ナディと妖蛆使い

 当然というべきか、ナディの反応は激烈な拒絶だった。

 病に侵され、うまく動かぬ口では不明瞭な言葉しか吐けなかったが、代わりにまだ動かせる手足や顔を使って、全身で蟲使いへの嫌悪を表していた。蟲使いが背負った壺籠ころうの蓋を開け、中から何やらぬめった触手のようなものがぞろりと這い出るのを見るに至っては、固く歯を食いしばったまま絶叫するという、器用なことさえやってのけた。

 結局、娘があまりに取り乱すものだからと、ジャクバの妻ハエルが、男たちを部屋から追い出すに至り。

 すごすごと居間に退却した男三人は、昨夜と同様テーブルを囲って、次なる手をあれこれと議し始めた。

 やはり家父たる己にこそ決定権があると主張するジャクバ。患者の承認は欠かせぬと譲らない蟲使い。ジャクバがひとりで説得すると言えば、蟲使いは自分がそれをやると申し出た。ノジームは終始、ただ眠そうにしている。

 押し問答の末、このままでは埒が明かぬとして、ジャクバが妥協案を持ち出した。

 基本方針は説得。まずは申し出通り、蟲使いが娘の部屋へ入り、ハエルの監視下でナディと話す。それで娘を翻意させられればよし。叶わなければ、ジャクバに交代する。

 ジャクバとしては、どうせ自分が行けば父権でねじ伏せられるという確信があるのだから、先手を譲ったのは蟲使いを黙らせるための方便に過ぎない。

 その思惑を、知ってか知らずか。蟲使いは背中の壺籠を下ろし、居間の隅に置いて言う。

「彼女がを怖がるようなので、いったん置いてゆきます。どうか触れられませぬよう。素人には危険なものゆえ」

 先ほどの一幕でナディを恐慌に陥れた、あの触手めいた何かの影が、ジャクバの脳裏をよぎった。

「その、中身は……いったい何なのだ?」

「〈妖蛆オルミス〉です。名は、ラドウィク」

「〈妖蛆〉……?」

 呪術師はしばしば使い魔を用いる。蟲使いというからには、何らかの蟲を使役するのだろうと思っていたが、〈妖蛆〉という生きものを、ジャクバは知らない。

 愛おしげに籠を撫ぜ、蟲使いは陶然と語った。

「われらの同胞はらからにして半身たる蟲とは……古代の賢人たちが、神器〈血脈の槍エランヴィタール〉を用いて作り出した、の末裔。〈妖蛆〉もそのひとつなのです」

 道具としての機能を持つ、生命の創造。一介の農夫に過ぎぬジャクバが想像したこともない、神代かみよの叡智であった。

 もしかしたら呪術師たちは、里長でさえ知らぬ〈樹界エルシノア〉の古き秘密を、いまに語り継いでいるのではないか――。

 畏怖に似たそんな直感を、強いてジャクバは振り捨てる。敢えて深淵を覗く意味などない。彼の興味はあくまで、世界の真理よりも俗世の権勢にある。

 かさり、と壺籠が小さく揺れて、それきり静かになった。

「……では、参ります。私が説得に当たるあいだ、お二方は決して、部屋を覗かれますな」

 言い置いて、蟲使いはナディの部屋へ入ってゆく。

 意図を探る目でその背を見送ったジャクバは、もしナディの悲鳴でも聞こえて来ようものなら、すぐさま飛び込もうと腹を決めていた。もっとも、そんなことをするまでもなく、蟲使いは何もできずにまた追い出されてくるだろうと踏んではいたのだが。

 数分待てば己の出番が来ると思っていたジャクバは、しかし思いのほか長く待たされることとなる。



 ふたたび蟲使いが部屋に入ってきたとき、ナディが悲鳴を上げなかったのは、単に口が動かず、うまく声を出せなかったからに過ぎない。

 十五の娘が暴漢に操を汚されたというだけで、すでに、心がひび割れるに充分な出来事である。父と兄が仇を討ってくれたことで、いくらか留飲を下げはしたが、あの日の恐怖も屈辱も、とうてい消えはしない。

 その上に、二重の凌辱がもたらしたという病が傷痕から毒を発し、彼女の口をまともに動かなくしてしまっている。

 毎夜、雨季の大樹のごとく寝汗を流しながら、息苦しさも痛痒も、唸り声でしか訴えることができない。わずかな音と光に神経は弾け、痙攣とともに浅い眠りから目覚めては、また身じろぎひとつできぬまま、悪夢の中へ落ちてゆく。イオズフに裏切り者と罵られ、捨てられる夢。雲海の底から這い上ってきたモラハンに、ふたたびこの身を貪られる夢――。

 耐えられるはずがなかった。

 だというのに――さらなる辱めを受けよと、父は言う。よりにもよって、汚らわしい蟲使いなどにからだを任せろと。

 聖樹の枝から身を投げようと思わなかったのは、ひとえに夫婦めおとの誓いを交わしたイオズフへの未練おもいゆえ。愛の支えがなくば、とうに自死を選んでいる。

「なんど……きても……おなじ、です」

 破傷風テタルのせいで固く噛み合わされたままの歯の隙間から、使える言葉を注意深く選んで、押し出す。

 蟲使いが例の壺籠を持って来なかったことに、ナディは気づいていた。殊勝な心遣いである。だからといって、治療を受け容れる気になどなるわけがない。施術に臨めば、結局が股座を這い回ることになるのだから。

 蟲使いは黙したまま、ゆっくりとナディの寝台に近づいてきた。母のハエルが警戒もあらわに睨みつける。ナディの角度からは、母が後ろ手に隠し持った包丁が見えていた。樹上では希少な金属の、薄い刃が震えている。

 害意のないことを示すように、空の両手を母子に見せてから、おもむろに、蟲使いが

「あっ――」

 昆虫の複眼を模したというあの赤い面簾が、ナディは恐ろしかった。きっとあの奥には蟲使いらしく、醜くねじれた化物のような、卑しい顔があるに違いないと思っていた。

 いま、ナディはまじまじと蟲使いの貌を見る。

 醜くは、なかった。卑しいどころか、高貴とさえ映った。

 愛しいイオズフのように、彫りの深い美丈夫といった顔立ちではない。むしろ少女のような、つるりとした白皙の、若者の顔がそこにあった。

 化物ではない。

 ただの人だ。

「此度、私はあなたに、蟲を受け入れろと言いに来たのではございません」

「……じゃあ、なにをしに、きたの」

「そうですな、旅の話でもいたしましょう。存外これが、どこへ行ってもよくますので」

 意表を突かれて鼻白むナディに、蟲使いは淡く笑んでみせる。火の色をした玉片が鳴る代わり、ふわり、と包み込むようなあたたかいかげが、そのおもてに差した。

「まずは、私のことをお見知りください。

 妖蛆使いの隠れ里より、〈白王遍路〉を重ねること幾星霜。ここマナセを加え、まみえたる聖樹の数は十一。

 巡礼者にして、蟲使いにして、あなたと変わらぬ一介のヒトたる我が名を、ベルムと申します」

「べる、む――」

 妖蛆使い、ベルム。

 この家に来て初めて名乗った、彼の名であった。


 この朝二度目の訪問で、ベルムはほんとうに雑談だけをしに来たものらしい。ナディに蟲を使おうなどという話はおくびにも出さぬまま、星苔の光が昼の色に変わるまで、語り続けた。

 彼の話題は尽きず、巡礼の旅で広めた見聞から、文化、呪術、医学、歴史、この〈樹界エルシノア〉にまつわる神話まで、多彩をきわめた。里の外のことなど、枝伝いに歩いて行ける近隣の樹までしか知らないナディにとっては、すべてが目覚めるように新しく、鮮やかな知識だった。

「……つまり、この世界は一個の巨大な球体であって……その表面を覆い尽くす大樹ガオシルの森が、われらの四方に広がる〈樹界エルシノア〉というわけです」

 遥か頭上の葉叢の外には空があり、太陽と月と星なるものたちが、光を放ちながらめぐっているのだと彼は言う。

 そうかと思えば照明の星苔灯を指さし、その苔が森の生き物にとっていかに大事かを語り出す。

「……日月じつげつの光が樹冠に遮られて乏しい、この樹上世界においては、大樹の肌にあまた輝く星苔の群生床コロニーこそ、主要な光源。生きとし生けるものを照らし導く、天然の灯明なのです」

「ど……して、こけ、ひかる、の?」

 蟲使いに聞かされるというのが不本意ながらも、知的好奇心を刺激され続けたナディは、不自由な口でたびたび問いを挟まずにいられない。

 ベルムもまた求めに応じ、つかのま得た病床の教え子の前で、惜しまず智慧の扉を開いた。

「星苔……古代の言葉では、〝偽光苔ニセヒカリゴケ〟と呼んだそうですが……これが光るのは、鳥や獣を招き寄せるためである、と考えられております。

 苔が集まり群生床コロニーを成せば、それを餌とする野生の虫が集まってくる。その虫たちを排除するために星苔は、上位捕食者たる鳥獣を常に誘引するような、時とともに彩り移ろう光を放つようになったのだとか。

 もっとも、虫を食べてもらう光ったというよりは、光る能力を発現した種が、選択的に生き残った――という方が、正しい気はいたしますが」

 苔農家の娘に生まれながら、星苔が光る理屈など知りもしなかったナディは、内心大いに恥じ入る心地であった。

 より明るく美しく光る星苔を、品種改良によって生み出す手管は伝わっていても、それが光るかなどと子に教える農家はない。星苔灯の売れ行きに関わらぬからだ。

「苔の光は〈樹界エルシノア〉に遍在しますが、低高度の雲海より下となると、さすがに暗くなります。人の居住には、まず適さない。

 それでも低高度の枝に暮らす民がいるのは、なんといっても地上の資源を採りに行くためです。大地が産する金属、石材、土壌、それに生き物……およそ樹上で手に入らぬものは、何であれ価値を持つ。価値あるところに需要あり、かくて経済が回り、樹上の文明は営まれる……」

 ベルムの説く論理は透徹して聞こえながら、しばしば遠大に過ぎ、ナディの理解を超えることも多かった。

 それでも彼女は、生来好奇心の強い方である。気付けば、膿んで熱を発する恥辱の傷からも心離れて、ひとときの知の戯れに魅了される少女がいた。



 妻子の部屋から出てきた蟲使いを、ジャクバは睨みつけた。もとより防音などは考えられていない、荒削りの木の家である。居間にいても、蟲使いがろくに娘を説得などしていなかったのは、わかる。

「きさま、いったいどういうつもりで……!」

「お静かに。ご息女はたいへんな聞き上手でしたが、いまは聞き疲れて、眠ってしまわれたようです」

 両手で足りぬ罵倒をぐっと呑み込んで、ジャクバは声を潜める。怒鳴らず抑えた分、言葉は辛辣になる。

「……何のつもりで、太陽だの地上だのの、くだらん与太話を延々聞かせていたのだ。治療の話はどうなった」

「彼女は心なき暴力と病に傷つき……また、蟲使いである私を恐れておいでのようでございました。まずは話を聞いていただくためにも、打ち解けるところから始めようと思うた次第。

 今日はここまでとして、続きは明日にいたしましょう」

「馬鹿め、回りくどいことを! 破傷風の進行が速いことはきさまも認めていたではないか。さっさと治療をせねば命に係わると!」

「見たところ、まだ幾日かの猶予はございましょう。その間に、施術の許可を取り付ければ……」

「なぜ、きさまののろくさいやり方に付き合って待つ必要がある? おれに任せれば、すぐにでも片を付けてやると言うのだ」

 畢竟、ジャクバが言いたいことはこれである。きさまは娘を説得のだから、〝まずは打ち解ける〟などと世迷言を吐いていないで、自分に手番を譲れ――それこそ最速の解決であり、ナディの命を最も安全に救う道であるはずなのだ。なにゆえ蟲使いは、余計な時間をかけたがるのか。

 返ってきた答えは、ジャクバの理解の埒外にあった。

「われら呪術師にとっては、肉体の生と同じほどに、精神の尊厳もまた尊きもの。患者が望まぬ治療を押し付けては、たとえ命を救えたとて、呪医の名が廃るのです。

 失礼ながら、父君ちちぎみにお任せしては、家父の威権を以てご息女の意向をねじり潰すが関の山となりましょう。望まぬ施療を強いられる娘など、わが技を用いて救うに値しませぬ」

 にわかに冷厳な批判と拒絶を浴びせられ、困惑とともに怒りが沸き上がる。熱い血が上ってくるのを感じ、ジャクバは思わずノジームに目をやった。相変わらず暢気な顔で、瓶詰にしておいた龍水桃ダルタパをつまみ食いしている。

 いまこそ、命じるべきか――二度目の逡巡。ノジームの腕力で適度に蟲使いを痛めつけ、ナディの治療を強要すべきか。

 己の中の合理的な部分が、それこそ最善最適の解だと説いている。一方で、理外の直感が警鐘を鳴らしてもいる。ことによると、呪術師の理解しがたい精神性というやつは、意に反する仕事をするよりも、むしろ死を選ぶのではないか。ないと言い切るには、すでに眼前の男は異質な存在であり過ぎた。

「ご心配なさらずとも、最終的には説得する算段を付けております。ご息女が命を落とされる危険も、適切な処置を講ずることで、ほとんど皆無にできましょう」

「何をする気だ?」

 暴力に訴える機をまたも逸し、物騒な思案などなかったように問うてみせるジャクバ。その耳元に、面簾の赤いきらめきが寄せられ、壁の向こうを憚る声でささやく。

「医者とその道具が気に入らぬと言うて、施療を拒んでいられるのは、患者にまだがあるからに過ぎぬやもしれませぬ。ゆえに……」

 このときほど、ジャクバが蟲使いへの侮蔑を募らせた瞬間はなかった。

「……外道め。きさま自身の精神には、どうやら蛆虫ていどの尊厳しか残っていないと見える」

 言葉通り、蛆を見るような目で睨み下ろした苔農夫に、呪術師は愉快げな笑声を洩らした。

「買い被りが過ぎますな……蛆たちの魂の崇高なること、ヒトの身に生まれた私などでは、とても、とても。及ぶところがございませぬ……」

 ジャクバは嫌悪もあらわに舌打ちした。会話するだけで正気を削られるような隔たりの大きさに、もはや皮肉さえ通用せぬと悟ってしまう。

 言えることが残っているとするなら、それは蟲使いを働かせている契約の条件についてのみ。

「ゆめ忘れるなよ、蟲使い。娘の治療を完璧に成功させてみせねば、は渡せん。そういう約束だ」

「むろん、心得ておりますとも」

 玉簾の奥から、涼しげな声が返った。

「そちらこそ、ことが成ったあかつきには〈玻璃の幻燈アズ・ランプ〉をお譲りいただく約定、どうかお忘れなきよう……」

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