第53話「英雄の帰還」
エルミラ一行に挟撃の危機が迫っている。
宿屋号は哨戒網の遙か西にあった。
いかに大魔法使いであっても、そこから援護できる魔法はない。
リーベルと聞くと海軍の魔法艦や兵団ばかり注目されるが、陸兵たちも決して弱くはない。
海の三賢者アルシール卿も元は陸軍魔法兵だった。
エルミラの報告によれば、新たに加わった仲間の中に陸軍魔法兵たちが複数いるという。
彼らのおかげで狼を撃退できたのだが、騎士団は無理だ。
ならば女将がお客の騎兵に時間稼ぎを頼めば良いではないか、と思われるかもしれない。
だが、彼女から連絡を取ることはない。
巻貝を渡したのは立派な人物だったり、好感が持てる客だったからだ。
決して宿屋号の間者になってもらうためではない。
州政府は内通者に神経を尖らせているという。
そんな状況でお客のポケットから声がしたら迷惑がかかる。
だから女将から話しかけることはない。
彼らが都合の良いときに提供してくれる情報を受け取るだけだ。
エルミラたちのことは心配だが、だからといって巡回任務中のお客に迷惑をかけるわけにはいかない。
ではどうするか?
遙か水平線の彼方から女将にできることはない。
そこで彼女は巻貝を握りしめながら、ある人物を思い浮かべた。
「もしもし、聞こえるかしら?」
応答はすぐにあった。
「女将さん⁉」
それはリルだった。
よほど暇だったのだろう。
久しぶりの会話に飛びつかんばかりだった。
「お留守番偉いわね」
少女を労いつつすぐ本題に入った。
エルミラたちが近くまで戻ってきていると。
リルは無邪気に喜んだ。
「エルミラ
「
一つはウェンドアで出会った仲間たちを連れてくるということ。
もう一つは、追手の騎兵も連れてきてしまうということ。
さらに言うと、南からも騎兵が北上してきているので、一行は挟み撃ちに遭う。
ファンタズマ号まであと少しの地点で……
リルから笑みが消えた。
「帰ってこられないの?」
「このままだとそうなるわね」
少女は震える声で尋ねてきた。
彼女の不安を思うと、続きを伝えるのが躊躇われる。
だが古代人かもしれない少女にどれほどの窮地か理解できるだろうか?
だからわかりやすく表現することにした。
たとえ残酷でも。
「相手は大陸最強。陸では誰も敵わないわ」
「…………」
——そんな騎兵にエルミラが……
ファンタズマの甲板で、リルは巻貝を握りしめたまま動けない。
絶望がその小さな胸を覆い尽くそうとしていた。
初めての友達が死ぬ……
ジワジワと浸食していく絶望は彼女の奥底にある記憶や思い出に手を伸ばし始めた。
リルの記憶、それは見知らぬ部屋から始まる。
***
ある日、リルは見覚えのない暗室で目が覚めた。
周囲には知らない大人たちが大勢いて、何かを喜んでいるようだった。
何に喜んでいるのかはすぐにわかった。
彼女が目を覚ましたことをだ。
目覚めた少女は、自分のリルという名前以外のすべてを失っていた。
大人たちはリルと名乗ると大騒ぎになり、その度に何かの魔法を掛けられて意識を失った。
目覚めてまた名乗ると眠らされる。
こんなことを何度か繰り返している内に名乗るのをやめた。
大人たちの一人が漏らしているのを聞いてしまったのだ。
「なぜ名前だけが? 一体どうやればすべて消せるのか……」
恐ろしくなった少女は、すべて消えたふりをして名前を守った。
本当に消されてしまったら、自分の中で何かが死んでしまう気がして……
以来、二三号という名を受け入れて暮らしてきた。
二三号のふりを続けるのは嫌だったが、悪いことばかりでもなかった。
大人たちは安心し、
その日から少女は暗室に戻らず、その艦にいて良いことになった。
艦から遠ざかれないが、近くなら自由に歩くことができる。
帝都に送られてからも異国の街を歩いた。
そして出会った。
二三号ではなく、リルと呼んでくれる友達に——
エルミラに。
***
リルは空間鏡の前に立った。
エルミラが出発してから、眠るとき以外は甲板にいるので上げたままにしてあった。
少女は絶望に打ち勝った。
これから友達を救いに行く。
女将さんの言う通り、その騎兵たちは本当に最強なのだろう。
だがこうも言った。
「
ならば海では?
疲れるので普段はやらないが、一人で艦を動かすことが出来る。
当然、舷側に備える魔力砲も。
「女将さん、挟み撃ちの予想位置は?」
「話が早くて助かるわ。よく聞いてね。位置は——」
リルは女将の声に集中した。
少女が知ることで、空間鏡に示されている西海岸のその位置に印がついた。
ジャリリリッ——!
女将の巻貝から錨鎖を巻き上げる音が聞こえてきた。
ファンタズマが艦長を救いに行く音だ。
「ちゃんと〈遮光〉して行きなさい。外はまだ明るいから」
「アイマ……」
「待って」
女将はリルの
それはエルミラ艦長に対してするもの。
自分は受ける資格がない。
暴走していくリーベル人と魔法艦から逃げたのだから。
「私にはいままで通りでいいのよ」
「うん。わかった」
子供らしい元気な了解が帰ってきた。
やはり子供はこうでなくては。
位置に着いたら連絡するよう伝えて、女将は通信を終えた。
「フゥ……」
近くにあった椅子に腰を下ろしながら、女将は深く息を吐きだした。
背もたれに身体を預け、上を仰いで目を瞑った。
「お疲れ様です、女将さん。一息ついてください」
声に気が付いて目を開くと、給仕の一人が温かいお茶を持ってきてくれていた。
「ありがとう。いただくわ」
トポトポとカップに注がれていく優しい音に、女将の呟きが混ざった。
「……とんでもない皮肉ね」
神殿が都合よく作り上げたカミサマなど信じていないが、もっと広く大きな、運命を司っている存在はいるのかもしれない。
その存在がこの出会いを仕組んだとしか思えなかった。
そしてその運命の神様は相当な皮肉屋だ。
霊式艦ファンタズマ号は外法も厭わず、魔法王国の奥義を尽くして作り出された。
魔法使いたちの増長の結晶といえる。
失墜した彼らの権威を取り戻すためならば、他人の命などいくらでも犠牲にする。
そうやって人命を軽んじ、外法の限りを尽くして作り出した幽霊船が友達の命を救いにいく。
その作戦を魔法艦から逃げた生みの親が援護する。
なんという皮肉だろうか。
皮肉屋の神様に言われたような気がした。
元はといえばおまえが始めた魔法艦だろう?
ならば目を背けていないでその顛末を見届けろ——と。
カチャ……
女将はお茶を飲み干し、静かにカップを皿に置いた。
「ごちそうさま。おかげで休めたわ」
これから忙しくなる。
ファンタズマの力はすごいし、魔法剣士エルミラも強い。
それでも単艦であの艦隊を綺麗に抜き去ることはできない。
あの艦隊——帝国魔法艦隊を。
初めの頃は鋼化装甲板で補強した、ただの小型艦の群れだった。
でも最近は帝国兵とリーベル兵の連携がとれてきたのか、魔法艦隊と呼べる代物に仕上がってきた。
その中で特に厄介なのは第三艦隊だ。
配備されている魔法艦は旧王国第一艦隊だったもの。
率いているのはロイエス坊や。
坊やがどういう軍人か、言葉で説明するより宿屋号の甲板に貼ってある彼の似顔絵を見てもらう方が良いだろう。
ある時、お客の海賊が贈ってくれたのだが、別に尊敬しているからではない。
絵はすぐに顔や心臓がズタズタに破れてしまい、もはや誰なのかわからなくなっている。
坊やに懲らしめられた
坊やはそういう軍人なのだ。
ネイギアスが帝国に工作を仕掛けてリーベルに向かわせたのも、彼が帝国南方にあって、北上してくる私掠船を悉く退治してしまうからだという。
その彼がいまは第三艦隊提督を務めている。
日々習熟訓練に励んでいるというが、旧第一艦隊とは異なる艦隊に仕上がりつつある。
彼は魔法艦に帝国兵を乗せた。
リーベル兵の反乱抑止というには多すぎる人数を。
魔法艦に勝ちたかったら、痛くても我慢して肉薄することだ。
魔法も呪物も、ある程度距離が離れていることで本領発揮する。
その距離を潰して白兵戦に持ち込めばよい。
この弱点を克服するために坊やは帝国兵を大勢乗せることにした。
離れている間はリーベル兵の魔法で攻撃し、接近されたら白兵戦が得意な帝国兵が返り討ちにする。
そんな旧第一艦隊とは別物に仕上がった難敵がエルミラたちを追う。
ファンタズマはおそらく追手を引き連れた状態でやってくる。
坊やたちと戦うつもりはないが、気が立っている艦隊はこちらにも撃ってくるかもしれない。
そうなったら……
「しばらく帝国の港には近寄れなくなるわね」
宿屋号を守るため、撃たれたら
きっと死に損ないの婆さんがいまだに生き永らえているとバレるかもしれない。
だが、それでも構わない。
エルミラに魔法剣を渡したときから覚悟している。
彼女は目を瞑って深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら目を開いた。
彼女は帰ってきた。
宿屋号女将ではない。
時と空間の大魔法使いロレッタ卿が。
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