4. 災厄
「あの、お嬢様っていうのは・・・?」
そう尋ねたユリシアは、泣くのを止め疑問の表情を浮かべながら、救世主たりえる青年を見つめていた。目尻に涙は残っているが、今ははっきり彼の顔が見えている。
視線を向けられたシオウは自身の言動が無自覚であったことに戸惑い、その理由を必死に考えていた。
(確かに尊敬する気持ちはあるし、この子を救うと決めたのも確かだ。でもそれだけで無意識のうちに敬語を使い、そのうえお嬢様と呼んでしまうものか?
この子を救うためには近くにいる必要があるけど、この子に仕えるという形でそれを実現しようということか?いやでも、どうして無意識のうちに?)
考えを巡らせたものの納得できる理由はなかったため、シオウは考えることを諦めた。別に気にする必要が感じられなかったのだ。お嬢様という呼び方も丁寧な言葉遣いで話すことも、なんとなくしっくりきたのである。だから元に戻すことはしなかった。
「まあ気にしないでください。無自覚でしたけど違和感もありませんし、お嬢様であることも事実なのですから」
そう言って笑うシオウの顔を見て、ユリシアはこれまでに感じたことのない、よく分からない感情に心を支配された。
顔が熱くなり、心臓の音が聞こえてきそうなくらいに鼓動が速くなっている。
自分はいったいどうしたのだろうと、冷静になるため深呼吸したユリシアは、異性と抱き合っている現状をようやく認識した。その直後、彼女の頭から蒸気が発生し、ポンっと音を立ててはじけた。
腕の中でユリシアが恥ずかしそうにしていることに気づいたシオウは、謝りながらそっと背中に回していた腕の力を緩める。ユリシアは完全にオーバーヒートしてしまっているが、辺りは暗くなり始めていたため、一旦帰宅することをシオウは提案した。
それに対して、羞恥心によって思考回路がショートしている彼女は無言であったが、頷いて返事をしているようだった。
肯定の意思を確認したシオウは街に向けて歩き出そうとした。しかし、それは阻まれた。自分にしがみついているユリシアに。
一瞬どうするか迷ったシオウだが、今ここで無理に突き放すことはできず、かといってここに留まることもしたくない。暗くなって魔物の活動が活発になると、守りが固められた街はともかく、少し外れたこのような場所は危険なのだ。
「お嬢様、失礼します」
そこで彼の出した結論は、ユリシアを抱きかかえて帰ることだった。
小さく軽い身体は簡単に宙に浮き、彼の腕にしっかりと抱かれる。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「シシシ、シオウさんっ!?」
驚いているユリシアだがそこに拒絶の意は見られない。羞恥で顔を紅に染めた腕の中の彼女を見て、シオウは微笑を浮かべた。
その表情をどう受け取ったのか、腕の中のお姫様は弱々しい抗議をした。
「シオウさん、私をからかって楽しんでませんか・・・?」
「いえ、そんなことはありませんよ。私はただ、お嬢様が感情を表に出しているのが嬉しかっただけです。さっきまで全てご自身の内に隠されていたので。せっかく可愛いのにもったいないと思っていましたが今のお嬢様はとても魅力的ですよ。ずっとこうやっていたいくらいに」
反則だ、とユリシアは思った。本当に嬉しそうな様子でそんなことを言われては何も言えなくなってしまう。
かろうじて口から出たのは、短い確認の言葉だけだった。恥ずかしさから目を合わせることもできず、声も小さくなってしまう。
「そ、そうですか・・・。あの、重くはないですか?」
「・・・!」
その小さな声が聞こえなかったわけではないが、シオウはそれに答えなかった。いや、答えられなかった。
何も言ってくれないシオウの顔へと視線を戻したユリシアは、その険しい表情から現状を何となく理解した。そして彼が身体にマナを纏って臨戦態勢に入っていることも合わせれば、それはほぼ確定的だった。
魔物の出現。
シオウがそれを察知したのは、突如として二人の近くに魔物が出現した、まさにその瞬間だった。
魔物は大気中のマナから発生する自然災害とされているため、突然現れたこと自体はそれほど問題ではない。だがその魔物は強すぎた。
魔物の強さは自然界のマナや人間のマナを喰らうことで上がっていくため、生まれたばかりの魔物はそこまで脅威とならない。とはいえ、ろくに戦闘訓練していない人間であれば簡単に殺せるほどの力を、その最も弱い魔物でも持っている。だが、今回の災害はそんなレベルではなく、ただただ異常な脅威であった。
発生した直後に魔物なら、シオウは簡単に倒すだけの力を有している。しかし、今回はそんな生易しい敵ではない。
戦闘経験豊富なシオウの感覚的に、接近しているその魔物はこれまで確認されている魔物の中でもトップクラスの強さだった。とてもじゃないが、彼独りで倒せる相手ではない。
ユリシアを抱えてでも、彼はここから逃げるだけなら可能だと判断した。しかしそれをやると彼女が守りたいと言った街は蹂躙されてしまうに違いない。とある例外的な戦力がいなければ、この魔物は国軍が総動員で対処しても、相当数の犠牲を払わなければ倒せないレベルだ。トーレンス州の有する戦力だけで対応できるわけがなかった。
もしあの力を持つ者がいれば倒せたかもしれない。だがその力を持つ存在など、知られているのはこの広い大陸でたった十三人だけだ。シオウは世間に認知されていない十四人目も知っているが、そんなことは今どうでもよかった。どちらにしてもここにはいないのだから。
自分にその力があれば、“継承者”であったなら、どうにかできたのかもしれない。シオウはそう思わずにいられなかった。
しかしそれを嘆いていてもどうにもならない。シオウはユリシアを腕からそっと降ろし、この強大な敵にまだ気づいていないであろう彼女に告げた。
「お嬢様、強力な魔物が現れました。私がここで時間を稼ぎます。なので住民を避難させるよう御両親に伝えてください。いや、レナードさんなら既に気づいていると思うので、それは任せてお嬢様はとりあえず逃げてください」
「・・・イヤです」
子供の我が儘のような返事をしたユリシアにも、近づいている魔物が非常に危険な存在だとなんとなく分かっていた。そのため頭の中では逃げることが最善だと答えが出ている。しかしだからこそ、ようやく出会えた救いの手を差し伸べてくれる人が、一緒にいるだけでよく分からない感情になってしまう目の前の彼が、いなくなってしまうような気がしてならなかった。
自分の悩みに気づいてくれる人とはまた出会えるかもしれないが、ここで死ねば夢も消えてしまう。
言い方は悪いが、代わりの効く存在をこの場に残して自分が生きるために逃げることは、絶対に叶えたい夢を持つユリシアにとって容易なことのはずだった。
これまで何を言われても耐えながら志してきた夢を捨てることは、絶対にできないのだから。
ただ、それをしてしまえばきっとその夢を抱いていられなくなるということも、ユリシアは直感で理解していた。
考えのまとまらない中で出したユリシアの答えを聞いたシオウは、まるでこれまでの優しさが嘘だったかのように冷たい視線を少女に向けた。
「そうですか。理由はもう聞けそうにないので聞きません。ただ、ご自身の無力をきちんと認めた上でそう仰っているのなら、期待した私が馬鹿でした」
いったん言葉を切り、口調まで厳しくして彼は続けた。
「きっと後悔することになるぞ。その判断は自分自身を殺す。そんな馬鹿を守って死ぬのは御免だから俺はもう行く。それじゃあな」
失望を隠さずそう言った後、シオウはユリシアの前から消えた。
一瞬で、災害のもとへと。
可能な限り大切な存在に近づけさせないために。
辺りが暗くなってきたこともあり、ユリシアにはシオウが本当に忽然と消えたようにしか見えなかった。だが彼が逃げたわけではないということは分かっていた。先ほど感じた圧倒的な力が近づいてきていないから。街と丘を繋ぐ坂道の途中で一人になり、そのことに気づいたユリシアは、土で制服が汚れてしまうことなど気にする余裕もなく、地べたに座り込んで涙を流した。
―――――――――――――――――――――――――――――
これまでとほとんど同じだ・・・。どうして私は、こんなにも無力なの?違うとすれば、私のためにシオウさんが犠牲になるかもしれないこと。自意識過剰かもしれないけど、彼はああやって突き放すことで、私をこの場から遠ざけようとしたんだと思う。私が感じる責任を軽くしようとしてくれたのかな。でもシオウさんは優しいから、まったく意味ないです。まだ知り合って数時間だけど分かります。さっきの拒絶に、私への優しさがあったこと。それが分かるから、私は・・・。
――――――――――――――――――――――――――――――
その慟哭は誰の耳にも届くことはなく、夜の闇に消えていく。
独りで涙を流すユリシアの視界の中で紅蓮の炎が燃え上がり、木々の焼き焦げる臭いが鼻に届く。そしてその中に肉が焼けるような臭いが混ざり始めた。魔物は焼けてしまうような通常の肉体を持たず、圧倒的な存在の出現のせいでこの丘には野生動物がほとんど残っていない。加えて他に誰か別の人がいた様子もなかったため、何が焼ける臭いなのか彼女には容易に推測できた。
そしてその彼の命が既に消えかかっていることも・・・。
その最悪の想像が頭をよぎったとき、ユリシアは見た。自分が生まれるよりも遥か昔に生きた、名も知らない誰かの記憶を。
人の姿とは少し異なる容貌の男が、こちらに背を向け、数え切れない敵を見据えながら言った。
『お嬢様、逃げてください。私は貴女を守るために生まれたのです。ここで私が死んでも貴女が生きられるなら本望です!だから早く!』
『イヤよ!だって私はっ!』
抗議する彼女を、誰かが無理やりその場から引き離す。
場面が変わる。
『お父様、どうして援軍をだしてくれないのですか!?このままだと彼が死んでしまいます!』
『アレはお前のために我が作ったモノだ。もうアレと同等のモノは作れんだろうが、代えならいくらでも用意してやる』
『それじゃ意味無い!私は彼がいいの!』
再び場面が変わる。
そこは幾多もの死が重なる地獄だった。当然のように死臭が鼻をつく。そんな救いのない終末の地で、彼はまだ戦っていた。守ることを強制され始まった関係だったものの、最終的に自分の意思で絶対に守ると決意した人。その大切な姫を殺しにきた、悪の敵と。
『○○!』
『っ!お嬢様、どうして戻ってきたのですかっ!?』
『ふはは、巫女自ら出てくることは好都合だ!総員、かかれっ!』
『っ、やらせんっ!』
彼は独りでその何万倍もの敵と戦い、殺してきた。自分の身など省みず、全力で。だがそれは守るべき相手が近くにいなかったからこそできたこと。彼女が、守るべき相手がすぐそこにいては、全力など出せなかった。
だがその状態でも彼は戦った。彼女はただ彼の精神的な支えになることしかできず、戦闘に関しては完全に足手纏いだ。それは彼女も理解していた。
しかし、たとえそうでも自分の感情を優先させたかった。自分の知らないところで大切な人が自分のために死ぬなど、耐えられるはずもなかった。
しかし、その彼女の我が儘は徐々に、確実に彼を追い込んでいった。そしてついにそのときが訪れる。
『これで終わりだっ!』
そう叫びながら剣士の青年が突き出した宝剣と呼ばれる類の剣が、彼の心臓を貫いていた。彼の背中から生えた黄金の輝きが、彼の背後にいた彼女の眼前で止まる。
『お嬢様、すみません。私では守りきれませんでした。ですが、皇帝陛下ご自身が来てくださったようなので安心です。最期に一つ。私は貴女を愛していました。作られた私ごときが、と思われるかもしれませんが・・・。それでも私は―――』
彼が初めて彼女の名前を呼び、愛を告げようとしたところで、心臓を貫いていた聖剣が彼の身体を斜め上方へと滑り、そのままその頭蓋を両断した。作り物とは思えない彼の身体から生暖かい深紅の血液が噴き出し、それが心の雨のように彼女に降りかかる。
『うるせぇよ、化け物が』
そう呟いた男の顔を、彼女は忘れない。この直後彼女の父親に惨殺されたその男の顔だけは、絶対に。
「なに、この記憶・・・。私じゃない誰かの、とても悲しい記憶。どうしてだろう、彼とシオウさんが重なる・・・。でも、私は今行かなきゃいけない気がする。シオウさんのところに」
そう呟いたユリシアは涙を拭いながら立ち上がり、戦闘音のする方向へ一歩を踏み出した。何もできないことは分かっている。だがこのまま街に戻っても同じだ。
魔物は基本的に人を襲うしか能がない。シオウがどれだけ足止めできるかにもよるが、それだけ強い魔物であるなら逃げ切れないことは分かっているのだ。
――――――――――――――――――――――――――――――
それなら私は、私の味方だと言ってくれたあの人の傍にいたい。ここで死ぬのだとしても、一人では死にたくない。それにまだ、私はあの人に救ってもらっていない。あれほどの大口を叩いたんだから、絶対に私を救わせてやるんだ。
ー―――――――――――――――――――――――――――――
その覚悟では完全に恐怖を打ち消すことなどできなかったが、先ほどまで泣いていた彼女とは確かに纏う雰囲気が違っていた。自分を救い、支えてくれる人に寄りかかるだけではダメなのだという自覚が、彼女を少しだけ強くしていた。
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