第38話「神聖魔法」
海に投げ出されたノルトは海霊に包囲されていた。
傭兵時代、敵勢力圏内で孤立したことがあったが何とか切り抜けることができた。
弓矢を使うことができたから。
いまは波間に漂う一人の遭難者。
弓はあるが矢はない。
あったとしても、この数を相手に勝ち目はない。
ノルトは静かに目を瞑った。
瞼の裏に浮かんだのは新米時代のこと。
まだ駆け出しの頃、傭兵稼業三〇年という古強者から言われたことがある。
この世界に足を踏み入れたからには普通の死に方は諦めろと。
彼の最期はその言葉通りの惨いものだった。
今日は自分の番だ。
まもなく憑依されて意識がなくなる。
次に意識が戻ったときは海の底だろう。
もしくは意識が戻らないまま水死か?
……
…………?
来ない。
吐息が聞こえる位の距離まで迫っていた気配が遠ざかっていく。
恐る恐る目を開いてみると、海霊たちは少し離れたところで何かに怯えている。
怯えの理由はすぐにわかった。
頭上が明るい。
見上げるとそれは光の球体だった。
魔法兵の火球ではない。
あんな乱暴な光ではない。
もっと温かく、心が安らぐような。
その光体はいつまでも頭上でノルトの頭上に定位していた。
正体は〈浄光〉という神聖魔法。
死後も罪を重ねる悪霊を罰する聖なる光だった。
その光を作り出した術者がノルトの後頭部に向かって大声で呼びかけた。
「おい海賊! 生きてるなら早く水から上がれ!」
生ある人間の声が聞こえる。
ノルトは驚いて振り返るとすぐ後ろに客船が来ていた。
声はその甲板から。
リーベルの神殿魔法兵ハーヴェンだった。
傭兵は状況判断が早い。
助かるかもしれないと希望が湧くや否や、ノルトは必死に泳ぎ出した。
ハーヴェンも詠唱を続けながら近くにあった縄梯子を下ろしてやる。
泳ぎ着いたノルトは見事縄梯子を掴むことに成功した。
波に洗われながら必死に上っていく。
完全に水面から出ることができたとき、再び暗闇に戻った。
〈浄光〉が消えたのだ。
怯えていた海霊たちが再び活動を再開した。
慌てて上ることに集中した。
水面から奴らの呻き声が聞こえる。
だが、上からも聞こえてくる。
まさか……
——奴らが上にも?
一瞬上る手が止まった。
瞬きするほどの短い時間悩んだが、思い直して甲板に急ぐことにした。
ここで止まってもどうにもならない。
どうせなら甲板で迎え撃つべきだ。
縄梯子をどんどん上り、客船の甲板に到着した。
本来なら王太子を誘拐するために乗り込むはずだったのに……
この客船もノルトの海賊船同様、同士討ちの真っ最中だった。
魔法兵たちの火球攻撃が止んだのは突入準備のためではなかった。
こちらでも時を同じくして同士討ちが始まっていたのだ。
メインマストからではわからなかったが、いまならどの護衛が魔法剣士だったのかわかる。
仄かに光るサーベルを振り回しながら高笑いしている。
きっとあいつが魔法剣士だったのだ。
こちらはこちらで、海賊の相手をしている場合ではなかったらしい。
——さて、どうしようか?
カヌートはあるが矢はない。
だから海霊そのものを退治することはできない。
それに、海霊より優先して倒さなければならないものを見つけてしまった。
海霊憑きとなった水夫たちだ。
乗り合わせていた魔法兵に任せっきりにせず、護身用の大砲を準備していたらしい。
その火薬を各マストの根本に運んでいる。
奴らはこの客船を自爆させる気だ。
もはや一刻の猶予もない。
急いで海霊憑きの水夫たちを倒すことにした。
方針が決まったノルトは剣を抜いた。
彼の得意な武器は弓だが、剣が苦手というわけではない。
正規の訓練は受けていないが、様々な武器の扱いを実戦の中で体得してきた。
鉄弓を引く剛力で剣を振るえば、生半可な剣士より強いだろう。
大人しく王太子を引き渡してくれるはずはないから、どうせ斬り合いになる予定だった連中だ。
水夫たちのところまで手薄な
数歩、前に歩いたときだった。
後ろから人の声がした。
話し声ではない。
魔法の詠唱だ。
振り返るとそれは助けてくれた神殿魔法兵だった。
縄梯子の位置から後退していた。
いまは船首に近い位置に立っている。
彼はその位置から〈祈り〉を詠唱していた。
これは神官や司祭が葬式で唱えてくれるお祈りではない。
悪霊への攻撃を目的とする〈祈り〉という神聖魔法の一つだ。
〈祈り〉はさっきの〈浄光〉ほどの威力はないが、代わりに広範囲に影響を及ぼして悪霊を弱体化させる。
彼は客船を祓い浄めようとしていた。
〈祈り〉はさっそく効力を発揮し、甲板で笑っていた者たちが苦しみ出した。
怯えて神殿魔法兵から距離を取ろうとする者もいる。
剥きだしの霊体に〈祈り〉はさぞかし沁みるだろう。
半透明の海霊たちが耳を押さえながら海に飛び込んでいった。
海霊憑きたちも苦しそうだが、生者の身体という鎧に守られているので何とか耐え、ヨロヨロとゾンビのように近付き始めた。
水夫たちも自爆作業を中断し、他の者たちに合流している。
耳障りな〈祈り〉の詠唱をやめさせるために。
魔法の心得がないノルトでも理解できた。
このままでは〈祈り〉が潰されて全滅すると。
さっきまで敵の一人だった神殿魔法兵を、今度は守らなければならない。
呼吸を整えて海霊憑きの集団に向き合った。
これから斬り倒す相手を一人一人端から順に見据えていく。
それが真ん中まで来たときだった。
いやなものを見つけ、冷たい汗が背中を伝わり落ちた。
最前列中央に、海霊憑きの魔法剣士が立っていた……
彼の剣はまだ光っている。
一時的な魔力付与ではなく、永続的なもの。
おそらく名のある魔法剣だ。
ノルトの剣も決して安物ではないが、魔法剣の前では小枝同然。
たった一合も斬り結ぶことはできない。
死がヨロヨロと迫り来る。
さっき水面で死を覚悟したが、それは絶望に心を支配されたから。
いま心を支配しているものは恐怖だ。
恐怖は本人も気付かぬうちに後退りさせた。
一歩、二歩と。
ザリッ!
「わっ⁉」
急に足を取られ、ノルトは尻餅をついた。
何か丸くて細いものを踏んでしまい足を滑らせたのだ。
見ると、それは矢だった。
恐怖が自然と足を後退りさせたように、今度は弓兵の本能が手を動かした。
肩からカヌートを外し、矢を拾って番えた。
その途端、矢に魔力が宿る。
まだ魔法剣が届かない距離なら魔法矢が有利だ!
すぐに魔法剣士に狙いを定めようとするが、そこに彼の姿がない。
一体どこに?
今日まで生き永らえてきたノルトの勘が知らせる。
上だ!
魔法剣士は剣を逆手に持ち、串刺しにする構えで飛び掛かってきていた。
ノルトは鏃を空中の敵に向け、即座に彼の右手指から弦が離れた。
ドサッ!
空中の剣士は弓兵に被さるように落下した。
どちらも動かない。
矢は命中したのか?
それとも魔法剣が海賊を討ち取ったのか?
「くそっ、どけ!」
下敷きになっていたノルトが悪態をつきながら乱暴に剣士を横へ転がした。
魔法剣は彼の左頬スレスレを通って甲板に突き刺さっている。
間一髪だった。
ゴロンと転がされて仰向けになった魔法剣士は虚空を見つめたまま動かない。
胸の中心に矢が突き立っている。
これが海霊にとっても魔法剣士にとっても致命傷となった。
海霊に殺された者も海霊になるというが、この場合はどうなるのか?
一応、海霊ではなく海賊の弓で射殺されているのだが、死んだ彼に確認することはできないし、そんなことをしている暇もない。
一番活きが良かったのはこの魔法剣士だったようだが、それ以外の者たちも呻き声をあげながらジワジワと詰め寄ってきていた。
いつまでも座り込んでいられない。
食い止めるために立ち上がろうと甲板に手をついた。
するとまた掌に丸く細い感触が。
掴んでみるとそれは矢だった。
見渡すとあちこちに散乱している。
誰かが矢筒を倒したのかもしれない。
ノルトはそれらを急いで拾い集め、ハーヴェンの前に立った。
一射目、キリキリとカヌートを引き絞る。
どこを狙おうか?
本数が少ないから無駄撃ちはできない。
狙うなら急所だ。
それと、出来れば貫通して後ろの者にも当てたい。
一射で仕留めることができ、尚且つ貫通しやすい箇所……
狙いが決まった。
矢はすでに魔法矢になっている。
ノルトは最先頭の海霊憑きに向かってその矢を放った。
朧げに光を引きながら、矢は狙いすました箇所へまっすぐ飛んでいく。
狙いは頭ではない。
頭蓋骨は硬いし丸い。
まっすぐ貫通させるのは難しい。
胸板もダメだ。
肋骨に背骨、それに内臓や大きな筋肉が密集している。
これでは矢の勢いが減殺されてしまう。
では、どこへ?
矢は海霊憑きの口の中に飛び込み、首の後ろを突き破って後ろの者にも突き刺さった。
二人は倒れ込み、しばらく苦しんだ後静かになった。
ノルトの狙いは開きっぱなしになっている口だ。
喉の奥にも骨はあるが、鋼化装甲板より柔らかいことは確かだ。
これなら一射で二人まとめて退治できる。
手応えを掴んだノルトは次々と矢を放っていく。
こんな状況でも岩縫いの腕は正確だった。
二人、四人、六人と倒れていった。
順調ではあったが、所詮はこれも焼け石に水だった。
根本的な解決方法は早くこの海から離脱することだ。
そうしなければ、追い払われた海霊が他の生者に憑依し直すだけだ。
頼りは詠唱中の神殿魔法兵だ。
剥き出しの海霊に対しては〈祈り〉が絶大な効果を発揮した。
あとは身体を手に入れた海霊を全滅させれば、この客船を使って、生き残っている手下たちを救いに行ける。
普通は襲ってきた海賊を救おうとはしないだろう。
だが、こいつは海に浮かんでいるところを助けてくれた。
——こいつらなら救助に向かってくれそうな気がする。
そのためにもいま〈祈り〉を潰させるわけにはいかない。
この船を沈めさせてはならない。
一刻も早く手下たちを救いに行くため、ノルトは一人、矢を放ち続けていた。
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