第41話「友情」
夜、室内を照らすランタンの光でノルトは目が覚めた。
まだ命がある。
気絶したまま海へ突き落としの刑は免れたらしい。
ということは港で役人に引き渡されるのだ。
いまどの辺りかわからないが、イスルード島から北方へ向かう航路の中間で襲撃した。
北方への航海を再開しても、リーベルへ引き返してもあと数日。
それまでの命だ。
グウゥゥゥ……
自分の腹の音にノルトは苦笑いした。
命というものは往生際が悪いものだ。
これから殺されにいくというのに、空腹を訴えて何になるというのか?
目が覚めたがそのまま目を瞑ってもう一度眠ることにした。
起きても別にすることがない。
昨日までなら、みすみす殺されはしないと脱走を企てたところだが。
岩縫いノルトともあろう者が女々しいと笑われるかもしれないが、もう心が折れたのだ。
全滅を経験したのは今回が初めてではない。
傭兵は自国軍の犠牲を抑えるために雇われる。
命を消耗品として扱われるので死にやすい。
だから傭兵は正直者が多い。
欲しいものは奪い、気に入らない奴は殺す。
利益のためなら平気で裏切るし、裏切られる。
殺された奴は弱かっただけ。
裏切られた奴は間抜けだっただけ。
そんな世界でいちいち仲間とやらの死を悼んだりしない。
だが今回は違う。
ノルト一家の全滅だ。
あの愛すべき馬鹿共はもうどこにもいない。
いまさら生き延びてあいつら以外と何かをしようとは思わない。
傭兵にも海賊にも疲れた。
処刑してくれるというなら自殺する手間が省ける。
ただそのときを待っていればよいのだ。
だが、静かな最期を迎えたいという彼の気持ちを踏みにじる者が現れた。
まるで借金取りのような無神経なノックの後、寝込んでいる人間の部屋へ元気一杯に入ってきた。
入ってきたのは身なりの良い大男だった。
大男はズカズカとテーブルのところへやってきて、食事を乗せたトレイを乱暴に置いた。
こいつはアーレンゼール王太子だ。
甲板でそう名乗っていた。
——こいつを誘拐しようと思っていたのか。
いまさらだが、下調べの甘さを反省した。
もっと線の細い箱入り王子様を想像していた。
まさかこんな豪傑だったとは……
その豪傑の後に、困った顔で額を押さえながらもう一人入ってきた。
ハーヴェンという神殿魔法兵だ。
海に落ちて危ないところを助けてくれた。
それにしてもリーベルの二人が罪人に一体何の用だろう?
ノルトは訝しむが、若い豪傑はそんなことなど意に介さない。
「主君が弱っている家臣のために飯を持ってきてやったぞ! さあ食え」
「……家臣?」
「そうだぞ。さっき主従になったではないか。護衛たちは全滅してしまったし、頼りにしておるぞ」
アーレンゼールは人差し指を剣に見立てて、ノルトの肩に当てる真似をしてみせた。
気絶している間に執り行われた任命式のことなど覚えているはずがない。
さっきの水夫たち同様、ノルトも不思議なものを見るような目になった。
「……何言ってんだ、おまえ?」
彼にしてみれば当然だが、王太子にとってはショックな言われようだったらしい。
たまらず、傍らに立つ友を振り返った。
「ハーヴェン、どうなっておるのだ? 家臣から『おまえ』呼ばわりされてしまったぞ⁉」
縋られたハーヴェンは困った顔が直らない。
眠っていた間のことなど、わかるわけがないではないか……
仕方なく不思議そうな目が直らないノルトに事情を説明した。
逮捕のこと、水夫と殿下の喧嘩。
そして人々の不意を突き、止める間もなく終わってしまった任命式。
聞いていたアーレンゼールの片眉が下がり、心外そうな表情になった。
「ひどい言われようだな。そなたも立ち会ってくれたではないか」
「立ち会っておりません。殿下の悪知恵に巻き込まれたのです」
「悪知恵……」
殿下は絶句してしまったが気にしない。
「陛下や大臣の方々にはご自分で説明してください。神殿側は一切知りません」
「そんな冷たいことを——」
ノルトが聞いていたのはその辺りまでだった。
そこまでの内容で誰が何を企て、自分がどういう立場に置かれたのか理解できた。
望んだわけではないが、命を救ってもらったことは確かだった。
二人はノルトそっちのけで口論だ。
ぽつんと取り残されたノルトは持ってきてくれたスープから立ち上る湯気を眺めていた。
ユラユラと考えていたのは手下たちのこと。
——まだ生きろということなのか?
なんとなくあいつらがこの二人と出会わせたように思えた。
基本的に王侯貴族は嫌な奴ばかりだが、中には二人のような馬鹿もいるのだ。
スープの湯気から二人に視線を戻す。
さっきから議題に変更はなく、友情について激論を戦わせていた。
一緒に説得してくれ。
自分でやれ。
この応酬だ。
——こいつら、本当に馬鹿だな。
見殺しにしてもよかったのに、漂う海霊を〈浄光〉で追い払ってくれた。
矢が尽きて死を覚悟していたら、大量の矢を届けてくれた。
さらに早撃ちの間隙を縫って接近する海霊憑きを魔法盾で退けてくれた。
二人とも海賊のために……
家臣にしてくれと頼んだ覚えはないし、なってくれと頼まれた覚えもない。
こっちが気絶しているのを良いことに、どさくさに紛れてやったこと。
そう突っ撥ねてもよいのだ。
けれども殿下はしつこい御仁のようだ。
彼に目をつけられたら簡単には手放してくれないだろう。
断ろうものなら、次はどんな悪知恵を働かせてくることか。
ノルトは諦めてお仕えする覚悟を決めた。
***
エルミラが物心ついたとき、すでに父王は遠い存在だった。
親子とは名ばかりで、顔が見える距離で拝謁できるのは新年の挨拶くらい。
だがいまは身近に感じる。
若き日の父は正しいと思ったことは前例など気にせず、すぐに実行する人物だった。
彼女も父の立場に置かれたらじいを庇っただろう。
ずっと他人のように思ってきたが、いまはあの父の娘だったのだと実感できる。
そう——
思ったことはすぐに実行するのだ。
そのことで後々揉めることになる……
アーレンゼールは王太子ではあったが、無事王位につけるかどうかは予断を許さなかった。
他にも年齢の近い王子たちがおり、何か不祥事があればすぐに取って代わられる。
不祥事——
たとえば命を狙われたとか。
普通に考えれば命を狙われた王太子は気遣われて然るべきなのだが、彼らは王太子たる資質に欠けているからだと喧伝する。
だから海賊ノルトの襲撃を受けたなどということがあってはならないのだ。
そういう事情があって〈リーベル王太子襲撃事件〉は歴史の闇に葬られた。
そもそも事件がなかったのだからノルトが罪に問われることもない。
逆にあの岩縫いを従わせることができるのは、アーレンゼール殿下に王たる資質があるからだという証にできる。
そんな思惑もあって護衛官ノルトには後日、本国から正式な辞令が下った。
有力貴族だった母の実家が手を回してくれたおかげだ。
港に着くと王太子は留学生活、ノルトはその護衛任務が始まった。
ハーヴェンは——
彼は神殿魔法兵として北の各地を巡礼しなければならない。
だが、留学と巡礼が終われば三人ともリーベルに帰るのだ。
ウェンドアで会おうと手を振りながら見送った。
以来、三人の友情は続いた。
ノルトは留学中も帰国後も、友アーレンゼールの身に危険が及ばないよう護り続けた。
結局、外戚の力が強かったので特に危険なことは起こらず、宮廷内で霊弓カヌートの出番はなかった。
ハーヴェンは巡礼の旅から帰国後、海軍に転向した。
彼は海霊の一件で悟ったのだ。
海にはモンスターや敵艦を攻撃する魔法だけでなく、神聖魔法も必要であると。
アーレンゼールは無事、国王に即位できた。
即位する前は傍らのノルトに考えた政策や目指す王国の姿を語っていたが、日に日に口数が減っていった。
彼自身は聡明な快男子だったが、宮廷は政治や軍事の実権を握ろうと、様々な派閥が鎬を削り合う場。
即位した日から派閥と派閥の調整役にならざるを得なかった。
争いの火種になるから何もしてはいけない、言ってはいけない。
そんな無為な日々を送っていたある日、宮殿の廊下で一人の美しい侍女を見初めた。
陛下が一つだけお変わりになられないことがある。
たとえ前例がなくとも、一度やろうと決心したことは必ず実行することだ。
陛下は彼女を側室として迎えたいと言い出した。
大臣たちは久しく前例がないと大反対。
正室・側室及びその実家の者たちも猛反対した。
我らを平民と同列に扱うのかと。
しかし一度決めたことを反対された位で曲げる陛下ではない。
反対を押し切った。
翌年、彼女は女の子を出産した。
娘はエルミラと名付けられた。
陛下は母親似の娘をとてもかわいがったが、他の妻たちはそれが気に入らない。
母子を目の敵にした。
外戚たちも宮廷で陛下に反抗的な態度を取るようになった。
それでも耐えていたが、とうとう母子暗殺計画が聞こえ始めてくると、さすがの陛下も折れた。
母子に僅かな従者をつけて宮殿から離宮へ移らせ、自分も飽きた振りを装うことにした。
この従者の一人がノルトだった。
護衛官の任を解かれ、教育係に任命される前日、彼は書斎で聞かされた陛下の本音をいまでも覚えている。
二人のことが愛おしい。
ずっと一緒に暮らしたかったが、正室たちから守るにはこうするしかない。
頼れる者はおぬししかいない。
どうかエルミラたちを守ってくれ。
困り果てていた友は両手でノルトの右手を固く握りしめ、額を擦り付けながら「頼む…… 頼む……」と繰り返していた。
命の恩人の手を振り払えるわけがない。
ノルトはまた肩書が変わることになった。
傭兵団長、海賊船長、護衛官、今度は教育係だ。
彼が教育するのは幼いエルミラだけではなかった。
離宮に身を引いたのに、それでも母子の命を狙いにくる不届き者とその主人にも教えてやるのだ。
岩縫いノルトを敵に回す愚かさを……
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