第100話「漁師鍋」

 船妖を串刺しにしたエルミラは宿屋号が気になった。

 さっきから帝国軍の奴らがこっちを見て驚いている。


 いま、彼女は見なくてもすべてがわかる状態なのだが、それでも人の心理として何か見落としたかと不安になる。


 だが彼らは彼女に驚いているのだ。

 視線を辿って振り返っても、そこにあるのは広大なセルーリアス海だけだ。


 危険はないと確認できて安心したのも束の間、帝国軍水兵の一人がボソッと呟いた言葉が聞こえてきた。

 その途端、彼女は憤慨した。


「失礼な奴だな。誰が化け物だ!」


 確かに失礼だが、仕方あるまい。

 彼らは始原の魔法など知らないのだ。

 一人の人間が船妖を血祭りにあげるのを目撃したら、化け物だと思うのは自然な感想だろう。


 始原の魔法使いの前で悪口は禁物だ。

 世界一の地獄耳は、小声はもちろん、心の声すらも聞き逃さない。

 だから船妖が蓄電しようと企んでいることにも気が付いている。


「諦めの悪い奴だな」


 このときのエレクタルガはファンタズマを攻撃しようとしていたわけではない。

 雷撃で氷を砕こうとしているだけだということは知っている。

 諦めが悪いと言ったのはそのことではない。


 脱出に成功した後は逃げるのか?

 それとも一か八か噛み付きにくるのか?


 船妖はいま、串刺しから逃れることしか考えていないが、その後についてはどちらもあり得た。

 エルミラはその迷いを読み取ったのだ。


 敵はまだ戦意を失っていない。

 攻撃を続行する。


 彼女は魔法剣を静かに抜いていった。

 すると彼女の周囲に集まっていたのと同じ空気のようなものが、現れた刀身にも集まっていく。

 完全に抜き出したときには何らかの付与が完了していた。

 詠唱せずに付与できてしまうので、それが何だったのかはわからないが、始原の魔法による恐るべき力であることは確かだ。


 準備が整った彼女は一歩前へ踏み出し、忽然と消えた。

 空間転移だ。

 現れたのは蓄電中の一本角の前。

 剣を水平に構え、その根本に狙いを定めた。


 始原の魔法は究極の魔法だ。

 ただ、一つ問題があった。

 術者は〈純粋な魂〉でなければならない。

 そうでなくなったとき、〈気〉との連結が途切れる。


 純粋ということは、余計なことを考えないということだ。

 常識とか、理性とか、そういう〈型〉になりそうなもの全般が、この魔法にとっては余計なものなのだ。

 むしろ気絶や夢見心地、記憶がなくなるほどの酩酊状態等の朦朧とした状態が望ましい。


 だからややこしいことは考えない。

 朦朧とした意識で考えつくことは、日々行っていることだけだ。


 敵艦だ。

 私は魔法剣士だ。

 よし、マストを切ろう。


 始原の魔法使いが考えることはこれで十分だ。

 エルミラは樵が斧を打ち込むように、一本角を横に薙ぎ払った。


 …………


 普段ならここで「ザァァァンッ!」とか「ズバァァァッ!」と豪快な切断音がするところだが、今日は違った。

 何の音もしない。


 しかし空振りしたのではない。

 魔法剣の刃は角の根本に命中し、反対側に抜けていった。

 切断成功だ。


 倒立状態で切断された角は重みで下にずれると、何度か氷の上を弾んで海に落ちていった。


 ボチャッ!

 バチッ! ジジジッ!


 僅かに残っていた電気が小さく水を焼いた。

 角は落下の勢いで一旦水没したが、すぐに浮上してきた。

 元は木製のマストだったのだ。

 表面はフジツボだらけだが、切断面を見ればそのことがわかる。


 それにしても、綺麗な切断面だ。

 一体、何を付与したらこんな切り口になるのか?

 切ったというより、なくなったかのような……


 彼女の魔法剣に〈気〉が込めたもの、それは〈空間の断裂〉だった。


 人々に最も切れ味の鋭いものは何か、と尋ねたら真っ先に挙がるのはリーベル製呪物刀剣だろう。

 だが、これは一番ではない。

 世界で最も鋭利な刃は、空間魔法使いが繰り出す〈断裂〉だ。

 刃と例えたが、正確には切っているのではない。

 切断したい箇所を、剃刀より薄く空間転移させているのだ。


 空間転移はこの世界にある凡その物質を転移させ得る。

 凡そとは控えめだが、死に物狂いで探せば一つくらいはあるかもしれない。

 それくらい稀だ。


 だからこの戦いにおいては、ないと断言していい。

 今日、この〈刃〉に切れぬものなし。


「オゴォォォッ!」


 固定されたままの巨体を、ビクンビクンと振るわせながら絶叫した。

 どうやら角には血管や神経が通っていたらしい。

 切断面から血を噴き出し、悶え苦しんでいる。


 ——こいつはやばい奴だ!


 ようやく危機を悟った船妖は再び蓄電を開始した。

 今度は全身で。

 四方八方に放電して、エルミラを追い払うつもりなのだ。


「しつこい!」


 再び空間転移し、船妖の直上へ現れた。

 剣に付与されている〈断裂〉はまだいきている。

 いや、付与がいきている内にと焦ることはないのだ。

 彼女が純粋である限り、いくらでも〈気〉が付与してくれるのだから。


 彼女が角を切り落としたのは、ファンタズマの近くで角に蓄電を始めたから。

 では、全身で蓄電しようとしたら?


 結果を述べると、船妖エレクタルガは漁師鍋の具のようになって海中に沈んだ。

 途中過程を克明に記すのは控えたい。

 あまりにも残酷すぎる……


 漁師鍋がどんなものかは各自で調べてほしい。

 いろいろな調理法があるようだが、一口大に切り分けてあるものが食べやすいと思う。

 おそらくは、セルーリアス海の魚たちも……


 亡国の姫が駆る現代の幽霊船ファンタズマと、女将と因縁深き古の幽霊船エレクタルガ——

 この二者の戦い、エルミラが持っている手札では、どう役を作ろうとも敗北必至だった。

 ところが途中で〈世界〉が乱入し、始原の魔法で足りない手札を彼女に渡し、無理矢理勝ち役を作った。

 とんでもない反則だ。


 エレクタルガは抗議していい。

 だが、海中からは何も聞こえてこない。

 どうやら、異議はないらしい。

 あっても、細切れで言える状態ではないのだが……


 誰も異議がないなら、これにて決着する。

 エルミラたちは勝った。


 この海に幽霊船は一隻でいい。

 二隻はいらない。

 ファンタズマだけでいい。



 ***



 宿屋号がファンタズマにタラップを渡したのは、すべてが終わった後のことだった。


 海が赤い。

 おそらく沈んだエレクタルガのものだろう。

 水面を広範囲に赤く染め、そこに浮かぶファンタズマはまるで血の海を往く魔物の船のようだ。


 赤い海など、気味が悪い。

 だが、仕方がない。

 ファンタズマは舵をやられて操舵不能だ。

 こちらが動いて転移位置につけなければならない。


 被害も気になる。

 リルちゃんによれば、本人も含めて怪我人が多数出ているらしい。

 巻貝から伝わる声が震えていた。

 詳細を尋ねずとも、女将にはその甚大さが理解できた。


 彼女はタラップの固定を確認できるや、急いで渡っていった。

 手当ての用意を整えた給仕たちが後に続く。


 一番心配なのはエルミラだった。

 いつもなら彼女が通信してくるのに、少女が一人で通信してきた。

 なぜ彼女ではないのか?


 接近中にそのことを尋ねると、涙声で「エルミラが起きない」と繰り返すばかり。

 要領を得ないので、シオドアに代わってもらった。


 彼によるとこういうことらしい。


 エルミラは次々と空間転移を繰り返しながら、エレクタルガを一人で退治した。

 彼女が戻ってきたのは船妖が跡形もなくなり、周囲が血の海に変わった後のこと。

 血だらけで自分たちの前に現れ、その場で崩れ落ちた。

 彼が咄嗟に反応し、彼女を受けとめたので頭は打たなかったが、そのまま昏睡状態に陥ってしまった。


 どんなに揺さぶっても起きないし、這いずってきたリルが呼び掛けても反応がない。

 少女を落ち着かせながら確認してみたが、血は船妖のものだったようで、エルミラに外傷はなかった。

 そうなると、昏睡状態の原因はさっきの超魔法だということになる。

 専門外の彼にはお手上げだった。


 女将はシオドアに、何もせず安静にしておくようにと伝え、合流を急いだ。


 始原の魔法そのもので術者が消耗することはない。

 ただし〈気〉と意思疎通できる状態、則ち〈純粋な魂〉で居続けるためには膨大な気力・体力を消耗する。

 生死に関わるほど……


 エルミラはいま、気絶というより生死の境を彷徨っているのかもしれなかった。

 これも師マジーアが言っていた。


 魂が純粋な状態とは、常識や理性といった殻から魂が剥き出しになっている状態だということだ。

 生命の枯渇も顧みない魂の大声なら、確かに世界は応えてくれるかもしれない。

 だが術者はどうなる?

 生命は無限ではないのだ。


 女将の胸騒ぎが治まらない。

 タラップを渡り、ファンタズマの甲板に下り立つと真っ直ぐエルミラの下へ駆け寄った。


 そこには片膝をついて様子を見守っているシオドアとスキュートがいた。


「来てくれたか、女将」


 人の気配に気付いて振り返るシオドア。

 待っていた女将がやってきたので、場所を譲った。


 スキュートも続いて立ち上がる。


「申し訳ございません。私がついていながら……」


 彼はやってきた女将に頭を下げて詫びた。

 しかしそれは無理というものだ。


 彼は付与と防御魔法の達人だ。

 始原の魔法はもちろん、〈時〉についても素人なのだ。

 その点においては、彼もシオドアも大差ない。

 彼もまた〈時の減速〉の影響下にあったのだ。


 もどきかもしれないが、それでも女将は〈時〉の使い手だ。

 彼女なら多少は抵抗できたかもしれないが、それを心得のないスキュートにも望むというのは酷だ。


「そんなことはない。あなたはよくやってくれたわ」


 これは気遣いではなく本心だった。

 誰も今日、伝説の魔法を目撃することになるとは予測できなかった。

 それまでの間、彼は確かに防御魔法を駆使して一行を守っていたのだ。

 役目をしっかりと果たしていた。


「あとは引き受けるわ。あなたは他の人たちをお願い」


 女将の後に続いて給仕たちもタラップを渡り、各所に散らばって負傷者の手当てを行っていた。

 そこへ加わってくれという指示だ。


 彼は「かしこまりました」と一礼し、足早に向かった。


 スキュートは去り、そこには女将とシオドアが残った。

 気が焦るシオドアが彼女に尋ねる。


「で、こいつはどうなってしまったんだ?」

「ちょっと待って」


 いま来たばかりでわかるわけがない。

 片膝をついてしゃがみ込むと、横たわる弟子に手を翳した。

 掌の先に意識を集中していく。

 局所的な探知魔法だ。

 本来は効果範囲を広げていくものだが、彼女は逆に狭めた。

 何か精密に調べなければならないとき、そうすることでより詳細に知ることができるのだ。


 直近では、ファンタズマ号で発動した。

 リル本人が眠る核室の扉に、死霊魔法の呪いが掛かっていないかをこれで確認した。

 今日はエルミラに対してやる。


 人も万物の一つだ。

 その身体には〈気〉が流れている。

 だから不調を訴える者を調べてみると、〈気〉の流れが乱れていたり、淀みが発生している。

 その流れを正しく戻してやると、軽傷者たちは自然と回復していった。

 さすがに重傷者はそれだけでは済まず、神聖魔法に任せるしかないのだが……


 では、いまのエルミラは?

 外傷はなく、内臓損傷でもないのだから軽傷者ですらない。

 ならば健康なのかというと、昏睡状態から目覚めないのだから歴とした重傷者だといえる。


 しかし神殿に駆け込んで、どう説明すれば良いのか?

 奴らが信じているのは、奴ら御手製の神だけだ。

 始原の魔法について説明しようものなら、邪教だ、外法だ、と大騒ぎになる。


 ここは女将の手当てに賭けるしかなかった。


 ——まったく……どうしようもないお馬鹿さんだわ。


 ぐったりとしている弟子を調べながら、女将は心の中で小言を呟いた。


 この子に初めて会ったときから、他の者にはない何かを感じ取っていた。

 補給を終えたファンタズマを送り出してから、それが何なのかを考えていたが、ずっとわからなかった。


 わかったのはハーヴェン坊やとの交渉後だ。

 久しぶりに彼と話して気が付いた。

 坊やは闇そのものだったが、エルミラはその逆だ。

 光そのものなのだ。

 嘘偽りのない、剥き出しの心で相手にぶつかっていく真っ直ぐすぎる魂……

 彼女は真の魔法に最も近かった。


 ——マジーア、あなたの言う通りだったわ。


 一人前の魔法使いになろうと意気込んでいた矢先に告げられた魔法もどきの話。

 少女だったロレッタは反発した。

 もどきではなく、本当の魔法使いになりたい、と。

 しかし師匠は首を横に振り、幼い弟子を教え諭した。


 神と世界は異なるものだが、人の手に余るという点では似たようなものだ。

 そんなとんでもないものとやり取りができるのは天使くらいだ。

 本当の魔法——始原の魔法は本来、神や天使が奇跡を起こすのに用いる魔法なのだ。

 人間が使うことは想定していない。


 だからもし使い手がいたとしたら、そいつは人というより天使に近い。

 真面な人間ではない。

 壊れている。


 真似すればそいつと同じように、人間という器がひび割れ、魂が砕ける。

 人は生きながら天使にはなれないし、なろうとしてはいけない。

 我々凡人には魔法もどきで十分なのだ。


 師匠は正しかった。

 過日の教えを思い返しながら、丁寧に掌を翳していく。

 いくら天使のように純粋だったとしても、この子は生身の人間だ。

 僅かな時間ではあったが、想像を絶する負担がかかったはずだ。

 どこかにが生じていないかと、くまなく探した。


 しばらくして、女将の精密な探知は終わった。

 安堵の溜め息を吐く。


 ひびはなかった。

 憔悴しているだけだ。

 だがただの憔悴と軽んじることはできない。

 しばらくは絶対安静だ。


「そうか、それは良かった……まったく、人騒がせな姫様だな」


 結果を聞いたシオドアの口から、安堵と文句が続いて出た。

 女将も同感だ。

 眠り込む姫様を見下ろしながら、二人は自然と笑いが零れた。


 一頻り笑った後、女将は集束していた〈探知〉を周辺に広げた。

 何かあれば給仕たちが知らせてくれる。

 それでも念には念を入れ、女将自ら広域探知を行った。

 その結果は——

 周囲に敵影なし。

 戦いは終わった。


 シオドアは自分たちの艦に戻る。

 ファンタズマと宿屋号はタラップで繋がり、さらにその反対側では同じようにセイルジットと繋がっている。

 ボートを漕がなくても、宿屋号を経由して徒歩で帰れるようになっていた。


 元々、船妖の接近をセイルジットへ知らせるために乗艦していたのだ。

 終わった以上、ここにいる必要はないし、いるべきではない。


 彼個人はいま、エルミラを海賊とは思っていない。

 ネイギアスの私掠船共と違い、積極的に帝国へ加害してくる輩ではなかった。

 討伐命令は撤回すべきだと思う。


 だが司令にそう申し出ることはできない。

 誰がネイギアスの回し者かわからない状況で、命令撤回を叫ぶのは危険だ。

 奴らに濡れ衣を着せられかねない。

 そうなれば、何も事情を知らない者が討伐任務を引き継ぐ。


 ゆえに彼女たちの安全のためには、今後も海賊エルミラと呼び続けた方が良い。

 我々だけでを続けるのだ。


 彼女は海賊役。

 そして自分たちは討伐艦隊役だ。

 憎み合う敵同士が舞台の上でいつまでも隣り合っていたら、芝居の内容がおかしくなるではないか。

 だから別れは告げず、眠っている間にセイルジットへ戻る。


 シオドアは踵を合わせ、女将とエルミラへ敬礼した。


「良い航海を」


 ただの挨拶ではない。

 本当にそう願わずにはいられなかった。


 この世界のどこにも帰るべき港を持たない流浪の小船、ファンタズマ号。

 しかしその小船が厳重なウェンドア沖の哨戒網を潜り抜け、二つの魔法艦隊を壊滅させた。

 恐るべき竜殺しの力は、各勢力の知るところとなった。


 奴らは解体など望まない。

 様々な策を用いて、世間知らずの姫様から取り上げようとするだろう。

 帝国が、ネイギアスが、解放軍と称する賊共が。

 それ以外の国も油断できない。


 唯一の味方は目の前の女将だが、彼女自身も放浪の身だ。

 提督が争いを避けるほどの大魔女に一対一で勝てる者はいないかもしれないが、戦争は一対百、千、万があり得る。

 いずれかの勢力と戦争になり、敵の総大将が犠牲を顧みずに全軍突撃を命じたら、果たしてファンタズマを庇い切れるのか?


 なんと困難な旅路だろう。

「よい航海を」と祈らずにはいられない。


 女将は短い挨拶に込められた彼の思いを汲み取り、膝を少し曲げて礼を返した。


「この子たちのことは任せて。あなたたちも気をつけてね」


 そして結びに例の言葉をかけた。

 今後も〈ロレッタの宿屋〉を御贔屓に——


「またどこかの海で」

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