第3話 灰皿
狼は狩りを群れで行う。
逃げる獲物を追い立て、複数で囲み、徹底的に弱らせる。決して逃がさず、確実にトドメを刺す。
「はぁっ、はぁっ!」
浅葱色の法被を羽織った集団に追い立てられる少女は、疲労と負傷を押し退けて懸命に足を動かす。
少しでも人通りの多い方へ。
そんな当初の考えは消え去り、今はまるで宛てのない逃避行の真っ最中であった。
既に三人。通りすがりというだけで出合い頭に斬って捨てられた。
何の関係もない人を、気にする様子もなく。
「もう、最悪!」
切欠は、正義感。
部活動のため高校へ向かう最中、数人のチンピラに同じ高校の男女が絡まれ、そして無理やり連れていかれそうになったのを見かけた。幼い頃から剣の道に立ち、警察官でもある厳格な父親の背中を見て育った以上、悪を見逃す――そんな選択肢は端からなかった。
動機は、日々の鍛錬。
実家の道場と部活動。幼い頃から飽きるほど振るった剣を役立てる機会が巡ってきた。悪漢どもを叩きのめし性根を正す使命を感じて、木刀を強く握りしめた。
しかし、結果は――
「っ!!」
先回りした男が目の前に飛び出す。
振りぬかれた凶刃を間一髪で躱した。
頭上を通り抜けた刀身から逃げ損ねた髪の毛が数本宙を舞う。隙だらけの足元を返しの刃で払い、転倒した男の脇を通り抜けようとする。
「え」
「捕まえた」
倒れた男に足首を掴まれ、セーラー服の少女――高村斗貴子は態勢を崩す。咄嗟に手をついたので倒れはしなかったが、手放した愛刀は遥か先に転がっていった。
取りに行こうと力を込めた足に男の両腕が絡みつく。
しまった、と思った時には既に手遅れで、不意を打たれた斗貴子は倒れてしまった。
「ひっ」
剥き出しの太ももに生暖かい男の吐息が当たり、小さな悲鳴が漏れる。今まで感じたことのない生理的嫌悪感を前に行き交う白刃よりも恐怖し、そして震えあがった。
地に落ちた飴玉に群がる蟻ように、動けない斗貴子に浅葱色の男たちが近寄ってくる。
「確認するぞ」
リーダー格の男が斗貴子の前髪を掴み、上に持ち上げる。
カタカタと歯の根が合わない斗貴子と写真を何度も見比べた男が首を縦に振るのを見て、リーダー格の男は斗貴子の頬を平手で打つ。
「手古摺らせやがって」
斗貴子を無造作に投げ捨て、リーダー格の男は煙草に火をつける。
「これで、折れるな」
紫煙を吐き出しながら斗貴子を足蹴にする様を見て、周囲の男たちからは嘲笑が漏れる。
斗貴子の反応を一通り楽しんだ男たちは再び斗貴子を起き上がらせる。
「隊長、そろそろ誅しますか」
「あー、どうする。どうして欲しい?」
隊長と呼ばれた男は、ニヤニヤと厭らしい笑みを張り付けたまま斗貴子に顔を近づける。
その背後に立つ男の手には剥き出しの白刃とハチマキのような薄い布――それが目隠し用だと囁かれ、斗貴子の震えは一層激しくなる。
基本的に漂流世界で人間は死なない。
例外はあるが、文明社会ではその例外に遭遇することは滅多にない。殴打され全身が腫れ上がっても、全ての血を失っても、現実世界に戻れば元の健康体に立ち戻る。
「バッサリ、いっとくか?」
しかし、だからと言って、死の恐怖は消え去るものではない。
双眸から流れる大粒の涙を拭いもせず、斗貴子は言葉を紡ごうとする。
言葉は喉に引っ掛かり、上手く出てこない。
男たちは掠れる声を聞き取れなかったが、どういった趣旨かを想像して嘲り笑う。
「灰皿」
隊長は斗貴子の目の前に短くなった煙草を差し出す。
「灰皿、持ってきてねえんだ。火事になったら困るだろ。だから、灰皿になってくれよ」
そう言うと、斗貴子の右目に短くなった煙草を近づけていく。
クスクスと含み笑いが鮮明に届き、孤独は一層に強くなる。
「いや……、誰か……」
煙草の熱を鼻先で感じた瞬間――カッと、何かが目の前を通り抜けた。
「は?」
それが何か。
「おいおいおいおい!」
今の斗貴子には知る由もなかった。
ただ、自身に迫っていた煙草はアスファルトの上に転がっていた。
「俺の、俺の腕が!」
それを握っていた男の手首ごと。
隊長の手首から鮮血が噴出し斗貴子の顔を真紅に染め上げる。
瞬時に広がる鉄錆の臭いと生暖かい液体を浴びた斗貴子は、強張った全身から力が抜けていくのを感じつつ、精神の奥深くへと意識を沈めていった。
「……雑誌?」
アスファルトに突き刺さった二つ折りの紙。
観光案内に使われる綺麗な夕日の写真。
それが薄れゆく意識の中、最後に斗貴子が見た光景であった。
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