事件と野心
苔農夫ジャクバの娘ナディが、モラハンという男に里のはずれで組み敷かれ、処女を失ったのは七日前、夕刻のこと。
血まみれ、痣だらけ、半裸のナディが這うようにして帰宅したのが、その日の夜。仇を問い質すや、痛嘆に暮れる娘を妻に任せ、ジャクバは即時の報復に打って出た。そうせねばならなかった。モラハンは粗暴にして不潔、そして大酒呑み。里でも知られた札付きの悪漢である。こちらが泣き寝入りを決め込めば、己の行為を武勇伝に仕立て、誰に吹聴するとも知れぬ。娘と家にとっての不名誉であり、それ以上に時期が悪かった。ナディは貴人との婚姻を目前に控えた身なのだ。
怪力だけが自慢の長男を連れ、ジャクバは夜陰に乗じて里はずれへ向かった。娘から聞いたまさにその場所で、泥酔していたモラハンを見つけるや、ノジームと二人で襲い掛かり、速やかに殺した。
凝った技も、道具も使っていない。人の生活圏が、大樹ガオシルの幹と枝に沿って広がる〈
半ば神話上の存在である〝大地〟めがけてモラハンが墜落していったあと、ジャクバとノジームはまた密かに大樹の枝を伝い、マナセの里の我が家へと戻った。
かくて報復は果たされ、ナディという一人の少女の悲劇には、一応のけりがついた形となる。
しかし、家長たるジャクバが真に頭を悩ませねばならない問題は、ここからであった。
聖樹マナセの枝上に拓かれ、その名を冠した里において、代々世襲で継がれてきた
然るに、もし里長の息子に娘を
そのような御伽噺は古くから〈
それを現実にしつつあるのがナディであり、ジャクバ一家であった。
十二の夏、偶然から里長の長子イオズフと出会ったナディは、この初心な少年とのあいだに、ひそかな恋を育み始めた。まだ互いに幼さの残る、青く無垢な交際。そこからふたりの仲は順調に深まり、やがて季節が三度めぐる頃、里長家から嫁入りの打診があった。
ここに至るまで、娘が次期里長と付き合っていることなど知らなかったジャクバにとって、それは降って湧いた人生の転機であった。しかも多妻を持つことが許される立場のイオズフが、ナディを正妻に迎えるとまで確約する、破格の待遇。娘が正妻なら、自分は里長の義父筆頭だ。
夢物語の主役に指名されたナディは無邪気に喜び、ジャクバは忘我の淵から鎌首もたげる巨大な野心の輪郭を、このとき生まれて初めて自覚した。里長の一族――星苔農家の子に生まれ、光る苔をいじり回すだけで一生を終えるのだと思っていた、このおれが。
齢四十にして突如、足先から天へと伸びた、目も眩むような権力の
そうして、婚儀の日まで一月を切った矢先、あの忌まわしい事件が起きたのである。つまらぬ悪党、里の厄介者、昼間から酒に酔って女を襲うような愚か者が、危うくジャクバの野望のすべてを台無しにするところだった。
娘を愛していないわけではない。然り、ナディが受けた仕打ちは痛ましく、父として大いに
なぜならマナセの里は、ことに由緒ある里長家などは、女の婚前交渉を決して許さない。事故であろうと強姦であろうと関係なく、非処女であると知れた時点で婚約は御破算となる。それは伝統であり文化であり、家と家のあいだの力学に属することである。男と女が通わす恋情や、その親が秘めた野心などの割り込む余地はない。
さらに悪いことに、事件から五日を過ぎたころから、ナディは体調を崩し始めていた。その症状はジャクバの知る、とある病に酷似する。
娘がもし、その病であるなら――ほんとうは、一刻も早く医者に診せねば、命にかかわる。
しかし、里の医者は頼れない。病を治し、ナディの命を救うだけでは、もはや足りぬからだ。
病死を免れても、このままでは初夜の褥で新郎が気付いてしまう。新婦の純潔が、すでに散らされていることに。そうなれば破談だけでは済まない。ジャクバは家族の名誉を守るため、〝婚約者を裏切った姦婦〟であるナディを殺さなくてはならなくなる。さもなくば、一族郎党もろともマナセの里を追放されるかだ。家長として、それだけは決して選べぬ道。
あるいは――すぐにでも事情を明かして謝り倒し、ナディに惚れているらしいイオズフの温情に縋れば、違約の罰を最小限に留めてもらえまいか? 娘を殺すことも、里を
魅力的ではあった。が、野心に憑かれたジャクバは、もはや諦めることも選べず、狂気の道へと自ら分け入ってゆく。
婚約解消などさせない。断じてこの機を諦めない。そのためには、病気の治療のみならず、ナディの処女を再建せねばならぬ。当然、それを任せる医者には、彼女の破瓜を知られることになる。
ゆえに、里の医者では駄目なのだ。
次期里長夫人の後ろめたい秘密とは、いわば権力の世界に通ずる裏道である。それを知る人間が同じ里の者であるなら、ジャクバ一家の心臓を握るも同じこと。誰ぞに秘密を売るか、自ら脅しの種に使うか――あまりに危険な武器を与えてしまう。
理想を言えば、マナセの里に利害関係を持たぬような、遠く離れた樹の医者がよい。されど医者が来るにも娘を連れて行くにも、あまりに時間が足りない。
里の者に弱味を握らせず、娘の命を救い、同時に破れた純潔を繕い直す方法はないものか?
強欲な思案の末に、はたとジャクバが思い出すのは、里を乗せた大枝から虚空へ突き出る小枝の一本。
小枝といっても、建物がひとつふたつ乗る程度の太さはあり、事実そこには一軒の宿が建っている。身分の胡乱な旅人などが利用するための安宿。名を、見たまま〈梢の宿〉という。
つい先日、苔農夫の仲間に聞いた話があった。
いま、あそこに蟲使いの巡礼者が逗留しているのではなかったか――。
広大なる〈
彼らの使う技は一般人どころか、他派の呪術師にとってすら汚らわしく、醜怪な邪法と映るものらしい。一方で、失われた古代の叡智を多く現代に残しており、呪医としての腕前は確かなものとも伝え聞く。
病床に臥した、未婚の娘を……それも赤の他人に汚された秘部を、この上なお、おぞましき蟲使いの手などに
しかし――感情さえ無視できるなら、条件は悪くない。
巡礼者といえば、〈
ナディの傷と病を癒せる呪医であり、なおかつ里に長居せぬ巡礼者であるから、秘密を利権と化される危険も少ない。この難局にあっては、ほとんど理想の適任者といえた。
かえすがえすも、蟲使いでさえなければ――否、卑賎な蟲使いなればこその扱いようもある……。
最後まで、ジャクバは家長として、父として、男として、迷った。もっとましな方法はないか。里長の縁戚となる夢は、諦められぬのか。
時間さえあれば、より良い解が見つかったかもしれない。だが現実はと言えば、蟲使いがいつ里を出るかもわからぬし、食事もままならない娘は、日々刻々と痩せ衰えてゆく。都合のよい妙手など浮かばず、栄華への妄執はいつまでも、彼を掴んで離さなかった。
かくて、苔農夫ジャクバが意を決し、息子を〈梢の宿〉への遣いにやったのが、この日この夜。
死臭とともに訪れた蟲使いの、あまりの禍々しさにジャクバは絶句したが、しょせん後悔は先に立たぬ。気付けば自ら企てた偽計の転がりに引きずられ、彼はただ前へ、光をめがけ闇の中へと、突き進むしかなくなっていたのである。
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