3. 青年の覚悟、少女の願い
「さて、まずは現状を知っておかないとな」
自身の決意を告げたところ、驚愕と困惑の表情を一瞬だけ見せたレナードから見事に警戒心を強められたシオウだったが、自身のマナに対する感受性の高さを説明し、一応はレナードを納得させることに成功した。とはいえ、どうにかできるのならそうして欲しいと答えたその表情は半信半疑であったが。しかし、一応許可は貰ったシオウは、既に登校したと思われる少女について現状を詳しく理解するため、さっそく行動を開始したのだった。
ユリシアとカレンはレナードとシオウの二人が話している間に朝食を済ませたようで、現在レナードは一人で朝食を取っていた。しかし妻のカレンはその後の片付けがあるため、コーヒーを飲みながら夫と話をしている。ちなみにシオウは話が終わってすぐに出て行ったため、この屋敷内にその姿はなかった。
「それで、彼はどんな感じだったの?」
「・・・いまいち何を考えているのか分からない青年だったよ」
もちろん二人の話題の中心はシオウの件である。
首を傾げて夫がよく分からない人間だと言うのなら、自分では何も理解できないだろうとカレンは思った。とはいえ、そのような評価を下された青年が危険かどうか気になった彼女は夫に印象を尋ねた。
その問いに対して返ってきた言葉は、「心配ない」という安心できる答えであった。
夫が自信をもってそう答えるなら間違いないと、カレンはレナードに絶対の信頼を寄せている。すると次に気になるのは、シオウが恩返しということで提案したユリシアの件についてだった。
「それにしても、ユリシアのことをどうにかできるって本当なのかしら」
「彼は私でも怯んでしまうほど真剣な様子だったよ。あの子のことで、私には見えていない何かが見えているようだった」
どこか悔しそうに語るレナードに、カレンは認識していながらどうすることもできていなかった問題について話題を振った。
「そっか。でも確かに、二年前あの子に血が繋がってないことを告げてから、お互いに微妙な距離感があったのも事実よね。伝えたことは後悔してないけど、あのときからあの子との距離感に迷っていた気がするわ・・・」
「そうだな。私もそう思う。あれからユリシアは少し変わってしまった。感情を隠すようになってしまったというか、いっそう私たちに気を遣うようになった気がする。それなのに私たちはその状態を変えようともせず、あの子に親らしいことを何もしてあげられていない」
「ええ、そうね・・・」
二人の間に生まれた暗い沈黙とは対照的に、春の朝日は室内を明るく照らしていた。その明るさに、夫婦は自分たちの罪が照らし出されているような錯覚さえ覚えるほどだった。
彼らが話していたように、レナードとカレンの間には血の繋がった子どもがいない。ユリシアは、二人が王都の孤児院から引き取った養子なのだ。そのためユリシアの容姿は夫婦のどちらにも似ていない。レナードは髪も瞳も茶色で、カレンは髪こそユリシアと同じ金色だが瞳が青い。それらの色だけでなく、ユリシアの顔のつくり自体が二人の顔の特徴からかけ離れていた。
マナに関しても遺伝的な要因がその波長などに見られるのだが、それについてもユリシアは二人とは全く異なるマナの波長を有している。
こういった事情から、聡明なユリシアがそのことを察してしまう前に、夫婦は自分たちの口で直接このことを伝えた。だがそれを話した二年前から、夫婦は娘に対する距離感を上手く掴めなくなっていた。だからこそ、彼らはユリシアの現状を把握できていないのだ。両親に心配をかけないように、娘が何もかも独りで全て抱え込み悩んでいることを。
学園の講義が終わり、放課後となった。今日も部活動に伴う様々な音が校舎内に響いている。新入生のほとんどが入部先を決めたようで、多くの部活動は今までよりも活気に溢れている様子だ。
そんな喧騒に包まれている学園内で、今朝アスレイン家の屋敷を飛び出したシオウは、一日中ユリシアの様子を観察していた。
ストーカーの如く近い場所で、誰にも気づかれることなく。
隠れることに本気を出した彼を見つけられる実力者は、この世界全体でもおそらくほとんどいないだろう。それほどまでに完璧な隠形魔術を彼は行使していた。
(まあこんなことだろうと思ってはいたけど・・・。こういうことはありふれているのか、それとも異常なのか、俺にはよく分からない。でも確実に言えることが一つある。あの子、ユリシアは学園で辛い思いをしているし、自分の感情を押し殺して我慢しながら生きている。少し前の俺のように・・・)
このままでいいはずがない。そう思ったシオウは、一人で下校していたユリシアに姿を見せることにした。突然現れても驚かせるだけなので、物陰で隠形魔術を解いてから少女に近づく。
「なあ、ちょっといいか?」
ふいに話しかけられ、その声の方向へと向き直ったユリシアは、夕日に照らされた朱色の世界の中に佇む黒い瞳と髪を見た。
そして瞬時に、彼が何者かを察する。
「貴方は・・・」
昨夜、無意識のうちに頭を撫でてしまった青年であることを。
改めて彼の姿を見たユリシアは、この街では少々浮いてしまうかもしれない東国の着物がとてもよく似合っていると思った。しかし、ほとんど初対面の人に対してそれを口にすることは恥ずかしさからできなかったらしい。
言葉の続かないユリシアに、黒い瞳から視線を向けていたシオウはまず感謝を伝えることにした。
「今回の件では御両親にとてもお世話になった。君にもお礼を言わせて欲しい。ありがとう」
昨夜のことを思い出したせいか少し気恥ずかしくなったユリシアは、礼を告げてからシオウと名乗った青年に、ユリシアという名を伝えた。
お互いに名乗ったところで、ユリシアはつい昨日命を落としかけたシオウの回復を祝いたいと思ったが、彼の介抱など何もしていないのに何故感謝されているのかという疑問の方が大きく、考えすぎた彼女の口からは何も言葉が出なかった。
そうしている内に、気づけばシオウの方が先に口を開いていた。
「あのさ、突然で悪いとは思うけど少し話があって・・・。できれば誰もいないところで話したいんだけど、どこかいいところ知ってるかな?」
初めて話した異性から誰もいないところで話があると誘われたなら、女性なら危機感を覚えずにはいられないだろう。
しかしユリシアは、シオウの真剣な様子とその表情の中にある暖かさのようなものを感じ取り、少し悩んだものの自分が独りになりたいときよく訪れている場所に、彼を案内することにした。
その彼から感じ取った暖かさが春の夕日による錯覚ではないと、“それ”から遠ざかっていた少女は無自覚で確信していたのかもしれない。
しばらく坂道を登り二人が辿り着いたのは、あまり位置的には高くはないもののトーレンス州のほとんどを一望できる丘の上だった。道中は何か話すこともなく静かなものだったが、二人ともそれについては気にしていなかった。
開けた丘に穏やかな風が吹き、どこか戸惑うように草木が揺れている。
この丘に到着してからしばらくの沈黙の後、透き通った紅い瞳に二つの感情を映しながら無理な笑顔を浮かべたユリシアがその小さな口を開いた。
「一人になりたいとき、よく来るところなんです。それで、私に話ってなんでしょうか?」
その作り笑いはとても儚げで、風に吹かれて舞い散る桜の花弁のように美しかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここで間違えてはいけない。そう思った。しかし、今までの人生において自分で決断して行動したことがどれだけあっただろう。
アイツならこうする、アイツに求められる行動はこれだ、それだけが行動指針だった。
だが、それはもう終わった。己の道を、己の意思で進むと決めたのだ。
そして今一番やりたいこと、やらなければならないことは目の前の少女を救うことだ。
そのためにはどうすればいい?俺に何ができる?
己に問う。
導き出した答えは、彼女を救うものだろうか。それとも不幸にするものだろうか。
それは分からないが、今はただ言葉を紡ぐ。
「まずは、その、すまなかった。実は今日一日、勝手にユリシアの学園生活を近くで見させてもらってたんだ。君が抱えている闇が気になって、どうにかしたくて・・・。俺の勘違いならそれでいい。だけど君自身が現状をどうにかしたいと思ってるなら、俺に・・・、いや、すまない。そうじゃない」
自分で言っていて気づいた。こんなことを言いたいんじゃない。取り繕った言葉で自分を飾り、それでいて相手に判断を求めてどうするのか。そんな人間を誰が信じられるだろう。
だからありのままの思いを口にしろ。どう思われようが知ったことか。決めただろ、俺は俺のやりたいことをやるって。俺は、この子を救いたい。
目の前に立つ、小さく儚い少女の手をそっと取り、力強くそれでいて優しく、彼女をその身に抱き寄せる。
あまりに突然の行動に、少女の口から小さな悲鳴が漏れ、身体が硬直した気配があった。
抱き寄せた身体は本当に小さく、見た目どおり軽い。夕暮れ時であっても彼女からは女の子らしい柔らかな香りがしている。その香りがどこか懐かしいのは何故だろう。
身勝手な行動だということは承知しているし、普通に犯罪者扱いされてもおかしくない状況であることも理解している。だが今はそうしたかった。そうしなければならないと、どうしてか思ったのだ。
「俺が救うから、ただ信じて頼ってくれ。これは俺の我が儘で、ただの自己満足だ。だから何も考えず、遠慮なんてせず、俺を使ってくれ。抱えてるものは全部、俺にぶちまければいい、俺はユリシアの味方だから。何もない俺のために、君を救わせて欲しいんだ」
――――――――――――――――――――――――――――――
それは、偶然やってきた春の風が孤独な冬を見つけ、それを終わらせるべく手を差し伸べた瞬間だった。
優しく抱き寄せられ、触れている筋肉質で固いシオウの身体は、とても温かく不思議な安心感があり、いつの間にかユリシアの緊張もほぐれていた。
久しぶりに人の温かさに包まれたところに、一方的だが心から救いたいと思ってくれているのが伝わるその力強い言葉をもらい、これまで孤独に苛まれながら必死に耐えてきた少女の中で、何かが音もなく崩れ去った。
無茶苦茶なことを言われたのに何故か嬉しく、感情が、涙が溢れてくる。これまで誰にも聞かせたことのない、ありのままの心の声が堰を切ったように口から零れ出していた。それはもう止められず、止めようとも彼女は思わなかった。その優しく暖かい腕の中で、ぼやけてはっきり見えない腕の主の顔を見上げながら、ただひたすらに曝け出した。
「無能とか落ちこぼれとか言われたって、私だって好きで魔術が使えないわけじゃない!あんたたちに言われなくたって、自分が一番分かってるっ!なんとかしようとしたけどダメだった。普通に魔術を使える人に、何も苦労していない人に、私のことを馬鹿にする権利なんてない!
死ねとか消えろとか、意味わかんない!どうしてそんなことが言えるのか、私にはわかんない!
お父さんたちの権力を使ったとか、ビッチとか、色んな話を捏造して、あることないこと言いまくって。私を貶めたって、あんたたちが偉くなるわけじゃないのに、自分自身も一緒に貶めてることにどうして気づかないの!?
私とは違って友達がいて、同じ目標を持って頑張れる仲間だっているのに、どうしてどっちも持ってない私なんかに嫉妬して、自分たちの価値を落とすの?誰も幸せになれないことだって分からないのっ!?
どうしてみんな、見てみぬふりするの?聞こえてないふりするの?どうしておかしいって言ってくれないの?どうしてっ、どうして・・・!私はこんなに大好きなのに、誰も私のことは好きになってくれない・・・。大切にしてくれない、守ってくれない、必要としてくれない、甘えさせてくれない・・・。目標も夢も、誰も私と一緒に分かち合ってくれない!諦めたくないのに、諦める以外の道がどこにもないの。私はどうすればいいの?これから私はどうすれば、みんなを守れる領主になれるの?ねぇ、答えてよ!」
夕日を背にそう訴えかける少女の瞳は、その溢れる激情で全てを燃やし尽くすかの如く紅の輝きを放つ。その熱から生まれ、綺麗な肌を滑り落ちる雫はとても美しい。
視線と言葉、それらを向けられたシオウは、これまでに何度か感じたことのある“あの”気配をユリシアから感じ取った。確証はないが己の勘を信じるならば間違いない。
そのことに多少心を乱してしまったが、今考えることではないと己を律し、目の前の少女に集中する。意思を確認するために一つだけ尋ねなければならない。
答えは分かりきっていたが、それでも彼女自身の口からきちんと聞かなければならなかった。少女の現状を考えたとき、どうしても彼自身には理解できないその答えを。
「・・・俺はユリシアを救うことができる。だけどその前に一つ聞きたい。それだけの感情を独りで抱えながらこれまで耐えてこられたのは、領主になってこの街を、ここに住む人たちを守りたいという夢、目標があるからか?」
何を今更聞いているのかと、疑問の表情を一瞬だけ見せたユリシアだったが、彼女にとってそんなことはどうでもよかった。
夢、目標を語るとなると、無力な自分への憤りで感情が爆発してしまう。これまで誰にも言ってこなかったのだから仕方ない。言いたいことを全て吐き出すことでしか、壊れかけた心を守る術はなかった。
「うん、そう。私は、お父さんとお母さんの跡を継いでトーレンスを守りたい。ずっと暮らしてきたこの街を、この街に住む人を、私は領主として守りたいし、もっと発展させたい。
大好きだから。お父さんも、お母さんも、街のみんなも、何もかも全部。魔術は使えないけど、その分勉強を頑張って、何をするべきか考えて・・・、それでも私には何もかも足りなくて・・・。何もかもが悔しかった!私には無理だってみんなに言われてるみたいで、悔しかったっ!
私をみんなに認めさせたくても、私には何もなくて。目標はあってもそこに辿り着くまでの道筋が何も見えなくて。それでも絶対に諦めたくなくて、だから耐えて耐えて、ずっと独りで耐えてきた。夢を叶えるために。
だから私に道を示してください!私と同じ夢をみて、同じ目標に向かって一緒に歩いて!私を必要として!私を甘やかして!私を大切にして!独りでは何もできない弱い私を、救ってみせて!」
少女の魂の叫びに、心からの願いに、彼は何かを奪われた気がした。
だからそれは、無自覚の返答だった。
「おおせのままに、お嬢様。これからはずっと傍で、貴方をお救い致します」
「・・・え?お嬢様?」
「あれ?どうしたんだ、俺?」
小さな呟きが風に流れて掻き消されたそのときには、丘から見えるトーレンスの街では徐々に建物に明かりが灯り始めていた。それはまるで、二人の心に灯った小さな、しかし確かな光が、徐々にその闇を照らしていくようであった。
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