第37話「海霊」

 海賊ノルトはメインマストの見張り台に立ち、客船から飛んでくる火球を懸命に撃ち落していた。

 甲板では手下たちも長銃で攻撃しているが効果は薄い。

 もっと接近してからでなければ……


 一瞬でいい。

 魔法剣に付与する素振りを見せてくれれば特定できる。

 だがそんな素振りを見せる護衛はおらず、ひたすらこちらに魔法の球を撃ち込んでくる。


 焦りは禁物とわかってはいても気が逸る。

 出来れば護衛共を全滅させたいが、それが無理なら魔法剣士だけでも。


 一向に距離を詰めることができず、また詰めるわけにもいかず……

 そんな空しい撃ち合いが続いた。


 やがて海も船も赤く染まり、いつの間にか夕暮れになっていたことを知った。


「ちっ、ここまでか」


 カヌートの弦を弾きながらノルトは一人呟いた。

 陸でも海でも引き際が肝心だ。

 それを間違えなかったから今日まで命があったのだ。


 勇者だ、豪傑だ、と雇い主共は持ち上げるが、それで調子に乗った傭兵は早死にする。

 武人の誉れなど騎士共にやらせておけばよい。

 傭兵は卑怯、臆病、逃げ上手な奴が長生きできる。


 海は間もなく真っ暗闇になる。

 そうなれば弓や銃は使い物にならなくなる。


 一方、あちらの護衛共は魔法兵だ。

 リーベルの海軍魔法兵は夜になると〈暗視〉や〈探知〉を使って昼間と変わらない攻撃を仕掛けてくる。

 夜戦になったら勝ち目がない。


 ノルトは退却を決意した。

 どうせ客船の行先はわかっているのだ。

 魔法が届かない距離を保って付いていき、早朝改めて仕掛ければよい。


「引……」


 引き揚げだ、と下に向かって叫ぼうとしたが、それを最後まで言うことはできなかった。

 甲板で何か騒ぎが起きていた。


 斬り込み要員の一人が錯乱していた。

 いきなり発狂したように笑いながら剣を抜き、客船を長銃で狙っていた仲間の背を斬りつけた。

 驚いた他の手下たちが取り押さえようとするが、ホルスターから短銃を抜いてその一人に向かって発砲。

 眉間を撃ち抜かれて即死した。


 狂った手下は止まらない。

 撃ち終わった短銃をその場に捨てて、次の短銃に手を伸ばす。

 彼はホルスターに合計四丁差していた。

 だから後三発撃てるのだ。


 それを見た仲間たちは一斉に狂人目掛けて斬り掛かった。

 理由はわからないが狂ってしまったのだ。

 やらなければこちらがやられる。


 元々傭兵だった連中だ。

 いつまでも尻込みなどしていない。

 狂人はあっという間に肉塊となって活動を停止した。


 上から見ていたノルトも甲板に下りることにした。


 皆がついさっきまで仲間だった者にトドメを刺している間、客船は火球攻撃をやめてこちらに前進してくるようだ。

 おそらく矢を警戒し、船首で障壁を重ねているのだろう。

 いよいよ魔法剣士を送り込んでくる気だ。


 だがこっちはそれどころではない。

 甲板は同士討ちで混乱の最中、それを収めて早く離脱しなければならない。


「すべての帆を張れーっ! 一旦引くぞっ!」


 ノルトはメインマストを降りながら下に向かって命令した。

 船長の声を聞いた手下たちは我に返って作業に戻っていく。

 その時だった。


 パァンッ!


 再び銃声。

 さらに別のところからも。


 戦場の恐怖で次々とおかしくなった?

 いや、違う。

 上から見ていたノルトは原因がわかった。

 欄干の近くにいた者たちも同じものを見た。

 目撃した一人が叫んだ。


海霊かいれいだ!」


 海霊——

 海の藻屑となった者たちの成れの果て。

 肉体が朽ち果てても無念や怨念は海に残り、そこを通る生者の命を求める。


 岩礁はなく、氷山が流れてくるような海でもないのに、なぜか海難事故が多いところがある。

 奴らの溜まり場を通ってしまったからだ。


 怨念の強さによっては昼なら辛うじて通れる溜まり場もある。

 それでも夜は絶対にダメだ。

 二隻の船がいつの間にか迷い込んでしまった海はそういうところだった。


 半透明に透けた海霊たちがゾロゾロと舷側をよじ登って甲板に上がってくる。

 手下たちは剣や銃で応戦しようとするが、すり抜けてしまい何の手応えもない。

 そして次々と海霊憑きになっていく……


 斬り込み要員と銃兵で甲板はごった返していた。

 そのあちらこちらで同士討ちが始まっていく。


「…………」


 まだマストの途中で掴まっていたノルトは甲板全体を俯瞰できる位置にいるが、何も指示できずに沈黙していた。


 どう指示すれば良いのかわからない。

 応戦……はすでにしている。

 船を捨てて海に……飛び込んだら全員憑依される。

 ものすごい大群に囲まれているのだ。


 何もできず呆然と眼下の阿鼻叫喚を見ていることしかできなかった。

 その間も海霊たちの乗り込みが止まらない。


 ノルトは欄干を乗り越えようとしていた一体が目に止まった。

 そんな奴はそこいら中にいるが、ちょうど狙いやすい位置にいた。

 カヌートに矢を番えるとその一体を狙った。

 弦を引くと矢に魔力が宿る。

 いつも通りだ。

 この異常な状況の中、いつも通りに働いているのはこの弓だけだった。


 狙うは胸板の辺り。

 ビィンッ! という弾く音と共にぼんやりと光る矢がまっすぐ飛んでいく。

 矢は狙い通りの場所を貫いた。

 いや、すり抜けていったというのが正しいか。


 その海霊の胸板には刺さらず、乗り越えようとしていた欄干に突き刺さっただけだった。

 手下たちの剣や銃と同じだ。

 物体の矢で奴らを傷つけることはできないのだ。


 しかし矢に付与されていた魔力は命中した。

 海霊は胸を押さえて悶絶し、元いた海に落ちていった。


 ——カヌートの矢なら奴らを退治できる!


 一方的に制圧されると諦めかけていた矢先、対抗できる手段が見つかった。

 ノルトは手下たちを救おうと、次の矢を番えて引き絞る。


 しかし引き絞った弦を戻した。

 甲板では手下同士が斬り合っている。

 誰が海霊憑きなのか区別できない。

 それに一体退治している間に海霊憑きが二人、三人、四人と増加していく。

 これでは焼き石に水だ……


 ついに前方のフォアマストから火の手が上がった。

 海霊憑きになった操帆手がマストに上って帆を焼き始めたのだ。


 それを見たノルトはたまらず、戻していた弦を再び引いて彼に矢を放った。


 そんなことをしてもこの船は助からない。

 理性ではわかっている。

 それでも撃たずにはいられなかった。


 理由はどうあれ、船を壊そうとする者に対する船長の怒り?

 せめて海霊憑きではなく、人間として死なせてやりたかった?

 たぶん両方だろう。

 複雑な思いを乗せた船長の矢は操帆手の喉に命中した。


 まず矢の魔力で海霊がどこかへ退散し、その後から人間に戻れた操帆手が喉に刺さった矢を掴みながら落ちていった。


 ノルトはその落ち先を見ていたが、そのせいで足元に迫った危険に気が付くのが遅れてしまった。


 メインマストの根本にヨロヨロと一人の海霊憑きが辿り着いた。

 人間だったときには装填手を務めていた者だ。

 よろめいていたのは重たい荷物を抱えていたせい。

 大きな火薬樽だ。


 マストのすぐ横に樽を置くと高笑いしながら蓋を投げ捨てた。

 中の火薬が露わになる。


 ノルトが気付いたのはその手下が短銃を火薬に向けたときだった。

 あとは引金を引くだけ。

 かつて手下だったものは船長を見上げて微笑んだ。


 ドオォーンッ!!


 甲板中央で大きな火薬樽が爆発した。

 付近にいた者は正気の手下、海霊憑き問わず、四方八方に吹き飛ばされた。


 爆発の中心にいたノルトも無事では済まなかった。

 メインマストは根本から折れ、彼は海に投げ出された。


 爆発の衝撃と海面に叩きつけられた衝撃で気が遠くなりかけたが、鍛えられた身体と精神力がなんとか意識を繋ぎ止めた。

 落ちた勢いで水中に沈んでしまったのだとわかり、水面に向かって手足を掻いて浮上した。


「——ブハッ! ハァ、ハァ……」


 水面に顔を出せたノルトは胸一杯に空気を吸い込んだ。

 肺が空気で満たされ、落ち着くことができた。

 とりあえず水死の危機から脱した船長は、投げ出された後の自分の船がどうなったか気になった。


「船は?」


 彼の船は正面に見つかった。

 身体が沈んでいる間、海流に少し流されたらしい。

 少し離れた位置で、まだ戦っていた。


 メインマストがなくなり、フォアマストは帆から引火して巨大な火の柱と化していたが、甲板からまだ怒号や笑い声、それに金属が激突する音が聞こえる。


 ノルトは自分の胸板を触ってそこに弦があることを確認した。

 さっきの操帆手を射殺した後、一気に甲板へ下りようと思って、カヌートを襷掛けに背負っていたのだった。

 その直後にあの爆発。

 もし手に持っていたら失くすところだった。


 ——急いで船に戻らなければ!


 相棒カヌートの無事に安堵し、仲間たちの待つ船に向かって泳ぎ出そうとしたときだった。

 周囲を取り巻く絶望に気が付いた。


「あ……」


 一言呻き、あとは何も言えなかった。

 命乞いしても無駄な状況に置かれていたからだ。


 ノルトは海霊の群れに取り囲まれていた。


 生者が海に落ちたので憑依するために集まってきたのだ。

 海霊は憑依した人間を操って海の底まで潜る。

 限界を超えて潜る。

 水面まで息がもつかどうかなど、考えなくてよいのだから。


 海に落ちた人間に為す術はないのだ。

 それは岩縫いノルトといえど例外ではない……

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