 急いで拒否を示すが、くるみの方も食い下がってくる。


「なんでー? 減るもんじゃなし」

「たとえ増えてもそれだけはいや」

「んー、ちぇー」


 不服そうなくるみは、アップルティーをガバッとやけくそ気味に飲み干した。


 断るのは当たり前だろう。だって、もし金賞でも取られてしまったら、あたしの顔が学校中に知れ渡ることになってしまう。……あれ、けど、この言い方だと、あたしの顔がさぞ整っているみたいで、それは違うやとなる。たとえ美形でも、嫌なものは嫌なんだけど。


「自分の顔でも描いてればいいでしょ」

「すごい。すずきって、なんでそこまで悪魔みたいなこと言えるの?」

「は? なにが?」


 あたしそんな厳しいこと言ったかな……。くるみの顔はそこそこ整ってるって意味も含めて言ったつもりだったんだけど。


 蓋を閉めたペットボトルをゴミ箱に捨てたくるみは、物足りなさそうに口をもごもごしている。んー、と唸りながら、顎に指を当て考えるような仕草をすると、何かに閃いたのか勢いよくこちらを向いた。


「アップルパイが食べたいよ、すずき」


 アップルティーに感化されてアップルパイか。流れ的には間違っていないような気もするけど、それにしても急だなと思う。


「勝手に食べればいいでしょ」


 あとは一人でどうぞ、と思って言ったのに、くるみは真反対な解釈をしてしまったようだった。


「よし! 今度はケーキ屋探しスタート! 行くよ、すずき」

「えあ、なんで? 勝手にしなって言ったでしょ」


 白黒しそうになる目の焦点を、くるみの顔になんとか合わせる。こいつほど解釈の難しいことを言った覚えはないのだけど、当の本人は、頭の中が疑問符でいっぱいそうな表情でこちらを見つめていた。その顔をしたいのはこっちだっていうのに。


 あたしはそっぽを向いて、ため息混じりに言った。


「わかったわよ。行けばいいんでしょ」

「そうでなくちゃね。じゃあ、すずきのおごりってことで」

「は? なんで?」

「私はおごったよ」


 くるみの人差し指が緩やかに上がっていく。指し示す先は、ご存知の通り自販機だった。

 もう何度目だろう。あたしは盛大にため息をついて、楽しそうに歩きはじめるくるみの背中を目で追った。振り回されっぱなしだ。今日は特に。


 公園を出たところで、くるみが「あ、そうだ」と言って立ち止まった。少し遅れてあたしも止まって振り返ると、彼女の視線がイチョウの木にあることに気がついた。

 またよからぬことでも企んでいるのかと勘ぐって、険しい視線を投げると、彼女は腕を組んでしばし黙っていた。それから、


「すずきさ、絵のモデルにはならなくていいから、あのイチョウの木の横に立ってくれない?」

「なにを企んでる?」

「すずき、考えすぎー。木の高さを測っておきたいだけ。お願いだよ。いいでしょ?」


 継続して疑いの目を向けて、あたしは少し考えた。

 どうやら描くものはイチョウの木にしたらしいし、こちらが迷惑するような事態にもならないだろう。


「まあ、そのくらいなら……」

「やったー!」


 くるみは満足そうに顔をほころばせた。

 あたしはそろそろとイチョウの木の下へ進んだ。

 くるみは少し遠くから、「もうちょっと右」、「木を触ってみて」などと指示を出してくる。


「あ、そこでストップね。動かないで!」


 そう言うなり、くるみはタッタッと、あたしとイチョウの木から離れていく。

 訝しんで目を細めていると、彼女の両腕がゆっくりと持ち上がるのが見えた。両の親指と人差し指で長方形を作り出す。ちょうどカメラのフレームのようになって、あたしはまんまとしてやられてしまったことに、やっと気がついた。


「おい、こら!」


 咄嗟に叫ぶと、くるみは、


「わー、すずきが怒ったー。でも、遅かったね。ばっちり、私の脳内に今の映像が保存されました」


 と嬉々と笑って、小走りに離れていく。

 はたとして、あたしも走り出した。


「ちょっと待て、お前! 描くなよ、あたしを!」

「さぁ。どうしようかな?」


 ギリッとあたしは奥歯を噛んだ。一度調子に乗せたら、どこまでも乗っていくのがくるみだ。今すぐ捕まえて説教しなくては、本当にめんどくさいことになる。

 しかし、あたしはケーキ屋に着くまでくるみを捕まえることができなかった。ケーキ屋が目的地だったから捕まえたとも言えないか。

 それまで全力疾走していて呼吸が荒れていたので、説教ができなかったのは言わずもがな。加えて運動の後遺症でケーキが喉を通らないという、散々な一日となった。


    ★


 美術部の展示は、一年の教室があるフロアの多目的ホールという所にあるそうだ。

 あたしは、土曜日の前夜祭の日に、一人でこっそり覗きにいってみた。


 フロアには、今までどこに置いてあったのか、移動式の巨大な展示板があって、そこに美術部員が描いたであろう作品が並んで掛けられていた。

 入ってすぐ、一際目を引くところに、赤と白の花紙で作った花が、作品の四隅に据えつけられている。作品の下には、金賞と書かれたシールも貼ってあった。


「くるみがこれを描いたんだ……」


 絵のタイトルは、「私にもあるよ」。


 製作期間が短かったため、多少ぼかした作風になっている。ちょうど、クロード・モネの霧の中の太陽がそれに近かった。

 キャンバスには、あの日行った公園のイチョウの木と、その下に、小さく人の様子が描かれている。


 さて……。あいつは何があると言いたいんだろう。


 あたしは頬を掻いた。


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