2. 出会いと決意
食事と入浴を済ませた後、ユリシアは二階にある自室のベッドで宿題をこなしていた。魔術が上手く扱えない以上、勉学だけは誰よりも努力することに決めているのだ。しかしこの日はあまり集中できなかった。先ほど父親から聞かされた話から、彼女は自身の認識の甘さを痛感していた。
「うーん、やっぱり集中できないっ!」
思わず大きな声を出してしまったが、例の彼が寝ている部屋は同じ階とはいっても二部屋ほど離れているため大丈夫なはずだ、と彼女は自分に言い聞かせた。両親についても一階に部屋を設けており、それが真下にあるわけでもないから大丈夫だろうと決めつける。
しかし、もし彼を起こしてしまっていたら申し訳ないと感じてしまうほどにお人よしな彼女は、レナードから近づかないようにと言われたことなど忘れたのか、もしくは妙な好奇心からか、自室を出てシオウが眠る部屋へと足を進めていった。
ノックもせず、ユリシアはその部屋の扉をそっと開いた。
「失礼しまーす・・・」
そうして入室した彼女が見たのは、普段は誰もいない来客用の寝室で寝息を立てて眠る、一人の青年の姿だった。
「ふぅ、起こしてなかったみたいで良かったぁ・・・」
父親が青年と言っていたのでまだ若いのだろうと思っていたが、その通りだった。眠っている彼は顔を見る限り自分よりもいくつか年上というくらいで、同世代と考えてもいいとユリシアは思った。
そんな年の近い、まだ若い彼が殺されかけるという目に遭ったことは、ユリシアにとってショックだった。自分はまだ庇護されている状態で、知らないことばかりで、大人のやっていることを将来自分ができるようになるとは、今はとても思えない。そんな自分とあまり年の変わらない人が自由を奪われた状態で殺されかけたのだ。その事実を考えるだけで、彼女は恐怖に震えた。
もしも自分が同じような酷い目に遭ったなら、きっと目を覚ましたくないと思うだろうと、ユリシアは思わずにいられなかった。話を聞いて、彼を見ているだけで、こんなにも世界が恐ろしく感じられるのだ。実際に自分を殺そうとした人間が存在する世界に戻りたいと思えるはずがない。
そんなことを考えていたユリシアは、無意識のうちにその彼の頭へと手を伸ばし、黒い髪に触れてその頭を撫でていた。
「きっとあなたが今生きているのは、まだ死ねないからですよね。私はあなたの傷を実際に見ていませんが、話に聞いたような、生きているのが不思議なくらいの傷であったなら、生に執着する理由がなければ生きてはいないはずです。あまり年も変わらないのに、凄いと思います。私ならきっと、もう一度そんな世界で生きる覚悟なんてできないですから・・・」
自身の思いを吐露しながら、しばらくそのまま彼の頭を撫でていたユリシアは、ふと我に返った。
現状を認識して、一瞬で顔が紅潮する。
「あ、あれ?私どうしてこんなこと・・・。ご、ごめんなさーい!」
サッと頭から手を離し、慌てつつも小さな声で謝りながらユリシアは自室へと戻っていった。
(さっきの間に起きてないよね!?私は無意識でなんて恥ずかしいことを・・・)
自室に帰還したユリシアは羞恥心でどうにかなりそうだった。だがここまで感情的に身体が動くのは久しぶりのような気がして、ここ数年の自分がどれだけ感情を殺して生きているのかを実感させられた。
(そっか、昔は今みたいにもっと心が動いていたのに、最近の私は・・・)
いきなり現実を突きつけられたような気がして、それを自覚した瞬間にユリシアは上手く説明のできない嫌な感覚に襲われた。その感覚が不快で、消してしまいたくて、彼女は早く寝てしまおうと思った。
だがそんな心が乱れた状態ですぐに寝ることなどできず、彼女はベッドの上でその感覚の正体に気づけないまま涙を流した。やがて泣き疲れて寝るまで、ユリシアはずっとその不快感に苛まれていた。
「・・・気が付いたら身知らぬ部屋に寝ていて、何故か女の子に頭を撫でられていた。どうなってるんだ?」
一度目が覚めた青年、シオウはそんなことを呟いて再度眠りに落ちた。だがその心の内には、名前も何も知らない少女への、よく分からない感情が確かに残っていた。
翌朝、シオウは朝日が昇る前に目を覚ましていた。日頃の習慣で朝は早いのだ。そして彼は自身の現状を把握した。
(あの後、魔物を倒した人に助けられたのか。ちゃんとした治療までやってくれて、感謝しないとな。それでカザツキではない他の国の、どこかのお屋敷で眠っていたと・・・)
ここがどこの国かは分からないものの、故郷であるカザツキとは部屋の様子が大きく異なっていることから、シオウはここを他国だと認識していた。あの森に瀕死の状態で捨てられるまで意識はあったが、時間や方向の感覚までは掴めなかったため、あの森がどの国の領地なのかは分からなかった。
次にシオウは屋敷内の様子を確かめた。屋敷内にあるマナ反応は人間のものが三つだけ。大きな屋敷にしては珍しいことである。そして気が付いたことはもう一つ。どうやらそのうち一人は特殊な体質で、おそらく苦労しているということだ。
「あの状態じゃ魔術は使えないはずだよな。ある程度の能力がないと分からないにしても、魔術が使えないのはかなり致命的だろ・・・」
誰かが着せてくれた医療用の薄い衣服を脱ぎ、枕元に綺麗に畳んで置いてあった新品の着物に袖を通しつつ、シオウは独り言を呟いていた。
「まあ現状ではどの国でも魔物が街中まで侵入することはないし、平和な場所で生きるだけなら、魔術は必須でもないよな」
シオウはここで、おそらく屋敷の主だと思われる人物が部屋に近づいている気配を察知した。そしてすぐに扉がノックされる。ここで何も言わず逃げるほど、シオウは礼儀知らずではない。そもそもこれからどうするかも決めていないのに、何も持たずに飛び出そうとは思えなかった。そのため彼はノックに対してきちんと返事をした。
「どうぞ」
扉が開き、三十代前半に見える貴族然とした男性が現れた。髪と瞳は明るい茶色、身体は鍛えられていて、マナも非常に力強く猛っている。彼が自分の助けた魔術師なのだと、シオウにはすぐに分かった。
「起きたようだね。身体は大丈夫かい?」
「はい、おかげさまで。すっかり元気になりました。瀕死の自分を助け、ここまで厚く介抱してくださって、本当に感謝しています。新しい着物までわざわざ用意して頂き、ありがとうございます」
レナードの呼びかけに、シオウは礼儀をもって返答した。命の恩人なのだからシオウにとっては当然のことだったが、レナードは少し居心地が悪そうだった。
「どうかされましたか?」
「いや、君にかしこまられると此方もそういう対応をしなければならないような気がしてね。まるで王族の方々を相手にしているときのようだよ。だからもう少しラフにいこうか」
レナードの言っていることが核心をついていたため、シオウは少し驚いた。だがそれを表情に出すようなことはなく、変わらない表情と声音で少し堅苦しさを抜いて返答した。
「それはすみません。それじゃあここからは“俺として”話します」
その不自然な物言いに、レナードは疑問を口にした。
「えーっと、それはどういう?」
しかしシオウとしても意識を切り替えるために口をついてしまっただけで、人に説明できることではない。
「あー、今のはあんまり気にしないでください。とりあえず、自己紹介しますね。俺はシオウという名です。年は十八で、カザツキ出身ですが、昨日の件があって今はどこにも居場所がありません。それと、あまり詳しくは話せませんが、おそらく昨日の刺客はサルオンの奴らですね」
シオウの発言に対し、レナードの表情に困惑が浮かぶ。だがここで相手を責めたり、変に追求するような真似など彼はしない。
「えっと、要約すると、君の名前はシオウ、年は十八、カザツキ出身、おそらくサルオン王国の者に殺されかけた、ということでいいかい?」
「はい」
短く返事をして頷くシオウに対し、レナードは確認を続ける。
「家名やこの件について他の事情は話したくないということも間違いないかな?」
「そうですね。今回の件はその家に関係するものなので、すみませんが詳しく話せません」
シオウはこの部分について譲るつもりなどなかった。あの家に彼という存在はなかったに等しく、唯一彼の弟だけが彼を彼として認めていたが、こうなった以上はもう戻れない。戻ったとしても、元よりそこに居場所はないのだ。家の者以外にも二人だけ例外はいたが、今戻ればその二人にも迷惑をかけてしまうことを彼は理解している。
その拒絶はしっかりレナードにも伝わっており、彼は素性について尋ねることを諦めた。そして次は、命を狙われた理由について尋ねた。
だがこれについてもその家が関わるため、シオウは本当のことを話しはしない。
「そうですね。これも詳しくは話せません。ただ一つ言えるのは、今の俺はもう命を狙われていないということです。なのでこの街に刺客が来たりはしないかと」
「それならいいんだが・・・まあ深く聞くのは止めておこうか。君自身もこの街に害を与える存在ではなさそうだしね」
それでもシオウはレナードの懸念を察し、肝心なところは答えないながらも相手を安心させる配慮をみせた。それくらい答えなければ納得されないという判断だった。
追求されないように上手く返答しているシオウだったが、あまりにレナードが警戒していないようなので、おせっかいと分かっていながら少し心配になった。
「自分で言うのもアレですけど、そんな適当で大丈夫ですか?俺のこと拘束もしてなかったし、あの紐も外している。もしかしたら犯罪者かもしれないのに」
「確かに少しは疑っていたけど、状況から判断してその可能性は低いと考えたんだよ。それに、拘束してマナを封じた状態で事情を聞いたら、それは拷問とか脅迫とかそういう類のものになってしまう。犯罪者の可能性が低い相手にそれはできない。もちろんその判断が誤りだったなら、州民を守るために全力を尽くすけどね」
最後の言葉をレナードが紡ぐ瞬間、シオウは彼から覇気とも、殺気ともいえるような強者の風格をその身で感じ取っていた。マナについても一層研ぎ澄まされていることが分かる。
(この人はこの国の貴族の中でも相当上位だろうな。まあ他の貴族は見たことないけど、カザツキのレベルを基準に考えればそれくらいだろう)
内心でそんなことを考えつつ、シオウはレナードに賛辞を送った。正直に、思ったとおりに。
「・・・流石ですね。やっぱり貴方は強い。それに頭も良くて、とても優れた人格者だとも思います」
「はは、ありがとう。そういえば自己紹介がまだだった。私はレナード・アスレインだ。ここ、シンテラ王国トーレンス州を治めている」
このとき初めてシオウは自分の居場所を知った。カザツキが目と鼻の先で、多少思うところもあったが特に問題ではないと彼は判断した。
死にかけたことで、思いがけない自由を手に入れたのだから、今は自分のやるべきこと、やりたいことをやろうと、彼は決意したのである。カザツキには戻らず、これまでずっと探し求めていたものを見つけるために生きようと、自分の意志で決めたのだ。
「ここはカザツキとの国境だったんですね・・・。それであの、レナードさん。改めましてこの度は本当にありがとうございました。このお礼についてなんですが、一つ恩返しをさせてくれませんか?」
(手始めに、この自由をくれたレナード・アスレインへの恩返しをしよう。俺のこの身一つでできる、心からのお礼を)
「今君は何も持っていないのだろう?無理に見返りなど求めないが、いったい何を・・・」
先ほどからシオウは、気になっていた存在の状態をさらに詳しく読み取っていた。そしてその中に暗い影があることも既に把握している。
これは恩返しでもあるが、シオウ自身がどうにかしてあげたいと思ったことでもあった。
偽善なのかもしれないし、干渉するべきではない事情なのかもしれない。
そうだとしても、あれが夢ではなく事実であるなら、あの心根の優しい少女が抱えている闇をどうにかしたい。夢のようにも思えるあの安らぎをくれた少女を、助けたい。
だがそれを直接言っても、全くそれに気づいていない父親では話にならないだろう。もし気づいているなら、どうにかしていないとおかしいくらいに、それは深刻な問題なのだ。だからこそ父親が認知している部分で話をつける必要がある。
「娘さんが魔術を使えるようにさせてください。俺にはそれができます」
シオウはそう言い切った。
部屋の窓から入り込む春の朝日は、生まれて初めて自由を手にし、生まれて初めて自己の欲求を叶えようとしている一人の人間を応援するかのように、眩しく少年を照らしていた。
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