第86話「船妖」
ノイエッド号の喧騒が宿屋号まで届いてくる。
船妖は大頭足すら捕食する強大なモンスターだ。
動けない精霊艦では対抗できない。
退艦作業は順調に進んだ。
ロイエスの命令が早かったのと、命令を受けた乗員たちがモタモタしなかったおかげだ。
次々とボートが降ろされ、水面では点呼の声が騒がしくなっていく。
その声が増えれば増えるほど、甲板は静かになっていった。
やがて最後のボートに艦長が乗り込み、総員退艦は完了した。
ノイエッド乗員たちはもう大丈夫だ。
安心した提督は伝声筒でこちらに向かっているセイルジット号へ呼びかけた。
救助予定だった旗艦ノイエッドは無人となった。
減速して横に付ける必要はない。
それどころか、全速を維持して逃げ続けるよう伝えなければならなかった。
船妖が背後に迫っているのだ。
「ロイエスよりセイルジット、応答せよ」
「…………」
応答がない。
まだ伝声筒で通信できる半径に入っていないようだ。
遠音の巻貝なら大陸の東と西の端でも可能だが、艦隊内で所持しているのは提督とシオドアのみ。
現状、セイルジットに危険を伝える術がない。
提督は苛立たし気に一つ舌打ちし、東の海を睨んだ。
何とも、もどかしい状況に陥ってしまった。
遠くて通信が届かない。
だが通信が届くようになったときには、向こうの見張り員にノイエッドを見られる。
旗艦を救助するために減速を始めてしまうだろう。
それから全速を指示しても遅い。
一度帆を畳んでしまったら、再び風を溜めるのに時間がかかるのだ。
セイルジットは食われる……
話を聞いていたエルミラは決心した。
宿屋号は救助活動で動けない。
ファンタズマが行くしかない。
こちらから接近し、減速しないように信号で知らせる。
捕食が目的なら、逃げ続けていれば諦めるはずだ。
これは戦いに行くのではない。
知らせに行ってくるだけだ。
リルは満腹の苦しみから回復している。
乗員たちも朝食を取り、少しは疲労から回復できたはずだ。
宿屋号と遠くの海へ転移する前にもう一働きだ。
しかし女将だけでなく、提督からも止められた。
セイルジットは和議のことを知らない。
ファンタズマを見た途端、戦闘態勢を取るだろう。
戦闘となれば、舷側砲で捉えようと左右どちらかへ転舵するので、船妖に追い付かれてしまう。
「それなら、私が一緒に行きます」
シオドアが進み出た。
第三艦隊の索敵は見張り員の視力と魔法兵の探知だが、ファンタズマは少女が遥か彼方まで見通している。
だから彼が同乗して、向こうに見つかるより先に伝声筒で知らせるのだ。
女将も提督も案の内容に異論はない。
現状取り得る最善の策だ。
ただ、実行者に一抹の不安がある。
頭がおかしい女海賊。
おまえたちの主はエロジジイ。
ついさっきまで、そう罵り合っていた二人だ。
せっかくのやる気に水を差すようで心苦しいが、師匠と上官は弟子と部下に確認せざるを得ない。
不安がる提督が代表した。
「……喧嘩しないか?」
エルミラとシオドアは歴とした大人だ。
まるで近所の悪ガキのような扱いで申し訳ないが、不安なものは不安なのだ。
隣で女将が何度も頷いている。
あんまりだ。
いきり立つ若者二人は、間髪入れず、そして同時に否定した。
「するか!」
「喧嘩などしておりません!」
二人は喧嘩をしているという自覚すらなかった。
不安が一層募る。
だが提督は救助の指揮を、女将はいつでも転移できるように用意を整えておかなければならない。
若者たちを信じるしかなかった……
***
エルミラはリルを伴ってファンタズマに戻る。
シオドアも一緒だ。
いまにも喧嘩が始まりそうな組合せだが、いざ交信可能距離に入ればちゃんとするはずだ。
何といっても二人とも大人なのだから……
年長者たちは自身にそう言い聞かせて不安を宥めた。
いよいよ出発のとき。
三人は甲板上のボートに乗り込んだ。
あとは水面に下してもらうだけだ。
途中でフックが外れないか、掛かり具合を確認していると女将がやってきた。
「エルミラ」
「何だ?」
確認作業を中断して師匠の方を向く。
「これから遭遇する敵について教えておくわ」
これから遭遇する敵——船妖についてだ。
この世界の住人ならその名を知っているが、近くでよく見てきたという者はいない。
遭遇したら食われてしまうからだ。
船乗りたちにできることはコタブレナ海に近寄らないこと。
そして稀にその付近の海へ現れることもあるから、油断せずにより早く、より遠くから発見して逃げることだけだ。
女将も同様だ。
宿屋号を危険に晒すわけにはいかないので、存在を探知したらすぐに逃げる。
直に戦ったことはないのだ。
ゆえに船妖そのものというより、元となった妖魔艦についての話だった。
「妖魔艦か。確かにこれから初めて見るが、どんな艦だったのだ?」
エルミラはもちろん、ロイエスですら実物を見たことがない。
現代には一隻も、記念艦すら残っていないのだから。
当時の王国が残さなかった理由は諸説ある。
禍々しいからとか、リーベルの汚点だからとか。
しかしどれも根拠として弱い。
最大の理由は、後世に伝えなければならないような特徴がなかったからだ。
?
実は妖魔艦に艦型はないのだ。
艦型とは、たとえば精霊艦ならネヴェル型といったその特徴を表す名のことだ。
妖魔艦にはそれがない。
初代ペンタグラム号の誕生から魔法艦の需要が急騰し、その不足を何とかしようと苦し紛れに考案されたのが妖魔艦だ。
工夫を凝らし、一から建造している暇などない。
すでにあった通常艦船を改装し、核室を備え付けるだけで精一杯だった。
極端な話、交易船でも核室を設置し、妖魔を搭載したら立派な妖魔艦ということになる。
だから妖魔艦に艦型はないのだ。
代わりに〈級〉でその強さを表すことにした。
たとえば、サラマンダー級などと表す。
なぜ妖魔艦の級名に精霊の名を?
妖魔艦なのだから妖魔に因んだ名にすれば良かったのだが、多種多様で分類しきれない。
名に用いるとかえってややこしかったのだ。
そこでわかりやすいものを級名につけたのだ。
サラマンダー級妖魔艦なら、名の精霊と互角の妖魔までなら搭載可能だということになる。
級名は想像しやすいものであれば、火精以外でも良い。
モンスターでも何でも。
コタブレナの件からそのようになった。
核室の強度と妖魔の力が釣り合うように、と考えたのかもしれない。
さすがにリーベルの魔法使いたちも、一三
遭遇する船妖が何級か、それは出会ってみなければわからない。
無理な載せ方をやめた後も制御は完璧ではなく、砲音が聞こえただけでも暴走した。
精霊艦が投入されるまで人食いが絶えなかったという。
このように、コタブレナ戦後の
だがもし、級名なしの初代一三体の方だったら……
とにかく魔力が強ければ良いという視点で選ばれた、いわば無差別級ともいえる存在だ。
反則のような力を秘めていることだろう。
これからエルミラたちが向かう先にいるものは、そういうものなのだ。
「…………」
エルミラの隣で唾を飲み込む音が聞こえる。
シオドアだ。
臆病者めと冷やかす気はない。
彼女も恐ろしい。
だが、行かなければ多くの犠牲が出る。
セイルジットの魔法兵は大頭足のつもりで備えているだろう。
コタブレナ海は遥か西、しかも東の海中から迫り来る大型の物体。
誰も船妖とは思わない。
やはりシオドアを運ぶしかない。
そして運ぶのはファンタズマが適任だ。
覚悟が決まったエルミラはポツリと呟いた。
「まあ、船妖退治に行くわけではないし……」
「それでいいわ。あなたたちは危険を知らせに行ってくるだけ。引き連れてきてしまっても構わないから」
そのときは追ってきた船妖だけを残し、三艦をまとめて転移させる。
だから宿屋号を巻き込んでしまうのではないかと余計な気を遣わず、全速のまま帰ってくれば良い。
女将の目的は誤った海の魔法を正すこと。
その産物たる妖魔艦とその成れの果てである船妖は、いつか一体残らず滅ぼす。
だがそれは今日ではない。
今日は戦わない。
それなら級名が付いているかどうかは関係ない。
だったら、わざわざ不安がらせることはなかったのではないかと思う。
それでも女将が妖魔艦のことを伝えたのは、二人の勇敢さが不安だったからだ。
現場に着いた途端、
「大頭足の親玉みたいなもんだろ? 面倒だ、やっつけてしまえ!」
「大賛成だ! 女将に成り代わってマジーアでたたっ斬ってやる!」
——という勇ましい光景が思い浮かんでしまったのだ。
余計な事は考えず、セイルジットと一緒に逃げてくることだけに専念してくれれば良い。
そのために敵の正体を伝えた。
その効果はあった。
二人とも神妙な面持ちだ。
教えて正解だったと胸を撫で下ろしながら、女将はボートを送り出した。
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