第88話「盾たるもの」
ジャリリリッ——!
錨鎖の巻き上げが始まった。
ファンタズマが動き出す。
「方位〇九〇、
リルの特殊航行ではなく、人力による通常航行で行く。
各所から応答が返り、艦は少しずつ右旋回を始めた。
風精の力を借りないというなら、たとえ霊式艦でも他の艦船と同じだ。
東風に向かって直進することはできない。
西へ向いていた舳先が旋回していき、北東を指したところで舵を戻した。
しばらく行ったら今度は南東へ舵を切る。
そうやって風を斜めに受けながら、ジグザグと航行していく。
南東への転舵の後、左舷方向に目を凝らすが、セイルジットはまだ見えない。
ただそれは望遠鏡の範囲内に見えないというだけだ。
空間鏡の範囲は広いのだ。
そろそろ届くのではないか?
物は試しと、シオドアは伝声筒を取り出した。
「こちらシオドア、セイルジット応答せよ」
「…………」
伝声筒の通信範囲も決して狭くはない。
不明瞭でも構わないならかなり遠くまで届く。
しかしさすがに遠すぎたらしい。
——もどかしい。
目の前の球体内ではセイルジットを表す模型が見えているのに。
振り返って東の海を睨むが、見えないものは見えないのだ。
彼は舌打ちをして再び空間鏡を睨んだ。
そしてまた——
隣のエルミラは段々鬱陶しくなってきた。
——気持ちはわかるが……
喧嘩になりそうなことは避けようと慎んできたのだが、そろそろ限界だ。
注意しようと口を開きかけたとき、先に動いた者がいた。
スキュートだ。
「恐れながら、シオドア様は第二艦隊時代も防盾艦の艦長だったとお聞きしましたが……」
「え? あ、ああ。そうだが?」
エルミラは言いかけていた注意を喉の奥に押し戻し、大付与術士の話に耳を傾けた。
——世間話でもして紛らわせるのか?
一緒に空間鏡を囲むエルミラとノルトは顔を見合せた。
「普段、海賊のお客様ばかりなので、たまには他国の防盾艦のお話を聞いてみたいのです」
こんなときに?
シオドアだけでなく、話の推移を見守っている二人もそう感じた。
いつ通信可能領域に入るかわからないというのに……
「王国の防盾艦ほど洗練されていないし、それほど面白い話でもないと思うが……」
なぜいまそんな話をさせたいのか、シオドアには彼の意図がわからない。
それでも……
ロレッタ卿が給仕に迎えるほどの人物が、いまの状況を理解できないはずはない。
にも関わらず、防盾艦の話を聞きたいと所望しているのだ。
何か意味があるのかもしれない。
そう考え、望み通りに防盾艦の話を始めた。
「我が国に限ったことではないが——」
防盾艦というものは、撃たれるのが仕事だと言っても過言ではない。
壊れた装甲板の上に装甲板を張っていくので、遠くから見ると継ぎ接ぎだらけのボロ船のようになっていく。
そんなボロ船に求められるのは打たれ強さと速力のみ。
誘爆の危険があるからと、砲も火薬も下ろして出撃することだってある。
おまえは手柄を立てなくて良いから、皆のために黙って撃たれていれば良い——
少し意地悪に解釈するなら、そう言わんばかりの艦種だ。
つまりかっこ悪いのだ。
「ですが、重要な艦種です。魔法艦と戦うときは特に」
「まあ、そうだな。そのために誕生したのだし」
まともな魔力砲を搭載できない他国の通常艦は、至近砲撃を集中させるしかない。
そのためには肉薄しなければならないのだが、それが最も難しい相手だった。
危険が及ぶ前に敵を発見し、敵砲より遠い間合いから魔法で追い払う。
これがそもそもの〈海の魔法〉だ。
〈追い払う〉が〈撃沈する〉に変わったが、現代までその大筋に変更はない。
そこでリーベルの遠距離攻撃を凌ぎ、なんとか味方を肉薄させようと考案されたのが防盾艦だった。
誰も憧れない。
けれど、最も艦隊の勝利に貢献している艦種だった。
「では、二国の防盾艦を指揮してこられたシオドア様にお尋ねします」
大魔法使いの上品な声に、ほんの僅かな厳しさがこもった。
それは相対しているシオドア以外の二人も感じ取った。
再び顔を見合せて、表情で会話する。
(彼は何かスキュート殿の気に障ったのでしょうか?)
(隣でイライラ、キョロキョロと鬱陶しかったのではないか?)
大付与術士といえど、感じることは常人とそれほど変わらないのではないか?
彼女たちが鬱陶しいと感じるものは、彼も一緒なのではないかと考えたのだ。
しかしこの憶測は不正解だ。
防盾艦の話にかこつけ、遠回りに嫌味を始めたのではない。
ノルトが弓の名人なら、スキュートは盾の名人だ。
そしてシオドアは艦隊の盾たらんとする者。
〈盾〉の先輩として、後輩の未熟さが気になったのだ。
この後輩は盾にとって最も大事なことがわかっていない。
ゆえに、そのことを指摘したかったのだ。
前置きは終わった。
先輩は本題を切り出した。
「艦隊の盾が最も心掛けなければならないことは何でしょう?」
「…………」
シオドアは即答できない。
質問内容が理解できなかったわけではない。
ただ、そう質問する意図が理解できないのだ。
何か深い答えを求められている気もするし、初歩的な基本事項を問われている気もする。
散々迷った挙句、
「味方を敵の攻撃から守るため、いつでも身を捨てる覚悟を決めておくこと……私はそう心掛けてきた」
正解がわからないので、正直に答えることにした。
第二艦隊時代からずっとその一心で防盾艦の指揮を執ってきた。
たとえ不正解だと言われても曲げることはない。
これは彼の信念だった。
果して……
「ご立派だと思います」
先輩は何度か首肯しながら、彼の信念を称賛した。
これは本心だ。
仲間のために犠牲を厭わないというのは確かに立派なことだ。
ただし軍人として。
盾としては失格だと言わざるを得ない。
「ただ——」
先輩の言葉遣いは丁寧なままだ。
決して威圧するような物言いをしているわけではない。
それでも聞く者に反論を許さない迫力がある。
後輩も、傍らで聞いているエルミラたちも自然と背筋が伸びる。
「ただ」の後に一体何が続くのか?
一同が戦々恐々と待つ中、先輩は丁寧な口調で辛辣な問いを投げかけた。
「なぜここにいるのですか?」
どういうことだろう?
またもやわからない……
後輩は助けを求めるようにエルミラたちに視線を送るが、二人とも首を傾げるばかり。
「……セイルジットへ減速しないようにと伝えるためだが……女将から聞いていないのか?」
「いえ、そのことは承知しております」
質問の仕方が悪かったと頭を下げ、改めて尋ね直す。
「アルンザイト号はどうしたのですか?」
「……航行不能だ」
もちろんガラジックス号のことは女将から聞いている。
それを意地悪く突こうというのではない。
「防盾艦の指揮を執る機会はありませんでしたが、私も人々の前に立ち、盾にならなければならないときがありました」
知っている。
彼の伝説は帝国にも轟いていたから。
陸においてはモンスターや盗賊から、海においては大頭足や海賊から、人々の命と船を守り抜いた。
「恐れ入ります。そのとき心掛けていたことがありました」
それは——
「たとえ剣が折れても、盾は最後まで割れてはならない」
剣は敵に勝つためのもの。
もし折れたら勝利が遠のくだけだ。
直ちに殺されるわけではない。
しかし盾はダメだ。
斬撃なら剣で受け流せるかもしれないが、矢弾の雨だったら?
盾は守るべき者を残して先に割れてはならない。
そのために必要なものは身を捨てる覚悟ではない。
最後まで生き残り、敵の攻撃から味方を守り続けようというしぶとさだ。
「……しぶとさ、か」
シオドアは俯いてしまった。
耳が痛い。
よりにもよって第三艦隊で最初に航行不能に陥ったのがアルンザイトだ。
なぜ?
ガラジックスに抗魔弾を撃ち込まれたから?
そうではない。
艦隊の盾だったのに、剣のような手柄を求めたからだ。
確かにその気持ちがあった。
役目を忘れて手柄に走ったから、隙だらけになった脇腹目掛けて撃ち込まれたのだ。
仲間のために敵に突撃するといえば聞こえは良いが、何のことはない。
ただの功名心だ。
一番手柄が欲しかったのだ。
功名心からスキュート型の性能で可能かどうかだけ考えて、提督に先行を申し出た。
護衛対象である艦隊から離れてしまったのだ。
抗魔弾は魔法艦にとって恐ろしい武器だが、砲弾としての威力は通常弾と同じ位だ。
ネヴェル型は一連射で沈んだが、アルンザイトが不意討ちを食らっても航行不能で済んだのはそのためだ。
防盾艦の装甲だから耐えられたのだ
そうなると、撃ったのはガラジックスだが、被害を防げなかったのはアルンザイトの責任だ。
裏切りを察知するのは難しかったかもしれないが、もし功に走らず、追い縋る役を他艦に任せていたら……
ガラジックスがおかしな動きをするところを見ることができたはずだ。
裏切りを察知できていない以上、ファンタズマに追い縋った艦は救えないが、続く抗魔弾による僚艦撃沈は防げたかもしれない。
ここまで語ったスキュートは何かを思い出した。
「そうそう、一つ訂正することがあります」
まだ何かあるのか?
すでにシオドアは滅多打ちだが……
エルミラたちは少し心配になってきた。
訂正箇所は、身を捨てる覚悟はいらんという件についてだ。
盾にも身を捨てる覚悟は必要かもしれないと改めた。
最後までしぶとく盾を続けるためには、冷静に戦況を見る辛抱強さが肝要だ。
功名心に駆られていては戦況分析どころではない。
確かに必要だ。
味方を守るために、自分自
盾は基本的に待ち受けるもの。
敵の出方をよく見て、最も安全な受け方をするために落ち着いて待つことが大事なのだ。
つまり、イライラしても見えないものは見えないのだから、盾らしく静かに待てということだ。
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