第87話「いい人ゆえに」

 エルミラとリルはを伴ってファンタズマに帰艦した。


「おかえりなさいませ、姫様」


 甲板で二つの白髪頭が彼女たちを出迎えた。

 一人はじい。

 もう一人は要塞……いや、宿屋号給仕スキュートだ。


 彼が二艦の間に入っていてくれたおかげで、何の妨害もなく話し合うことができた。

 彼女は労いと感謝を述べた。


「光栄でございます」


 時は違えど、彼女はかつて仕えた王家の末裔だ。

 彼は深々と会釈してそのありがたいお言葉を受けた。


 ——うーん……困ったものだな。


 彼女自身はもう王女でも何でもないと思っているのだが、周囲がそうはさせてくれない。

 目の前の彼もそうだ。


 歴史の教科書に載っている大魔法使いが、大した取り柄のないあばずれに頭を下げている。

 そういうことをされると、こちらが恐縮してしまう。


 ともかく和解は成立したので彼の仕事は終わりとなる。

 これからすぐに東へ向かうので、宿屋号へ戻ってもらう。


「世話になったな」


 役を務めてもらった礼を述べ、ボートを見送ろうとしたとき、じいが割って入った。


「姫様、実は——」


 エルミラは宿屋号から戻る途上、巻貝でじいに事情を伝えておいたのだが、スキュートの巻貝にも女将から新たな指示が届いていた。

 そのまま同行し、エルミラたちを手伝ってやってくれ、と。


 隣にいたノルトはその場で「是非に!」と頼んでいた。

 あとは艦長の許可だけ。

 再びスキュートが頭を下げた。


「——というわけでございます。引き続き、乗船をお許しください」

「許すも何も、そういうことなら是非力を貸してほしい!」


 伝声筒で通信できる距離まで近付くということは、船妖にかなり近付くことになる。

 そうすると、逃げる獲物から近付いて来る獲物に目標を切り替えてくる可能性がある。


 決して狩りに行くわけではない。

 それでも襲われたら戦わざるを得ないのだが、過去一〇〇年以内に「勝った」、「狩った」という話を聞いたことがない。


 様々な戦場を渡り歩いてきた岩縫いノルトでも初見の敵だ。

 そんな不安な航海に要塞スキュートが同行してくれるなら、これほど心強いことはなかった。



 ***



 要塞スキュートには残ってもらうことになったが、マルジオ一家とはお別れだ。

 危険なので、一家はエルミラたちが乗ってきたボートで宿屋号へ避難してもらう。


 一家が船室から上がってきた。

 幼い姉妹は衰弱して両親に背負われており、夫婦もやつれていた。


 普段、港で暮らしている人間が馬車に揺られ、軍艦に揺られ……

 しかも昨日は高波の中で特殊航行が続いた。

 生き延びるために仕方なかったのだが、大変気の毒なことをした。


「ウェンドアからずっと、親父たちにはすまないと思っている。船酔いだけじゃない。店のこととか……」


 エルミラは一家に対して頭を下げた。


「滅相もない! どうか頭を上げてください」


 船酔いのことはともかく、店を潰したのは帝国の歩兵共だ。

 その理由は密偵が潜んでいるかもしれないという憶測によってだ。

 姫様が原因ではない。


 彼女は許されてもなかなか頭を上げようとしなかったが、背の娘たちもか細い声で説得に加わると、とうとう根負けした。


「俺たちのことより、姫様たちこそ気を付けてくだせえ。昔話の化け物を退治しなきゃならないなんて……」


 どうやら一家の中では、姫様が船妖退治に出撃することになっているらしい。

 もし退治に行くのだとしても、徹夜明けはおかしいだろうに……


 だがこの場で無理にその誤解を解こうとはしなかった。

 いまは時が惜しい。

 退治にせよ、知らせに行ってくるだけにせよ、一家が宿屋号に移ってもらうことに違いはない。


 ファンタズマまで漕ぎ手として同行してきた水兵は、そのまま一家を運ぶことになった。

 本人たちは気丈に振舞っているが、顔色の悪さは偽れない。

 彼はシオドアの付き人として乗艦する予定だったのだが、一家には漕ぎ手が必要だと判断した。


 夫婦には頑張って縄梯子を下りてもらったが、娘たちが自力で下りるのは無理そうだった。

 途中で力尽きて落下したら危険だ。

 多少、時間は掛かってしまうが、乗員が一人ずつ背負って縄梯子を下りた。


 無事、四人の退艦が完了した。

 最後に水兵とシオドアが敬礼を交わすと、ボートは漕ぎ出していった。


 欄干から見送っていると、疲労困憊の一家四人がこちらに手を振っているのが見えた。


 リルが大きな声で叫ぶ。


「行ってきまーす!」


 海風に遮られ、果たして聞こえたかどうか。

 それでも遠目には見えるはず。

 エルミラとリルは遠ざかっていくボートに手を振り返していた。



 ***



 これから、さっきまで戦っていた相手を救いに行く。

 朝食をとって多少は体力が回復できたとはいえ、ずっと戦闘続きで皆くたびれている。

 下手をすれば反乱が起きかねない。


 すでに解体のことだけでも首を傾げられているのだ。

 これ以上不明なものを増やしたら、艦が機能不全に陥る。

 一家を見送ったエルミラは東へ向かう理由を説明した。


 すべては、さっきの敵をこれからの友にするため——

 帝国第三艦隊とは和解が成立したが、これは帝国の総意というわけではない。

 これを総意に育てていくためには、帝国内に賛同者を増やしていく必要がある。

 それゆえ、セイルジット号を助けに行く。


 本当はここで、なぜ祖国を滅ぼした帝国と友にならなければならないのかも説明するべきなのかもしれない。


 わかってはいる。

 わかってはいるができない。

 そこに、リルがいるのだ。


 語ろうとすれば、ネイギアスの陰謀に触れなければならず、なぜ彼の国がこの艦を欲しがるのかを明かさなければならない。

 そしてこの場にいる全員が祖国の悪行を知る。


 確認したことはないが、リルは自分のことを薄々わかっているようだ。

 じいたちも人型二三号が第四艦隊を血祭りにあげた一部始終を目撃している。

 少女が普通の人間でないことは明らかだ。

 もはや公然の秘密なのかもしれない。


 それでもいまのエルミラに、少女の前で外法の話をする強さはなかった。


 だからこれが精一杯の説明だった。

 果して乗員たちは……


 異議を唱える者は一人もいなかった。

 代わりに賛同する者も。

 なぜ祖国の仇と友にならなければならないのか、と質問する者もいない。


 沈黙が流れた。


 乗員たちは質問するはずがないのだ。

 尋ねずとも、全員が理解していた。

 この艦が異常であることを。


 そして第四艦隊との戦闘で確信していた。

 少女がその異常さに関係しているのは間違いないと。


 姫様はいい人だ。

 立派な方ではなく、いい人だ。

 国中、特にウェンドア市民なら誰でも知っている。

 彼女が正直者で、庶民や兵士にも分け隔てがない、王族らしくない王女様だということを。


 そんないい人だから、少女のことを何も語れないのだ。

 嘘は語りたくない。

 だが正直に語れば、少女が化け物だと明かすことになってしまう。

 一人悩んで出した答えが、解体するということだったのだろう。


 ときが来たら尋ねずとも彼女の方から語ってくれる。

 今日はまだそのときではないのだ。

 ここにいる者たちは彼女ならと信じて艦に乗った。

 ならば、あとはついていけば良いのだ。


 その艦長が東へ向かうと仰せだ。


 じいは彼女の方を向いて聞いていたが、皆の方を向いて号令をかけた。


「気を付け!」


 踵を合わせる音が重なる。

 言葉ではなくその音が返事だった。


 全員、異議なし。


 副長ノルトがその意思を代表する。

 全員が正面に対して気を付けの姿勢になったのを確認すると、再度彼女の方に向き直って敬礼した。


「アイ艦長!」


 これで分裂の心配はない。

 甲板は靴音で慌ただしくなった。

 操帆に向かう者、見張りにつく者……

 あっという間に彼らはそれぞれの持ち場についた。


 準備は完了した。

 確認した副長が艦長に報告する。


「艦長、総員配置につきました。ご命令を」


 エルミラは頷くと肺一杯に空気を溜めた。

 命令が艦首にも、マストのてっぺんにも届くように。

 作戦開始だ。


「抜錨!」

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