第56話「艦砲射撃」
イスルード島南西部岩礁地帯——
完全に錨を巻き上げたファンタズマ号は動き始めた。
隠してくれていた木々の中を静々と前進していく。
誰も操る者がいないのに舵輪が勝手に回り、帆は風を捉えるのに最適な角度になる。
少女が思っただけで、艦のすべてが一人で動く。
別に難しいことではない。
艦は自分の身体同然なのだから。
「リルちゃん」
少女の首から提げた巻貝から女将さんの声がする。
「知ってると思うけど、岩礁に気を付けて」
「うん」
返事と同時に空間鏡の表示が変わった。
浅くゴツゴツと出っ張った海底が映し出される。
そろそろ木々を抜ける。
夕刻に向かっているとはいえ、外はまだまだ明るいだろう。
ファンタズマは幽霊船。
まだ幽霊が人目についてよい時間ではない。
再び女将さんから指示がきた。
「そろそろ〈遮光〉の用意をして」
「もう呼んであるから大丈夫」
少女の左右にはすでに水精と光精が佇んでいる。
複合精霊魔法〈遮光〉の準備は万全だった。
リルは前を向いたまま何かを呟いた。
隣の精霊たちがそれに頷き、スゥッと消えた。
同時にファンタズマ周囲の景色が何も見えなくなる。
〈遮光〉を発動した。
これで周囲もファンタズマの姿を見ることはできない。
水面にせり出していた枝が大きく揺れた。
見えない何かが払い除けているかのように。
また、白波が右へ弧を描いていくが、そこには何もいない……
遮光状態を維持したまま、操帆と水流を駆使して岩礁を抜ける。
難しい航行だったが、少女はこれを成し遂げた。
抜けると空間鏡に映る海底はゴツゴツとした岩からなだらかな砂底に代わり、水深が深くなっていった。
ファンタズマは座礁の危機を脱した。
「フゥ……」と一息つくリルを女将が労う。
「お見事、リルちゃん。でも——」
まだ出発できただけだ。
本番はここからだ。
女将は到着するまでの間、各部の点検を行わせることにした。
いよいよというときになって故障が見つかったらエルミラたちの命に係わる。
岩礁を抜けられたのだから帆も舵も異常はない。
しっかり遮光できたのだから精霊室も問題ない。
魔力砲や魔法弩は——
隠密行動中に試射をするわけにはいかないので、これだけはぶっつけ本番になる。
ただ、武装もリルの一部なので、何か異常があれば体調に現れる。
それが何ともないということは異常なしと考えて良い。
気掛かりなのは空間鏡だ。
岩礁も鮮明に映し出されていたのだから別に異常はない。
女将が気になっているのは異常の有無ではなく、少女の
彼女はすでに帝都沖でガレー船と戦い、ウェンドア沖では哨戒網突破という二つの戦闘を経験している。
だが、二つとも艦船が相手だ。
素早くはない。
アレータ海海戦後、女将も遠目から小竜隊の戦闘を見たことがあるが、相当速かった。
リルはこれからその素早さを経験するのだ。
元々魔法使いは素早い動きを目で追うのが苦手だ。
あの海戦においてリーベル側の甲板では、大勢の魔法兵が竜を撃ち落とそうと奮戦していたと思うが、初めて見た素早さに付いていけなかったのだ。
そんな厄介な小竜が一個小隊につき五頭配備され、合計四個小隊で襲い掛かった。
無敵艦隊が敗北したのも頷ける。
柩計画書に記された戦法に女将は百点をつけた。
だがそれは、飛び交う小竜へ的確に命中させられるならばだ。
矢弾も魔法も、目で見て当てなければならないのだ。
である以上、今日初めて見るその速度と変則的な動きに少女が付いていけるのか?
女将は心配だった。
せめてもう少し目を慣れさせる時間があったら……
不安要素はまだある。
彼女に齎された情報によれば、艦隊に配備されている竜騎士団は一個小隊。
魔法艦一隻を始末するには十分すぎる戦力だ。
エルミラとリル、それと新しい仲間たちは、この小竜隊と魔法艦隊から逃げきらなければならないのだ。
できれば来たときのように密かに立ち去りたいがそうはいかない。
挟み撃ちに遭った一行を救えるのはファンタズマしかないのだ。
だが、少女がその力を行使したとき、帝国軍は幽霊船の正確な位置を知る。
見つかった彼女たちのところへ空から竜が、洋上から艦隊が殺到するだろう。
いままでは二人で何とか艦を動かしてきただけだったが、十分な人数を揃えた今日からはまともに行動できる。
今日が魔法艦としての初陣だ。
その初陣の相手が小竜隊と魔法艦隊……
あまりにも厳しすぎる。
しかし、退路を断たれた鼠は、追い詰めてきた猫に噛みついて活路を切り開くという。
ファンタズマも帝国軍という猫に噛みつき、突破口を切り開くしかないのだ。
***
イスルード島南西部、岩礁地帯を望む街道——
エルミラ一行の馬車は騎士団の挟撃に遭って停車した。
前後の騎兵たちは道一杯に展開し、完全に進路を塞いでいる。
後方追撃隊は残っている魔法騎兵が障壁を展開し、その後ろで銃騎兵がこちらに照準を定めている。
槍騎兵は突撃態勢のまま、銃の横で待機している。
撃ち合いが終わったところで襲い掛かってくるつもりだ。
前方で待ち伏せていた隊も同じような態勢だが、障壁の他に火球が用意されている。
馬車の中では誰も言葉を発しない。
ただ、目でお互いにどうする? と尋ね合っていた。
打つ手はない。
そのことは全員わかっている。
だから降伏するのか、それとも全滅覚悟で抵抗するのか。
どうする?
と、尋ね合っているのだ。
最終的にその目がエルミラに集中した。
仕方がない。
艦長なのだから。
外から投降を呼びかける声がうるさいが、目を瞑って思案した。
いま戦えば全員討ち死にするだろう。
だが投降しても反乱軍は死刑と定められている。
一応裁判をやるらしいが、無罪になった者は皆無だ。
すぐ死ぬか、後で死ぬかが違うだけだ。
彼女も死刑になるだろう。
すでに島は帝国領になっており、彼女を生かしておく必要性が何もない。
それどころか下手に生かしておくと、解放軍共が担いで騒ぎの元にしかならない。
この機会に死んでもらった方が帝国にとって都合が良い。
——どうせ死ぬなら打って出るか?
これが最初に浮かんできたが、思い留まった。
兵士だけならそれでも良いかもしれないが、マルジオたちをどうする?
この一家だけでも助けたい。
だが州政府は、反乱軍と何らかの関わりを持つ者も全員死刑と定めている。
何とか逃れさせる方法はないか……
「親父、奥さんたちも両手を出せ」
エルミラは一計思いついた。
一家四人は意味がわからず顔を見合わせたが、「早く」と急かされ、指示通り合計八本の腕を前に出した。
何をするのかと見ていると、彼女はマルジオの両腕をロープで縛り上げた。
「姫様⁉ いきなり何を——」
「すまんが、帝国の奴らに保護してもらってくれ」
余計なことを言わないよう、彼の口に猿ぐつわも噛ませる。
奥さんは姫様の意図を理解し、下の娘にも同じようにした。
上の娘には親父の処置を終えたエルミラが。
マルジオ一家は反乱軍の協力者ではない。
海賊エルミラに一家全員誘拐され、ここまで連れてこられたのだ。
——ということにしておく。
「奥さん、この親父が余計なことをしないように見張っていてくれ」
「ん! んんーっ!」
親父は首を横に振って何か喚いているが、よくわからないので放っておく。
代わりに奥さんが頷いてくれた。
最後に姉妹の頭を優しく撫でた。
「怖い思いをさせてすまなかったな」
にっこりと微笑み、それから一家に背を向けた。
もう振り返らない。
じいたちに方針を伝える。
巻貝を掴んで彼を思い浮かべた。
だがその直前、あと二人詫びる相手を思い出して海の方を向いた。
——リル、女将…… 必ず帰ると約束したのにすまない……
海に向かって軽く頭を下げた後、巻貝に向かって呼び掛けた。
「じい、
「……
さすがはじいだ。
クドクドと説明しなくて済むので助かる。
「姫様…… いや、艦長、ご命令を!」
じい以下、ファンタズマ号乗員たちが指示を待っている。
最初に倒れるのは誰だろう?
乗員になったばかりの仲間たちだろうか?
案外、私かもしれない。
じいは強いから、最後まで残るかもしれないな……
息を吸い込みながらそんな思いがよぎった。
それも一瞬のことだ。
覚悟は決まった。
「かかれぇっ!」
彼女の号令を合図に、二台の馬車から一斉に銃兵たちが飛び出していく。
狙うは各隊長。
しかし、銃騎兵たちの撃鉄はすでに起きている。
彼らの銃口は一斉に先頭の反乱兵を狙った。
後から下りた魔法兵が彼に障壁を張ったが、一斉射撃をすべて阻止できるわけではない。
何発かは通る。
数秒後、彼は最初の戦死者になる。
いよいよ銃騎兵たちの殺意がその指に込められた。
そのとき——
ドォンッ!
街道横の浜の先、何もない海から轟音が。
騎士団もエルミラ一行も動きが止まり、何事かと音がした方を見る。
ヒュゥゥゥ……
音がした方から笛のような音がまっすぐ前方騎士団の方へ伸びていく。
そして、
ドゴオォォォンッ!!
騎兵たちの足元で何かが炸裂した。
突如沸き起こった爆発と火焔に巻き込まれ、馬も人も空中高く吹っ飛んだ。
まるで火球の直撃でも食らったかのように。
ドンッ! ドンッ! ドォンッ!
再び海から轟音。
今度は連続だ。
まるで試射を終えた軍艦が本格的な砲撃を開始したかのように。
轟音の数だけ爆発が起きた。
馬車の前で、後ろで、クルクルと人馬が宙を舞う。
攻撃は明らかに前後の騎士団を狙ってのものだった。
海からの轟音が鳴り止まない。
そこへ馬車から下りてきた反乱兵たちの攻撃も加わり、騎士団は十字砲火に晒されることになった。
優勢からいきなり劣勢へ。
隊長たちはどう指示してよいかわからなくなった。
反撃を指示しようにも敵が見えない。
ならば退却すべきなのだが、せっかく追い詰めた目の前の反乱兵を見逃すことはできない。
迷っていると、騎兵の一人が海を指差して叫んだ。
「艦砲射撃だ!」
隊長も彼の指差す方に視線を向けると、いままで何もなかった海に忽然と一隻の小型艦が現れた。
攻撃はその艦からだった。
帝国騎士団は初めて見て驚いたことだろう。
これが帝都で囁かれている
帆船とは思えない動きをしたり、何もないところに突然現れたり……
撃沈しようとしたガレー船は、祟られて海に沈んだ。
それでも断言できる。
彼女は決して幽霊船ではないと。
二三号でもない。
どこにでもいる一人の少女だ。
懸命に生きている人間だ。
だからエルミラは彼女を名前で呼ぶ。
「リル!」
すぐに巻貝から返事が返ってきた。
「おかえり! 迎えに来たよ!」
「ああ……!」
エルミラは視界が滲んできた。
その涙が懐かしさからなのか、絶体絶命の危機を助けに来てくれた嬉しさからなのか。
いまの彼女にそれを冷静に考える余裕はなかった。
その間も艦砲射撃は止まない。
諦めの悪い騎士団に祟りの火球が降り注いでいた。
そしてついに、
ドゴォォォッ!
「隊長ーっ!」
魔力砲が後方追撃隊の隊長を捉えた。
爆風によって彼の身体は空高く弧を描き、草叢に何度か弾んでようやく止まった。
そのままピクリとも動かない。
駆け寄って生死を確認する者はいなかった。
直撃を免れた者たちが目撃していた。
彼の身体がいくつかの断片に分かれて飛んでいったのを。
生きているはずがなかった……
隊長の戦死によって追撃隊は戦意を喪失し、南へ退却していった。
それを見た北の隊も崩れ、来た道を駆け戻っていった。
リルはエルミラたちの救援に成功した。
しかし女将が危惧していた通り、これで終わりではない。
生き残った騎兵たちは最寄りの村からすぐにウェンドアへ通報した。
***
発、街道警備隊。
宛、ウェンドア司令部。
街道南西部で反乱軍の補給隊を発見し、直ちにこれを追撃した。
州都へ帰還中の隊と挟撃するも、洋上から艦砲射撃を受け、隊長他多数が死傷したため退却した。
敵は海軍の報告にあった艦と思われる。
よって魔法艦隊及び竜騎士団の出動を要請する。
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