第102話「新たな戦場へ」

 ネイギアスとの一方的な交信を終えたロイエスは、さっきのシオドアのように片膝をついた。

 腫れ上がった参謀の顔を見下ろし、


「わしらはこれからウェンドアに行くが、おまえは連れて行けない」


 どういうことかわからず、水兵や士官たちは顔を見合せた。

 提督の声は穏やかだ。

 海に投げ込もうという気配は感じられない。


 もし投げ込むなら「連れて行けない」などと穏やかな物言いではなく、「裏切り者を鮫に食わせてやれ!」と拳を振り上げる御方だ。


 ウェンドアへ連行して裁判を受けさせるのではないのだとしたら、一体……


「シオドア、すまんが女将を呼んできてくれるか?」

「はっ」


 だが彼の敬礼する手が下がる前に、背後から声がした。


「いるわ」


 女将だ。

 いつの間に来たのか、タラップを渡ってすぐのところに立っていた。


「騒ぎ声と銃声が聞こえたから、何事かと見に来たのよ」

「それはすまなかった。銃が暴発してしまったのだ」


 ロイエスは彼女に敬礼しながら、そう釈明した。


「暴発ねぇ……」


 言いながら、縄でぐるぐる巻きに縛り上げられている軍人に目をやった。

 どう見ても火傷ではない。

 何があったかは想像がつく。


「……まあ、いいでしょう。このさんは適当なところで下してあげるわ」

「よろしく頼む」


 女将と提督だけで合意してしまったが、置いて行かれた者たちはなぜそうなるのかわからない。

 二人に付いて行けるのはシオドアだけだ。

 彼以外は全員、提督に理由を求めて詰め寄った。


 当然だ。

 親にとって馬鹿な子ほどかわいいと言うが、内通まで見逃すのは度が過ぎている。

 助けてくれたエルミラたちを見逃すのとはわけが違うのだ。


 提督もそのことは理解している。

 だが、


「批判はごもっともだが、ただの慈悲心から庇っているのではない。考えがあってのことだ」


 足元に転がる蓑虫殿がウェンドアや帝都に帰ったら、厳しい尋問が待っている。

 生きてはいられまい。


 また、連邦に行ったら始末されるだろう。

 ファンタズマの引き渡しに失敗したからだが、成功したとしてもその後は無用だ。

〈老人たち〉は用済みとなった者に厳しい。


「だったら、やっぱりこの場で……」


 若い水兵が呟いた。

 本当にその通りだ。

 どの道、死しか待っていないなら、ここでやればいい。

 裏切り者に然るべき罰を受けさせた方が、皆も納得できる。


 しかし提督は首を横に振る。


 蓑虫はネイギアスの企みを知る生き証人だ。

 成功しても始末するのだから、失敗したとあれば何が何でも息の根を止めに来るだろう。

 だから誰が何を仕掛けてくるのか見るために、餌として生かしておきたいのだ。


 温情ではなく、生き餌として利用するため。

 ようやく皆が納得し、あちこちから「まあ、そういうことなら」と聞こえてきた。


「…………」


 納得してもらえたので、それ以上話す必要はなくなったのだが、伏せていることがある。

 この中でそれがわかっているのは、提督と女将、それとシオドアだけだ。

 三人の目が一瞬合い、思っていることは一緒だと確認し合うのだった。


 誰が始末しに来るのかを見たいだけなら、女将に預ける必要はない。

 むしろセイルジットの船室に閉じ込めておいた方がわかりやすい。

 蓑虫は帰港後、軍の刑務所に収監することになる。

 そうなれば手が出せなくなるので、艦隊内に潜む回し者は帰還の途上で仕掛けてくるはずだ。


 そいつが誰なのか興味はあるが、司令部やその上に潜んでいる回し者を炙り出す方が大事だ。

 そのためには暗殺を阻止しなければならず、セイルジットより神出鬼没の宿屋号の方が安全だ。


 その上でロイエスは仕掛ける。

 司令部への報告書に、生死不明と記すのだ。

 彼は海に落ち、懸命の捜索にも関わらず見つからなかったということにする。

 一方、艦隊に潜んでいるかもしれない回し者には、女将に引き渡して確実に生き延びてしまったところを見せつける。


 さて、回し者はこれをどう報告するのか?

 二つの食い違った報告を前に、司令たちはどう動くか?


 蓑虫改め、生き餌殿の歯軋りが聞こえてくる。

 まだ観念していないようだ。

 参謀というのは、何か良い方法はないかと悪知恵を働かせるのが仕事だ。

 諦めの良い者には向いていない。

 彼は良くも悪くも参謀だったということだ。


 提督は上層部の裏切り者を炙り出す餌ではなく、手塩にかけて育ててきた弟子に声をかけた。

 他の者たちにも聞こえるように。


「おまえも、いろいろ思うところあってのことだと推測するが——」


 どこに寝返るとしても、ネイギアスだけはない。

 裏切らせるとき、すでに始末する用意が完了しているような連中を信用するべきではなかった。


 なのに、なぜ自分だけは始末されないと信じたのだ?

 艦隊で参謀を務めるほど頭脳明晰だから、あの国でも重用されると思ったか?

 残念だが、そうはならない。

 頭脳なら、すでにあの〈じじい共〉がいるので間に合っている。


 欲しいのは、奴らの考え通りに動く戦力だ。

 つまりファンタズマだけ手に入れば良い。

 エラケスは不要だ。


 それに奴らは、自分たちがほざいた甘言に乗るような奴を頭脳明晰だとは思わない。

 とっくに口封じの用意が整っているのに、自分だけは特別扱いされると信じているようなお利口さんは、愚か者だ。

 愚か者の使い道は……

 捨て石だ。


「エラケスも、そしておまえもな」

「捨て石……」


 縄で縛られている肩がワナワナと震えている。

〈老人たち〉に対する怒りなのか。

 それを見抜けなかった自分に対してなのか。

 あるいは両方か?


 連邦に行けば始末される。

 帝都に帰ったら処刑されるか、厳しい尋問で獄死する。

 ウェンドアも同じだ。

 内通者を誘き出す餌なのに、死なれたら困る。

 彼に生き続けてもらうには、遭難していたところを宿屋号に救助されたということにするのが最善なのだ。


 いよいよお別れだ。

 おそらく今生の……

 ロイエスは怒りに震える弟子に別れの言葉をかけた。


「元気で暮らせ。くれぐれもネイギアスと我が国には近付くな」


 餌だから?

 いや、それだけではない。

 縁あって出会い、共に戦い、一緒に飯を食ってきた仲間なのだ。

 これ以上、〈じじい共〉の奸智に引っかかって死ぬ仲間を見たくない。

 エラケスのようなことは二度と御免だというのが大きかった。


 宿屋号から豪傑のように体格の良い給仕がやってきて、蓑虫は運ばれて行った。

 その逞しい肩に担がれて行ったという方が正確か。


 豪傑の仕事はそれだけではない。

 負傷者たちの応急手当が済んだ。

 そのことを女将へ報告しにきたのだった。


 いよいよ出発だ。


「世話になった……いや、これからも世話になるという方が正しいか?」


 宿屋号に戻る女将へ提督は礼を述べた。


「お気になさらず。これが私の仕事だから」


 海で困っている人を救い、安全なところへ送り届ける。

 それが、彼女が自分自身に課した使命だ。

 いままでもこれからも続く。


 今日のことも別に変ったことではない。

 セルーリアス海を航行していたら、漂流している帝国の元軍人さんを拾った。

 そして彼はどうやら訳ありのようなので、ネイギアスでも帝国領でもないところへ送り届ける。

 それだけだ。


 女将は宿屋号へ戻った。

 彼女が甲板に降り立ったのを見て、水夫たちがタラップを収納する。


「総員、気を付け!」


 セイルジットから大きな声がしたので、彼女も水夫たちも振り返った。

 見れば帝国兵たちが舷側に沿って整列し、こちらを向いている。


 再び大きな号令。


「敬礼!」


 全員、一斉に宿屋号へ向かって敬礼した。


 船妖から助けてもらった。

 そして裏切ったことは許せないが、いままで仲間だった奴を預かってもらう。

 その感謝を込めてのものだった。


 給仕たちは手を振り返して敬礼に応えた。

 女将も手を振る。


 ——よくわかったでしょう、坊や。いまから用心しなさい。


 心の呟きがロイエス坊やに届くことはないが、そう忠告せずにはいられなかった。


 これから彼らの向かう先はウェンドアだ。

 だがそこはどこの国の港なのか?

 正式には帝国領だが、内実は連邦の港かもしれないのだ。


 それでも彼らは行くしかない。

 このまま裏切り者共の勝手を許せば、帝国もリーベルと同じ運命を辿る。

 なんとしても阻止しなければならない。


 第三艦隊が受けた命令は討伐命令だ。

 命令書には海賊エルミラとその一味を討伐せよとある。

 文字だけを素直に読むと、エルミラやノルトたちを成敗せよという意味に読めるが、いまはもっと掘り下げるべきだ。


 その敵を討伐しなければならないのは、帝国にとって良くない存在だからだ。

 そう考えると、成敗すべきはエルミラ個人ではなく、帝国に仇なす海賊ということになる。


 追撃の結果、討伐対象の海賊エルミラは存在しなかった。

 いたのは、ただのエルミラだ。


 よって命令に従い、今後は帝国に仇なす〈一味〉の方を討伐する。

 ネイギアスに内通している者共を。


 だからこれは帰還ではない。

 転戦だ。

 セルーリアス海での戦いは終わったので、次の戦場に向かうのだ。

 次なる戦地、連邦領ウェンドアへ。

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