第1話 ようこそ、新世紀へ(4)

一、夜明け(4)



AM5:30



 遠い日に忘れてしまった記憶がある――


「ハルちゃん」


 ……


「ハルちゃん」


 誰だろう? 私を呼ぶ声がする――


「ハルちゃん。おきて」


 ……お母さん? 

 お母さんの声。


 お母さんの匂いだ。懐かしいな――


「ハルちゃん。起きなさい」


 髪を撫でる優しい手のひら。


 ずっと、こうしていたい――


「ハルちゃん。

 私はもう行かなくちゃいけないわ」


 どこに? だめ、もう少し。

 話したいことが、いっぱいあるの。

 

 お母さん。あのね―― 

 

 ちっとも口が動かない。言葉が出ない。


「泣いちゃダメ。大丈夫よ。

 この宇宙にいる限りあなたは一人じゃない。いつも見ているわ」


 お母さん……

    あのね……おかあさん――



「お母さん!!」



 虹彩がキュッとしぼむのがわかった。

 初めて目を開いた瞬間もそうであったのだろう。あふれた光で視界が真っ白に膨らんだ。

 

 目じりにできた涙の痕を拭う。


 ――何か悲しい夢を、見てたの?


≪ハルちゃん≫


 ベッドポッドのガラス扉が開いている。


「もう起きる時間だっけ? ヴィヴィ」


≪いいえ。だけど先ほど、緊急避難指示がコロニーに発令されました≫


 枕元の「ヴィヴィ」と名付けられた、AI端末が答える。

 AI特有の不気味さを感じない、綺麗な女性の声だ。


「緊急避難指示? お父さんは――?」


 そこまで言ってようやくコロニー内に、けたたましく鳴り響く非常警報のサイレンに気づく。


 ――ウーゥー……

  ――ウーゥー……――

 

 と、コロニーの密閉された試験管の中に反響する、いつまで経っても行っては返るコダマが、幾重にも重なり増え続ける。


 ≪もう、お家を出ていかれたみたいです≫


「大変っ! 抜き打ち訓練?

 ヴィヴィ! お父さんに通話つなげて!」


 ベッドから飛び起きた。


 ヴィヴィをチェストの天板の上、部屋の壁に斜めに立てかける。その鏡面処理されたタッチパネル画面をのぞき込む。

 鏡替わりに自分の顔を映し丹念に観察した。


「いつも通り! 大丈夫」


 パチッパチッ――


 二回両手で自分の両頬を強く叩くと、すっかり目が覚めた。

 それが毎朝、彼女のルーティンだった。


≪先ほどから連絡を試みていますが、繋がりません≫


「――ええっ!?」


≪まぁま。落ち着いてハルちゃん。

 いつも通り。オスカルスーツのチェックしっかりね≫


「大丈夫よ。やることなら分かってるわ」


 いつもパジャマ代わりに着ている、スウェット地のハーフパンツをいそいそと脱ぐ。

 グレーのボクサーパンツの下の両方の内ももに、やたらと目立つ黒字で彫られた血液型を表す「О-RH+」の小さいタトゥーが目を引く。

 ハーフパンツをベッドポッドの枠に投げてひっかける。


 ――ピピピ


 不意に、チェストに立てかけたヴィヴィが、電子音を鳴らした。


 ≪ハルちゃん。カスミちゃんから通話よ≫


 チェストから透明の薄いビニール袋に包まれたものと、ゴチゴチとゴワついた分厚い素材の明るい黄色のオスカルスーツを両手に抱えて引き出し、床に落とす。


「繋いでっ!」


 付属の金属でできた部品を、両手いっぱいに抱えてヴィヴィに答える。


“ハル―! 起きてる?”


「おはよ! いまおきたとこ! 抜き打ち訓練?」


“分からない。

 でもパパに緊急招集がかかったみたいで、さっき港に戻ったわ”


 ヴィヴィのタッチパネルスクリーンには、幼馴染で同級生のカスミ=アンダーウッドのバストアップが映る。

 

 黒に薄く緑がかり、ボブスタイルにカットした髪の毛。そして赤い緑の眼鏡をかけている。それが彼女のトレードマークだ。


 今はすっかりオスカルスーツを着込んで、あとはバイザーヘルメットを被り、グローブを装着すれば避難装備が整う。


「うちのお父さんもそうみたい。

 他のみんなは?」


 パジャマ着のTシャツを脱いだ。


 両肩とみぞおちのあたりに、内ももと同じ血液型を示す小さなタトゥー。

 その周りには余計な脂肪のついていない、細身の体型。しかし、しっかりとした筋肉が備わった健康的でしなやかな16歳。

 ピンクがかったブロンドの肩甲骨まである長い髪の毛を、一度両手でかきあげるとヘアバンドでそれを後ろに手早く束ねた。


“それも分からない。電波障害が酷くて連絡がつかないのよ。

 やっとハルにつながったところ”


 透明の薄いビニール袋を手に取ると、両手で乱暴に引きちぎる。中からは真っ新な上下一体型の、濃い灰色のアンダースーツが出てきた。


 ――一瞬、手が止まる。


「電波障害……? 訓練じゃないの?」


“――ハルっ!”


「ん?」


 カスミが突然声を荒げる。


“アンタ……おっぱい。そんなあったっけ?”


 意地悪さを絵にかいたように勝ち誇り、カメラに自分の胸を強調してみせるカスミ。


 キョトンッとした表情を見せるハル。だが、理解が追い付くに連れ次第に頭に血がのぼる。

 頬を「プゥ」と膨らますと、力任せに投げつけたTシャツで天板に立てかけた端末を倒した。

 

“――ごめんごめん。じょーだんよ。可愛いやっちゃねーアンタは”


 からかい半分に、誠意の全く感じられない謝罪が返ってくる。


“ママとC-3シェルまで避難するんだけど、アンタも一緒に来るでしょ?

 大通りまで出てきなさいよ。そこで合流しよ?”


「わかった!」


 不機嫌な返事を返すハル。


“なんだろ? なんかいつもの訓練と違って、様子が変かも。

 ハル、気を付けてね。待ってるから”


「位置情報出しといて。必ず行く。カスミも気を付けて」


“おーけー。んじゃ、また後で”


 ――ピピン


≪――通話を終了しました――

 バンコク街大通りまでのナビゲーションルートの検索を開始します。

 ――ハルちゃん。正規の避難経路はどこも少しづつ、交通規制が始まってるみたい。回り道して徒歩で、んー……15分ってところかしら≫


「おーけー!」


 肌の上に、直にアンダースーツを着込み前閉じの密閉型ジッパーを首元まで上げる。手首のリングを回すと、シュッと空気が抜け身体にぴったりと吸い付いた。

 その上からボトムと、トップに分かれたゴワついた素材のオスカルスーツの、まずはボトムを履いて、肩からサスペンダーで吊り下げて固定する。

 アンダースーツから何本か伸びるコードの端子を、ボトム内側のソケットに差し込む。

 硬いプロテクターと分厚いソールが一体になったブーツを履いて、金属製のオス型シリンダーを、ボトムの裾のメス型シリンダーと「カチャン」とはめ込んでロック。

 更にオスカルスーツのトップを頭からスッポリと被り、胴回りのシリンダーをボトムと音が鳴るまではめ込み、大型バックルで固定する。


「ロックOK。触診、巻き込みなし。電子機器、端子接続――」


 この時点で、オスカルスーツの生命維持装置に電源を入れる。

 

 ボトムの左腰に装備されたホルスターに収まっている「大型リチウムイオンバッテリー」の、炭素繊維でできた大きめのつまみスイッチを強く引いて右に回す。

 アンダースーツに通電して、少し全身がピリピリする。静電気を帯びて、全身の産毛が逆立っているからだ。すぐに慣れる。

 

 しばらく待つとトップの左わき腹と、両前腕部の情報表示パネルに光がやどり


『警告:――腕部グローブの接続が検出されません――

 警告:――頭部バイザーヘルメットの接続が検出されません――』


 の赤い文字警告表示と、全身の装着図式マップでグローブとバイザーヘルメット部を赤くマッピングする図式警告とが交互に表示される。

  

「――電子機器。端子接続確認。OK」


 背中と一体型になったバックパックには、「圧縮空気タンク」「生命維持装置を制御、管理するCPU」「真空でもコミュニケーションが取れる通信装置」「緊急時のビーコン」それと両サイドに引き出して使用できる「スラスター推進装置」がまとめて装備されている。

 それらに異常がないことを順番にチェックした。


 ポニーテールに纏めた髪の毛を挟まないように、さらに黒色のヘアネットで小さくお団子にまとめバイザーヘルメットを被り、トップと固定する。

 最後に両手のグローブを着けてトップの袖口とシリンダーで接続した。


 一度、ヘルメットのバイザーを下げて密閉を確認。しっかりと圧縮タンクから酸素が供給され、呼吸が可能かチェックする。


“空気漏れなし。気密確認OK。酸素供給装置に異常なし”


 グローブをはめた手で、部屋の窓を軽く叩いてみる。

 左手で二度。次に右手で二度叩く。左左、右右、左左右右、交互に何度も。

 その度にバイザーヘルメットに装備されたヘッドセットからサラウンドに


 “――コンコン。――コンコン。”

 

 とガラスを叩く音がクリアに聞こえる。


“外部収音マイク、ヘッドセット異常なし。通信装置異常なし”


 ヘルメットバイザーの顎部のスイッチを右手で引き揚げながら、首元の大きな二つの赤色と、青色のスイッチを左手の人差し指と中指で両方同時に押し込むとバイザーが上がる。

 ヘルメット顎部の酸素供給口から、圧縮された酸素が一瞬漏れ出しサッとハルの前髪を弄んだ。


 酸素を無駄にできないので、チェック時と緊急時以外は基本的にバイザーは上げたままだ。が、緊急時に真空状態や、有毒ガス、その他の危険をセンサーが検知すると、自動でバイザーが下がり気密を維持する仕組みである。


 先ほどまで横になっていた、ベッドポッドのマットレスを剥がすと、収納スペースが備えてあり、四角い非常携帯用バッグが収めてある。

 それを取り出しオスカルスーツの右腰部分と、大腿部にまたがって金属製の大型カナビラで四方を固定すれば、避難の準備は完了である。


 着てしまえばすこぶる軽く、少し厚めの服を着ているくらいなシルエットである。ゴワついた感じもなければ、肩や股関節、足首、手首や、指先の可動範囲を制限することもない。

 完璧にハルの体型に合わせて製作された、オーダーメイドである。


 着心地を確かめながら、各部に異常がないか目視で確認する。


「――目視による異常は、無し。と」


 

 ――余談だが、ハルが訓練されているとはいえ、このタイプのオスカルスーツは自力で15分少々の時間があれば準備を整える事が出来る。

 

 そしてこの装備で、たとえ宇宙に単独で放り出されたとしても、四日間は救助を待ちながら、生命を維持できる。


 だが。ひと昔前まではそんな未来が来るなんて、誰も信じなかった。


 前大戦(休戦中ではあるが)が始まるまでの、スペーススーツ(宇宙服)ではまず不可能な事だった。

 数人がかりで数時間も着用に時間を要した旧時代には、「いつ」「なんどき」おこるか分からない如何なる緊急時にも備え、常時スペーススーツの着用が義務付けられていた。

 

 宇宙に住む人々は、今よりもっと分厚く窮屈で不便なそれを常時着用し、酸素供給ホースと電源コードに繋がれたまま、一生を過ごしたのである。

 

 シャワーも浴びれず、寝るときも食べるときも、男女が愛し合う時ですらも、一切それを脱ぐことが許されない。そういう時代が宇宙開拓時代初期の20年を過ぎてから、大きな戦争が始まるまでの50年間近く実際にあったのが「死の半世紀」である。


 「単独」で、より「単純」に、簡単に「着脱」でき、コードやホースに縛られず、「自由」に動ける。しかし、たとえ


「――何もなくなってしまった」

(宇宙では光や物質はおろか、自分が生きているのか死んでいるのか、または自我すらも喪失し何も感じられなくなることが度々ある。そうした現象の主観的表現)

 

 そんな状況の中でも、最後まで個人を守る砦になるように生命を維持する必要最低限度の性能にこだわり続けた。

 

 その結果、オスカルスーツ(スーツの開発者。オスカル=ブラーナの名前が冠された。オスカル型スペーススーツの略称)が産まれた。


 より高度な、現代のオスカルスーツへ進化する過程を、大幅に圧縮できたのは戦争の影響が大きい。

 しかし、それ以上に「死の半世紀」で体験したトラウマが、スーツの基礎研究に妥協を許さなかった。

 教訓は余すところなく、全て詰め込まれたといっていい。

 人々が宇宙で生き、宇宙と共にあるとはどういう事なのかを、このスーツの歴史は端的に表現している。

 


 ――ひと通りのチェックを終えると、チェストの天板にTシャツが被さったままで倒れているヴィヴィを拾い上げ、左前腕部にある情報端末のソケットに、「カチャン」とスーツ越しに音を感じるまで差し込んだ。


 何か忘れ物がないか、しばらく確認してようやく部屋を出ようとしたとき、不意に視界に入るものがあった。


「……?」


 振り返ると、チェストの天板の上にいつも全く気にも留めていなかった母の写真が、ガラス製の写真たてに入りこちらを見つめている。


 写真の中だけで、こんな顔だったかも正直覚えていない。

 この人が母だという実感もほとんどない。


 育ちのよさそうな顔立ち、綺麗なブロンドの髪、艶のある肌、長いまつ毛。

 いつもそこにいて笑顔で私を見ていた。


「――……あなたも、一緒に来る?」


 何となくそう問いかける。

 写真の顔が、不思議と少しうなずいて答えたような気がする。


 腰にぶら下げた非常携帯バッグの頑丈なリッドをひらくと、写真たてごと強引に突っ込んだ。


 しばらくして、エントランスのドアが勢いよく開いて閉まる音が、居室とマンションのロビーに響き渡った。


 非常警報のサイレンは、何度も何度も反響して止まなかった。

 クルクルと影を弄んでいた鈍い太陽の光は、次第に人口太陽の光に飲み込まれ、それが生み出す影も薄くなっていくのであった。

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