第52話「初めてのビスケット」

 夜明け——

 イスルード島中央の山岳地帯に朝日の後光が差す。

 この山々がそびえたつために、西岸の住人が朝焼けの海を見ることはない。


 走る馬車の中で仮眠をとっていたエルミラはその光で目が覚めた。

 幌の隙間から彼女の目に差し込んでいたのだ。

 まぶしそうに目をこすりながら魔法兵と交代した。


 後光差す黒い山。

 少女の頃から何度も見てきたが、しばらくの間お別れだ。

 いや、もしかしたら一生……


 何もかも変わってしまった故郷だったが、こういう自然は変わっていなかった。

 彼女は幌の隙間からその光景を目に焼きつけた。

 銀髪が白髪になっても忘れないように。


 山に隠れていた朝日が顔を出すと、島を一気に昼の世界に変えた。


 彼女は馬車の中を振り返った。

 さっき交代した元陸軍魔法兵が眠りについている。

 夜間、彼は何度も〈探知〉で周囲を警戒し続けて大変だった。

 いまはゆっくり休んでもらいたい。


 寝顔を見ていると、ふとマルジオの酒場で見たことを思い出した。

 新旧両市街ではゾンビ掃討が始まった頃だ。

 彼の元同僚たちは今日もゾンビの正面に立たされていることだろう。


 あのやり方ではいつか全員命を落とす。

 緩やかに処刑しているようなものだ。


 傍らで眠っている彼はそんな運命から逃れることができた。

 二者の運命を分けたものはきっと己の強い意思とか、神の御加護の類ではない。

 悪運の強さだ。


 唯々諾々共和国に従うという選択と、解放軍に加わるという選択。

 共和国を選べば、後にゾンビ掃討隊が待っている。

 解放軍を選んだら、ハーヴェン司令の粛清地獄が待っている。

 正解はない。


 それでも、やがて姫様に拾っていただけることになるのだから、解放軍選択が正解だったように思える。

 だが、選んだ時点で王女の帰還を予測できていたわけではない。

 まさに人知を超えた悪運によるものだったと言わざるを得ない。


 その悪運が今度はファンタズマ号乗艦を選んだ。

 後でふり返って、あのときの選択は正しかったと思えるように努めなければ。

 エルミラは改めてそう決意するのだった。



 ***



 街道南西部——

 朝が過ぎて正午に近付いた頃、馬車を止めて小休止した。

 夜を徹して走らせた甲斐あって、ファンタズマの停泊場所までもう少しのところまでやってきた。

 夕方には乗り込めるはずだ。


 兵士だけなら上陸した浜まで一気に走るが、いまは民間人が一緒だ。

 それも女性と子供がいる。


 彼女たちはへっちゃらだと元気な素振りを見せるが、夜通し馬車に揺られて疲れていないはずがない。

 神経が昂ってわからなくなっているだけだ。


 そういう疲れは本人が気付かないところに潜んでいて、気が緩んだときに襲い掛かってくる。

 四人を気遣い、休んでから浜に向かうことにした。


 開けた場所に馬車を止めた。

 皆順番に下りて深呼吸したり、身体を伸ばしたり。

 御者は座りっぱなしで痛くなった尻をさすっていた。


「これしか残っていないが——」


 そう断りながらエルミラは自分のザックから保存食を出して配った。

 浜まであと少しなので温存する必要はない。

 だからビスケットを優先的に配っていった。


 これから船暮らしになるのだから、食の現実を知ってもらうためである。

 断じて彼女の好き嫌いで残ってしまったものを押し付けているのではない。


 大人は知っているが、幼い姉妹は初めて見る食べ物に興味津々だった。

 内陸探検や航海中に仕方なく食べる物であって、街でわざわざ食べる者はいない。


 何も知らない娘たちは口いっぱいに頬張ってしまった。

 マルジオも奥さんも何も言わない。

 結局、人は体験から学ぶしかないのだ……


「ん?」

「…………」


 少女たちも大人たちの無言の意味がわかった。

 これを齧った人間はとにかく早く終わらせることに集中するようになるのだ。


 だが感心な子供たちだ。

 大人に見習って渋い顔をしながら黙々と食べ続けている。

 もしエルミラが幼い頃にこれを食べる機会があったら「まずい!」と腹から声を出してじいに叱られたことだろう。

 だから見事食べ終えた後のヒソヒソ声は不問とした。


 姉妹曰く——


「……まずかったね」

「……うん」


 魔法剣士の耳を甘く見てはいけない。

 全部聞こえてしまった。


 お褒めにあずかれなかった彼女はクスッと笑いながら巻貝を取り出した。

 念じた後——


「女将」


 呼びかけると、遥か彼方にいるロレッタの下へ声が届いた。

 応答はすぐにあった。


「ご機嫌麗しゅう、ひ——」

「姫様って言ったら私もあんたに〈卿〉をつけるからな?」


 エルミラの巻貝から女将の笑い声が流れる。

 少し笑った後、彼女の声は真面目に戻り、島での首尾を尋ねられた。


「残念だが、情報を得るどころではなかった」


 手短に上陸してからのことを報告していった。


 野盗が各地で勝手に解放軍を名乗って略奪を働いている。

 そんな連中を避け、元副団長ハーヴェン伯爵の解放軍と合流したが、彼もまた己の野望を追いかける一人だった。

 情報収集に協力するどころか、野望達成に利用しようとしてきたので脱出してきた。


「……そう、大変だったわね」


 女将は静かに聞いていた。

 ハーヴェンのことは告げない。

 このお馬鹿さんエルミラの気性では、戻って白状させると言いかねない。


 伝えにくいが、彼女の力でハーヴェンを尋問するのは無理だ。

 随分久しぶりに接触したが、彼の闇の力は昔より強大になっていた。

 半分は冗談で魔王と言ったのだが、その気になれば本当になれるかもしれない。


 そんな相手を魔法剣一本で白状させるなど、島から帝国軍を追い払うより難しい。


 上陸したときはエルミラ一人だったが、いまはウェンドアで出会った仲間たちと一緒だという。

 ならば、尚更戻るべきではない。


 現在地を伝えてきたので宿屋号の地図で確認した。

 ウェンドアから遠く離れているが、ファンタズマ号の停泊場所までもう少しかかる位置だ。

 依然、敵地の只中にいる。


 だから余計なことは教えない。


 一行を率いるエルミラはひたすら脱出に専念する。

 女将は彼女たちの支援に集中する。

 いまはそれでよい。


「とにかく方位は気にせず、あの哨戒網を突破することだけ考えなさい」


 あえて合流地点は決めなかった。

 無理にそちらへ進もうとして針路を狭めるべきではない。

 東は浜だから、それ以外の突破しやすい方角に進めば良い。

 こちらは一瞬で拾いに行けるのだから。


「わかった。突破したら連絡する」


 おてんば姫との通信が終わり、女将は巻貝を机に広げた地図の上に置いた。


 地図はイスルード島のものだ。

 そこに報告を受けた一行の位置を書き込んでいく。

 見れば他にも線や文字が沢山ある。


 女将から巻貝をもらった者は世界中にいた。

 ネイギアスにも、解放軍にも、帝国の騎兵の中にもだ。

 書き込みは彼らによって齎された騎士団の巡回予定だ。


 彼女は腕組みした後、右手を顎に持っていき、何か考え込んでしまった。

 そのままの姿勢で身動ぎ一つしないが、視線は二つの地点を行ったり来たり……


 視線の先は街道に近い二つの村だった。

 一つは西街道の中間にあり、もう一つは南端にある。

 昨夜はどちらの村にも騎士団が泊まっていた。

 一晩明けたので、それぞれの目的地へ向けて出発したはずだ。


 一方は南端へ。

 もう一方はウェンドアへ。


 おそらく南下する隊が先に発見する。

 南へ逃げる一行をこの隊が追撃する。


 相手は大陸最強の騎兵。

 普段でも陸戦で勝てる見込みは全くない。

 ましてや、いまは女子供を連れているのだからひたすら逃げるしかない。

 だがそこへウェンドア帰りの隊が馬車前方に現れる。


「この辺りかしらね」


 二隊の線をそれぞれ引いていき交差した地点。

 そこで一行は騎士団の挟撃を受ける。

 退路は塞がれ、援軍が来るはずもないエルミラたちは全滅するだろう。


 女将はさらに何かを書き込むと、再び巻貝を掴んだ。


「もしもし、聞こえるかしら?」


 握りしめた巻貝から返ってきたのは……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る