セッション4-6 ミノタウロスの迷宮(5)
「はい! 臭いチェックおっけーです!」
はぁ、っと吐いた俺の息に、睦美ちゃんはくんくんと鼻を鳴らして言う。
「と言うか、いい匂いです。ミント系ですよね」
「ブレスケア噛んできたからね。えっと後は、スーツ大丈夫?」
「はい。確認しますね!」
本日は睦美ちゃん家にお呼ばれである。
しかも待つのはお母さん。
ちょっとチョロかったお父さんとは違って、ラスボスの貫禄があると言うのが睦美ちゃんの言である。
「はい、スーツおっけーです! 今日もかっこいいですよ」
「格好いい所、見せた事あったかなぁ、俺」
婚活失敗中年男性としては、首をひねりたくなる感想だけれども、まあ失礼が無ければそれでいいだろう。
実は仕事中、ほとんど作業服で過ごすので、スーツに袖を通すのも久しぶりだったりもする。
クリーニングから卸してきたままなので、皺とか汚れは大丈夫だろうけど、果たしてちゃんと着れているかどうか不安だったりもする。
「うふふ。緊張しますね」
「正直胃が痛いよ」
革靴がちゃんと光っている事を確認して、仁科家に向かう道を歩く。
今日はお酒も出るとの事なので、最寄り駅まで電車でやってきた。
駅からは迎えに来た睦美ちゃんと合流して、作戦会議をしながら家へと向かう。
さて、当のお母さんと言えば。
「お母さん? うーん、普通だよ? 普通の主婦。近くのスーパーでパートしてて。えっと……後は普通?」
普通のお母さんらしい。
まあ、子供からしてみたら、どんな親でもそれが普通ではあるか。
「お金には厳しいかなぁ。月のお小遣い以外でお金をくれた事とか無いし。お友達は結構色々理由をつけてもらっているんだけど」
しっかりしたいいお母さんじゃないか。
子供に経済性を教えるのは重要な事だと思う。
間違っても借金に抵抗の無い大人に育ってはいけないな。
と、実体験で思う。
「お父さんとケンカとかする?」
「あんまりしないかなぁ。お父さん、お母さんの言う事に逆らえないし」
「尻に敷かれてるなぁ」
「それが家庭円満の秘訣だって」
「確かに」
主婦が強くて、旦那が一生懸命働いて。
それで夫婦円満。
そういうのが理想的な家族だと思う。
「いい家族だね」
「うん、そう思う。大好き」
睦美ちゃんは恥ずかしそうにそう言って。
「あ、お母さんには言わないでね。恥ずかしいから」
慌ててそう付け加えた。
ちょっと睦美ちゃんの年齢だと、そういう素直さを見せるのは恥ずかしいらしい。
「わかってるって」
いつか、素直にそういう話が出来るようになればいいねと。
そんな事を思って答えていると、睦美ちゃんは走り出す。
「こっちですよー。先に家に行っていますから、ちょっとゆっくりしてから入ってきて下さい」
「はいはい」
少し走った先の一軒家。
そこに睦美ちゃんは飛び込んで行く。
「ただいまー! お母さん、来たよー。準備大丈夫?」
そう言うあなたはどうなのよー。と、奥から声がして。
あ、いっけなーいと、慌てて階段を駆け上がる睦美ちゃん。
明るく仲良いいい家族。
その掛け合いだけで、そういう家庭で彼女が育ったとよく分かる。
何かちょっと嬉しくなった。
「どうも、はじめまして。今晩はお招きいただき、ありがとうございます」
「はいはい、いらっしゃーい」
ゆっくり歩いて扉を開いて。
玄関先に待っていたのは、睦美ちゃん。
俺が到着するまでのちょっとの間に出来るせめてものおめかしにと、髪をリボン付きのヘアピンで留めている。
うっすら汗をかいて、息が上がっているのは。時間的にもギリギリの早業だったのだろう。
「はい。いらっしゃいませ。ゆっくりしていって下さいね」
そしてもう一人。
睦美ちゃんによく似た雰囲気の小柄な女性。
パーマをかけた髪を後ろでまとめて、ひよこのアップリケのエプロン姿。
清潔で家庭的なお母さん。
そんな感じの若い女性。
「睦美の母でございます」
ぺこりと頭を下げるお母さん。
いや、本当に若い。
見た感じ、俺よりだいぶ若く見える。
もしかするとまだ、二十歳代かもしれない。
「お母さん。化粧気合入りすぎ」
「うふふ。すっぴんですよ」
「気合入りすぎぃ」
ぶうぶうと不満げな睦美ちゃん。
おほほと笑うお母さんは、よく見るときっちり化粧をしていた。
でもまあ、若くて美人だとは思う。
「いや、若いお母さんで驚きましたよ」
靴を揃えて居間へと入る。
前を歩くお母さんは、睦美ちゃんを一回り大きくさせた感じ。
小柄でちょっと少女趣味っぽい服装も、お母さんを若く見せる一因なのか。
「ちょっと若作りしすぎだよお母さん」
「いいじゃない、たまには」
「もう、恥ずかしいなぁ……」
「今日は頑張ってご飯作りましたからね。たっぷり食べていって下さいな」
「お母さん。今日の趣旨分かってる?」
「分かってるわよー」
姉妹のような母娘である。
最近の家庭はそういうのが多いらしいなぁ。
そんな事を考えながら、勧められるままに食卓に座る。
キッチンと直通のいわゆるリビングダイニング。
テレビの前のお飾り程度のソファセットと、多分いつもはここで団欒しているのだろうと思われる、生活感のあるダイニング。
テーブルの上には、瓶のビールにご飯に味噌汁。
肉じゃがやらパスタサラダやら、肉巻きアスパラやらハンバーグやら。
デザートのケーキまでこれでもかとばかりに料理が並んでいる。
「腕によりをかけましたから。いっぱい食べて下さいね」
「半分くらい冷凍食品だよね、お母さん」
「睦美、そういう事は言わないの!」
仲のいい母娘だなぁ。
「いやあ、美味しいですよ。家庭の味って久しぶりで、いいと思います」
男の一人暮らしが長いと、家庭の味が恋しくなる。
俺は料理をするけれど、妙に凝った奴か、食えりゃいい料理になるかの両極端だし。
この辺は、男の一人暮らしあるあるだと思う。
「良かったです。あ、肉じゃがは私が作りましたので。自信作ですよ」
「だから、なんでお母さんがアピールしてるのよ。あ、肉巻きアスパラは私が作ったやつだから」
「どっちも美味しいですよー」
しかし、ぐいぐい来るなこの母娘……。
「あらあら。気持ちいい食べっぷりで嬉しいですわ。おビールはいかが?」
「あ、私が注ぐからお母さんはいいよ」
「駄目よ。お客さんなんだからちゃんとお母さんがお注ぎします」
……本当にぐいぐい来るなこの母娘……。
「それで、ですね」
2人が注いだビールを一杯ずつ呑んで、家庭の味を堪能して。
ちょっと気分がよくなってきた頃に、睦美ちゃんのお母さんは切り出してくる。
「はい。どうしましたか?」
「いえね。これってすごく重要な事だと思うんですが」
やはり来たかと身構える。
娘が連れてきた男を見極めるため、さてどんな事を聞かれるか。
将来の展望か、娘をどれだけ愛しているのか。
それとも、年の差をどう思っているのか。
その辺は、ちゃんと説明しないと駄目だと思う。
俺も内心覚悟を決めた。
「年収はどれくらいですか?」
随分生臭い質問だな、おい。
「ちょっと、失礼だよお母さん」
「何言ってるの。これより重要な事は無いのよ、睦美。お金が無くっても幸せ家庭なんて夢みたいな話、結婚するなら信じちゃだめ。愛しているから幸せにしてくれる、って言葉には、ちゃんと働いて不自由ない生活をさせてくれるって事も入るんだからね」
実感の籠もった声であった。
「そこまで拘る事かなぁ……」
「うちはお父さんが頑張ってくれているからそう思えるんです。それでも家計を支えるのは大変なんだから。睦美も主婦をやれば分かります」
実際お金は大切だ。
余裕が無いと心が貧しくなるし。
生活苦がいがみ合いの元になる。
やっぱり、男は家計を支えてナンボなんだと思います。
「えっと、年収ですか。多分同年代の中では貰っている方だと思うんですが……」
と、去年の年末調整で出た額を言う。
ぴくんと、お母さんの片眉が上がる。
「ちなみにご職業は」
「公務員です」
2人はぴたりと固まってぽろりと手に持った箸を落とした。
わぁ、漫画みたいな反応だぁ。
「睦美」
「うん」
「逃しちゃ駄目よ」
「分かってる」
母娘でサムズアップを交わしている。
いや、その反応はどうだろう。
「娘をよろしくお願いします。それどころか、私がお嫁に行きたいくらいです」
冗談にしてもタチが悪い事まで言い出す。
「お母さん。私が先約だからね」
「やーねー。冗談よ冗談。ねぇ?」
「あはは……そうですね」
そそっと椅子を近づけてくる2人。
面白い母娘だなあ。
「いや、もっと聞くことあるでしょう。娘を嫁にするなら専業主婦にする気があるのかとか」
「それは聞いてみたかったんですけど、どうなんです?」
俺の言葉に睦美ちゃんが食いついてくる。
「うーん。正直、専業主婦で家を守っててもらいたいんだけど。それだとストレス溜まって大変だって言うからね。適度にパートをして貰って、その分のお金はお小遣いみたいに使えるとか。そういう感じはどうかと思っている」
半分以上、婚活斡旋所のおばさんの受け売りだけど。
まあ、俺の稼ぎだけでも生活は大丈夫だろうと思う。
金のかかる趣味は無いし。
家は持ち家だし。
車のローンも終わっているし。
「……あ。嬉しいかも……」
ぽっと赤くなる睦美ちゃん。
そうか、そう言うものなのか。
婚活おばさんの話だとは、言わないでおこうと決めた。
「子供は何人とか考えています?」
お母さんが突っ込んだ事を言い始める。
なんか、結婚する事前提みたいな感じになっている。
どんどん外堀を埋められている感。
「えっと。睦美ちゃんと俺の年齢差を考えると、絶対に俺が先に死ぬんですよね」
その前に事故や病気もあるかもしれないけれど。
それは考えないものとする。
「そうなると、一人残されて寂しい思いはさせたくないなって。そうならないくらいがいいのかと思っているんですが」
具体的な数とか考えた事はない。
というか、正直そういう気分にはならない。
だって中学生だよ、睦美ちゃん。
娘みたいな年齢の相手だ。
子供産ませるとかセックスするとか。そういう気分は沸いてこない。
「死んだ後の事とか考えた事も無いなぁ」
「そりゃ、睦美ちゃんはね。俺くらいの年齢になると考えるものだよ。俺にとっての将来は、老後って事になる年齢だからさ」
婚活を焦っていたのもその辺だ。
孤独死だけはしたくない。
同じ思いを持った女性もいるだろうから、上手くマッチング出来るだろう。
そんな気持ちで始めた訳だが
まあ、マッチングは上手くいかなかった訳なのだが。
「お父さんがそういう話をしているの、見たこと無いけど」
「いや、娘には言わないよ。ねえお母さん」
「お父さんがそういう話をしているのを見たことは無いわねぇ」
お母さん、あなたもか。
いや、きっと言葉にしないだけでお父さんは悩んでいると思うよ。
俺みたいな責任も何もない生活をしている独身男ですら色々と考えているんだから。
「そうね。睦美の言う通り素敵な人で、お母さん嬉しいわ」
「でしょー」
心の中でお父さんのフォローをしている間にも、母娘は能天気に盛り上がっている。
大変だなぁ、お父さん。
「お母さんとしても安心しました」
「いいんですかね。安心しちゃって」
俺の言葉に、はぁと気の抜けた声で答えるお母さん。
「さっきも言いましたけど。俺、かなりの年上ですよ。先に死ぬってのもありますけど。そもそもこんな年の差で、そういう話ってのに違和感とか無いのですか?」
「ありませんよ」
はやい。
そして強い。
きっぱり言い切るお母さん。
「貴方がそうやって、睦美との事をちゃんと悩んで考えてくれている。それはよく分かりましたから。だから、娘を預けても安心だと思いました」
背筋を伸ばして俺を見て、お母さんは真剣な顔で言う。
「正直に申しまして、今の睦美の気持ちは子供のおままごとと変わりません」
「お母さん」
「今は黙っていなさい、睦美。大切な話をしているの」
抗議をする睦美ちゃんを、お母さんは優しく制する。
「でも貴方は、それを真剣に受け入れて。この子がちゃんと大人になるまで見守ろう。そう思っているでしょう?」
本当に申し訳ありません。と、お母さんは言う。
乗りかかった船だから、男としてはやってやろうと。
それくらいの気持ちで始めた事だ。
それで、一人の女の子が幸せになるなら、俺の人生の実りという奴になるのだろうと。
「この子がもうちょっと成長して。今のこれが、ただのおままごとだと気がついて。それで、本当に誰かを好きになった時。その時まで待ってくれると。言う事ですよね」
その頃にはもう、俺の男としての賞味期限は切れていて、そのまま一生独身で終わるだろう。
まあそれでも、睦美ちゃんが幸せに暮らしてくれるならそれでいいし。
俺も気楽な独身貴族で、エルフ師匠やみんなと、楽しくTRPGでもやっていけばいい。
そんな風に考えている。
考えていた。
「そんな人ですもの。きっと睦美を幸せにしてくれると信じています。何年後かの睦美も、それに気付いてくれると信じています」
しかしどうも。
そう言う風にはいかないっぽい。
「ふつつかな娘ですが、どうかよろしくお願いします」
深々とお母さん。
どうやら、俺は満点合格であるらしかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます