第89話「駆除と捕食」

 セイルジット号と背後に迫る船妖は、空間鏡の中で中心に向かって刻々と近付いていた。


 リルはマストに掴まりながら前方の海に目を凝らし続けている。

 まずは彼女が見えていなければならない。

 彼女が見たものを皆にも見せてくれているのだから。


 スキュートの話が終わった後、少女はシオドアが持つ伝声筒を見せてもらった。

 手に取ってしげしげと眺め、「うん、わかった」と一言。

 お礼を言って筒を返し、また前方監視に戻った。


 取り残された大人たちは一体何がわかったのかと首を傾げ合う。

 だが、さすがというべきか。

 最初に気が付いたのはエルミラだった。

 見れば、ファンタズマの模型を中心に新たな円が表示されている。

 伝声筒の通信可能範囲だ。


 偉大なる盾の先人から受けた教えとリルの協力。

 シオドアは落ち着いたようだった。

 内心はともかく、いまは静かに円の端を凝視している。


 彼はもう大丈夫そうだ。

 安心したエルミラはマジーアを抜いて詠唱を始めた。

 戦闘に備えて、いまのうちに付与を済ませておくのだ。

 乗員たちもそれぞれ準備を整えていく。


 その間もセイルジットと円の距離は狭まっていった。

 まもなく通信可能領域に入る。


「シオドア、自分のタイミングで呼び掛けてくれ。私たちは船妖に備えなければならない」

「ああ、ありがとう」


 お互いやるべきことがある。

 女将や提督が恐れていた仲間割れは起きなかった。

 スキュートの説教が効いていたのだ。


 盾としての心構えはシオドアに向けてのものだったが、エルミラにも響く話だった。


 彼女は剣か盾かと問われたら剣だ。

 ただし、強敵たちをなぎ倒して己の強さを証明する剣ではない。

 リルや乗員たちを守るための剣だ。


 誰かを守らなければならない者は、私心を捨て、敵の動向を注視していなければならない。

 それは盾に限った話ではなく、人を守る剣にも言えることだ。

 つまらない喧嘩などしている場合ではなかった。


 シオドアは空間鏡に、エルミラは前方に集中した。



 ***



 ついに伝声筒の円にセイルジット号の模型が接触した。

 間髪入れずシオドアが呼び掛ける。


「こちらシオドア。セイルジット、応答せよ」

「…………」


 僅かに遠かったか?

 間を空けずにもう一度。


「こちらシオドア。セイルジット、応答せよ」

「……ら……ジット。……度……む」


 届いた。

 しかしまだ遠いせいか、互いに聞き取れない。

 それでも諦めずに繰り返している内にようやく鮮明な通信ができるようになった。


 ファンタズマ甲板のシオドアはホッと一息ついた。

 まだ前方にセイルジットの艦影は見えない。

 なんとか通信が間に合い、最悪の事態は免れたようだ。


 だが船妖が迫っている。

 まだ予断を許さない状況だ。

 急いで本題に入った。


「落ち着いて聞いてほしい」


 いきなりだと仰天すると思い、そう前置きしてから一番大事なことを告げた。


「第三艦隊はエルミラと和解した。いまはファンタズマから通信している」

「な、何だと⁉」


 予想した通りだった。

 伝声筒からセイルジット側の動揺が伝わってくる。

 艦長の周囲にいた士官たちの声が聞こえてきた。


 討伐命令はどうなる?

 提督は?


 すべてごもっともだ。

 もしシオドアでも同じことを言うだろう。


「その提督とエルミラとの間で和解が成立したのだ。これは事実なのだから受け入れるしかない。それより——」

「ちょっと待て! 司令にはどう報告するつもりだ?」

「そのことについては後で説明する。それよりも急ぎの話があるのだ」


 朝食会での話を聞かせている暇はない。

 セイルジット側を遮り、強引に要件を伝えた。

 もうすぐそちらから視認できると思うが、ファンタズマは敵ではないのだから戦おうとするな、と。


 艦長や士官たちは静かに聞いていてくれた。

 いや、静聴というより、絶句しているという方が正しいのかもしれないが。


「それから——」


 話しながら空間鏡に視線を送る。

 船妖の姿がさっきより大分はっきりしてきた。

 前頭部というか、甲板だった箇所から伸びるマストらしきものが、かつては一隻の船だったことを偲ばせる。


 あくまでもマストらしきものだ。

 もうマストとして使われていないことは明らかだった。

 捕食の度にどこかへぶつけたのか、帆桁はすでになく、海流に研がれた柱は削れて先端鋭く尖っている。

 まるで一本角だ。


 あれで下から突き上げられたら浸水は免れない。

 いや、あの長さなら核室を貫くことだってできる。


「貴艦はおそらく大頭足の追撃に備えていることと思う」


 読みは当たった。

 セイルジットでは二艦分の魔法兵がいるので、余裕を持って迎撃準備を整えていた。

 提督たちを拾いに行く前に駆除しておくつもりだったのだ。


 シオドアは思わず伝声筒を強く握りしめた。

 怒りのあまりではない。

 間に合って良かったという安堵の気持ちからだ。


「そのまま全速で走り続けてくれ。なぜなら——」


 そいつは大頭足ではない。


「…………?」


 暫しの沈黙の後、思い出したように喧騒が沸き起こる。

 セイルジットは討伐命令を遂行中だったのだ。

 いまだ戦場の只中にいる。


 状況が変化すれば危険は増大し、その状況を把握できなければさらに増大する。

 戦場において不可解なことなどあってはならないのだ。


 それが急に、さっきまで追いかけていた海賊とは和解したとつげられ、さらに海中から接近しているのは大頭足ではないという。


 不可解だ。


 命のやり取りをする戦場で、不可解なことは一つもあってはならないのに、二つも。

 水兵や士官たちが騒ぎ出すのも無理はなかった。

 命に関わるかもしれないのだから。


 伝声筒からそのざわつきが伝わってくる。

 向こうの副長が彼らを静まらせている声も。

 不平不満や抗議の声を副長の怒鳴り声が塗りつぶしてく。


 少し待っていると、艦長の声だけになった。


「話を続けてくれ。要するに、下にいるのは何なのだ?」


 どうかパニックを起こさないでくれと祈りながら、シオドアはついにその正体を告げた。


「いま、貴艦を追っているのは船妖だ」


 一拍の間を置いて、


「船妖……封鎖海域の?」


 同じ反応を示した。

 封鎖海域は遥か西、そこで暮らしているはずのモンスターが東から追いかけてくる。

 誰だって疑問に思う。


「ここはセルーリアス海だぞ?」

「船妖は進化し、いまは自由に泳げるようになったらしい。もうコタブレナに近寄らなければ安全という時代ではなくなったのだ」


 セイルジットは自身の置かれている状況を正しく理解した。


 船妖に限った話ではないが、人類に海中の敵を叩く術はない。

 せいぜい奴らが空気中に出てきたところを叩くしかないのだ。

 そのとき、最も有効な武器が雷だ。

 ロレッタ卿たち三名が大頭足に勝利した日から、人類はずっと海のモンスターに対して雷撃を基礎としてきたのだ。


 船妖には、その武器が通用しない。


 空中に飛び上がってきたとき目掛けて雷球を撃っても、外殻の船体が砕かれるだけだ。

 諦めずに砕き続け、剥き出しになった妖魔に撃ち込めば効くかもしれないが、その頃には艦も人も食い尽くされている。


 それ以前に水中から出てこなければ打つ手はない。

 水中目掛けて撃ち込んでも無駄だ。

 雷球は水面で分散してしまい、船妖のいる深度まで届かない。


 迎撃は中止となった。

 指示通り、全速で東へ逃げ続ける。

 伝声筒から命令変更と了解の掛け声が漏れ聞こえてきた。


 掛け声はもう一つ。

 ファンタズマの見張台からも。


 前方に艦影一つ。

 望遠鏡を覗くと、水平線に帆船の白帆が薄っすらと見える。

 セイルジット号だ。

 帆一杯に東風を受け、全速で西進中だ。


 シオドアは望遠鏡を下ろすと、肩の力が抜けた。

 まだ終わりではない。

 それでもセイルジットがファンタズマ迎撃のために減速や転舵してしまうという危機は脱したのだった。



 ***



 危険を知らせた後も、セイルジット号との交信が続いた。


 追ってくるのは大頭足ではなく船妖。

 ネヴェル型では有効な撃退手段がないので逃げる。

 そこまではわかった。


 ただ、そうなると別の疑問が生じる。

 いつまで、どこまで逃げれば良いのか?


 このまま直進すればコタブレナ海、構わず突っ切った後はネイギアス北端を掠めていく。

 どう節約してもその辺りで水や食料が尽きる。


「そのことなら心配ない」


 シオドアは彼らの不安を否定した。

 逃げるのはあと少し。

 西で待つ宿屋号のところまでだ。


「宿屋号? 昔話の?」


 いまは戦闘中だ。

 迷信について論じる場面ではない。

 彼らが正気を疑うのも無理はなかった。


「疑われて当然だが——」


 その迷信の船に提督をはじめ、ノイエッド乗員が避難しているのだ。

 事実だと受け入れるしかない。

 辿り着けば、あとはあの魔女が安全なところへ飛ばしてくれる。


「とにかく全速で西へ走れ。目印は大きな双胴船だ。見つけたら減速せずに突っ込め。そうすれば皆助かる」

「りょ、了解」


 おそらく衝突の危険について尋ねたかったのではと思うが、それ以上訪ねてこなかった。

 賢明な艦長たちだ。


 戦場の真ん中で、なぜ、どうしてとグズグズしているような者に第三艦隊は務まらない。

 彼らは何をどうやるのか、それだけわかれば実行できるように鍛えられてきた。

 鬼提督の指導の賜物といえる。


 二艦の距離は縮んでいった。

 もう望遠鏡を使わなくても見える。

 左艦首前方、セイルジット号だ。

 まもなくすれ違う。


 あとはファンタズマが逃げるだけだ。

 当初は交信可能になったら直ちに転舵し、並走しながら説明する予定だった。

 しかしエルミラによって変更された。


 セイルジットには大勢の帝国兵が乗り込んでいるので、どうしても船速が鈍る。

 そのせいで船妖との距離がジワジワと縮まり始めていた。


 陸も海も捕食者の考えは同じだ。

 獲物が疲れるまで追いかけ、頃合いになったと判断したらもう一段速度を上げて仕留める。

 いよいよ仕掛けてくるつもりだ。


 このままでは追い付かれてしまう。

 身重のセイルジットを救うためには横槍を入れてその狩りを妨害するしかない。


 エルミラは囮になることを決断した。

 女将のためにも、これ以上船妖の犠牲者を増やすわけにはいかない。


 シオドアの交信中、彼女たちもぼんやりと聞いていたわけではなく、迎撃の用意を進めておいた。

 その用意が完了したようだ。

 ノルトがやってきた。


「姫様、ご指示通り、左舷全門に氷力弾の装填を完了しました」


 船が苦手とするものは色々あるが、氷山もその一つだ。

 鋭く尖り、衝突すれば鋼化装甲板ですら貫く。

 あの一本角で下から突き上げようというのなら、こちらは上から氷塊を撃ち込んで外殻を砕くのだ。


 セイルジットとすれ違ったときが戦闘開始だ。

 エルミラは左舷に向けて右手を高く掲げた。


「左舷、誘導射撃用意!」

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