第28話「食肉祭」

 下水道を抜けて地上に出ると、そこは旧市街の外れだった。

 深夜というにはまだ早い時刻だが、人家から漏れる灯りは少ない。


 ほんの数ヶ月前まで家々から灯りがウェンドアの夜空を照らし、過密気味だった旧市街の中心では、酔った人々の喧騒が夜明けまで続いていた。

 光も音もごった返しているという表現がふさわしかった。


 しかしいまは帝国の支配下。

 すべてが夢だったかのように、街は寝静まっている。


 久しぶりに帰ってきたのだから、よく見知った光景で出迎えて欲しかったが、それでも構わない。

 暗くても、静かでも、ただ懐かしい……


 エルミラはついにウェンドアに帰ってきた。


 宮殿は新市街だが、彼女にとって旧市街の方が馴染み深い。

 だから旧市街に出られる道を選んだ。

 ここには団長時代から通っていた店があるのだ。

 その店は一軒の酒場——マルジオの酒場という。


 マルジオは気の良い親父で、旧市街の中央通りに酒場を開いていた。

 店は中央通りを歩いて軍港区画の近くにあり、美味い料理と酒を良心的な価格で提供してくれるので、任務を終えた海兵と海軍魔法兵のたまり場と化していた。


 彼女も書類仕事が終わるとその酒場へ行った。

 通った理由の半分は部下たちや市民の話を聞き、親睦を深めるためだったが、残り半分は宮殿が居心地悪かったからだ。


 血が繋がっている家族は彼女を見て、平民という名の異物が王宮に紛れ込んでいると蔑んだ。

 そんな心許せない連中と囲む冷たく豪奢な夕食より、マルジオの酒場で振舞われる温かく素朴な料理の方が良かった。


 彼ならハーヴェン軍のことを知っているかもしれない。

 エルミラは手掛かりを求めて、彼の酒場を目指すことにした。


 だがこのまま夜の市街を歩いていると、帝国兵に見つかったとき誤魔化せない。

 変装する必要がある。


 彼女は皮革のザックを下すと、大きな帆布を取り出した。

 街に入ったら使おうと考え、ファンタズマから持ってきたのだ。

 頭から被ると、膝下まで隠れることができる。

 これなら浮浪者に見えるだろう。


 元々新市街は富裕層、旧市街はそれ以外の人々という住み分けがあった。

 だから旧市街は庶民的で賑やかである一方、浮浪者や不審者が多い場所でもあった。

 そこへ帝国の支配が加わったことで、さらに増加したはずだ。

 きっと浮浪者になってしまった市民たちがそこかしこに座り込んでいるはず。


 彼らに紛れながら酒場を目指すことにした。

 準備が整ったエルミラは帆布で身体を包みながら夜の旧市街を行く。


 広く複雑なこの街を隅々まで知っているわけではないが、彼女にとって、住んでいた宮殿より勝手知ったる古巣のようなもの。

 足取り確かに最短距離で店に向かった。


 中央通りに出るため、何度か角を曲がったり、脇道を抜けたり……

 巡回中の帝国兵にも遭遇せず、すべてが順調だった。

 ……そう、誰にも妨げられずに。


 初めの頃は曲がり角の先に誰もいないことを安堵していたが、さすがに様子がおかしいことに気付いた。


 通りを歩いている者がいない。

 誰一人……


 そんなことはあり得ない。

 帝国がこの島を征服してからまだ日が浅い。

 解放軍は全島で抵抗し、ウェンドアの地下にも潜伏している。

 彼らを全滅させない限り、帝国のイスルード支配は完成しない。

 そのためにはアジトがどこにあるのか、その手掛かりを掴まなければならない。


 夜は人目を避けていた者たちが最も活動的になる時間帯だ。

 巡回兵を増員して、不審な輩を手当たり次第逮捕しなければならないはずだ。

 しかし街に入ってからそんな人影はまったく見えない。

 それに、溢れているはずの浮浪者たちも見当たらない。

 一体どこへ?


 どう考えてもいまの状況は異常だ。

 建物は固く閉ざされ、灯り一つ漏れない。

 下水施設から出て、遠くに見えた灯りは人家から漏れたものではなかった。

 篝火だ。

 街のあちこちに点在している。

 おかげで暗視を使わずに歩くことができたのだが、市民も巡回兵もいないのに一体なぜ?


 不気味に静まり返った旧市街。

 無人の街で篝火だけがパチッ、パチッと小さく爆ぜていた。


 エルミラはなんとなく篝火の一つに近付いた。

 無音無明の中で、人はどうしても光と音がある方に注意が向いてしまうもの。

 彼女も例外ではない。


 その明るい火を眺めていると、ふと、さっきの下水施設のことが思い出された。


 確か下水道から見える位置に松明が灯されていて、ため池から地上へ向かって転々と松明があった。

 まるで下水道から出てきた者を旧市街へ誘導しているように。


 下水施設から出ると、街で焚かれている篝火に遠目から気が付く。

 明かりを見た者は自然とそっちに行ってみようと思う。

 誰でもそうするのではないだろうか?

 エルミラも、他国の密偵も……ゾンビたちも……


 ——!


 なぜさっきから誰にも出会わないのか?

 その意味を悟ったエルミラは、背負っていた弓矢を取り出した。

 浮浪者が弓矢など構えていたら不審がられるかもしれないが、そんなことを気にする必要はない。

 巡回兵など、初めからいなかったのだから。


 帝国兵が捕らえるべき相手は解放軍密偵だけではない。

 海上封鎖されて様子がわからないこの島の情報を得ようと、各国密偵も入り込んでいるはずだ。

 彼らも捕えなければならない。


 ウェンドアは国際都市だ。

 新旧両市街を合わせると広大な面積になる。

 派遣された歩兵は決して少なくないが、この巨大な都市のすべてに目を光らせるには数が足りない。


 では騎兵が留守の間、歩兵たちはどうやってこの大都市の治安を守るべきか?


 リーベル王国にとっての治安は市民の安全を守ることだった。

 だが、帝国は違う。

 帝国にとっての治安とは、市民の安全を脅かして逆らおうという気をなくさせること。


 しかし、一万人以上のウェンドア市民に対し、たった数百の歩兵では無理だ。

 夜間外出禁止令など誰も守りはしない。

 目の前で堂々と破るような真似はしないだろうが、歩兵の目を盗んで人々は夜の街を行き交う。

 その中に密偵たちも紛れ込みながら……


 だから——

 帝国軍は街に放ったのだ。

 ゾンビを。


 外出禁止令を守らず外出する者は、ゾンビの餌食になるのだ。

 市民も、密偵も。


 松明や篝火は、ゾンビたちを街へ引き込むための誘導灯だ。


 ——篝火の近くは危ない!


 無人の街を照らす灯りの意味がわかったエルミラは足早に離れた。

 再び中央通りを目指して、入り組んだ細道を抜けていく。

 駆けながら彼女は悟った。

 ここは懐かしき旧市街ではない。

 死者の街だ、と。



 ***



 深夜の中央通り——

 エルミラの手には魔法剣マジーアが握られていた。

 彼女自ら魔力を付与したその刀身からは、ほのかな光が発せられている。


 矢はすでに撃ち尽くし、そこからはマジーアの出番だった。

 ここに辿り着くまでに二体のゾンビを斬り捨ててきた。


 途中、食事中のゾンビに遭遇した。

 進路上で誰か倒れていて、傍らでもう一人が縋りついているように見えた。

 もし生存者なら救助しようと考え、つい近付いてしまったのだ。


 残念ながら、すでに生きている者たちではなかった。

 救助の必要はないとわかったが、縋りついていた方に気付かれてしまった。

 エルミラは仕方なく、彼が立ち上がる前に素早く始末した。


 もう一方の倒れている者は街娘のようだ。

 あるいは街娘に変装した密偵か?

 すでに息絶え、あちこち齧られて朱に染まっていた。


 もし解放軍の密偵だとしたら、何か手掛かりがあるかもしれない。

 本当は衣服を調べるべきなのかもしれないが、あまりに凄惨で気が進まなかった。

 それに死後とはいえ、若い娘の衣服を切り裂いて剥ぎ取るような真似はしたくない。


 考えた末、余計なことはせずに首を刎ねてそこを後にした。

 そうしておけば、彼女が他の人間を襲わずに済む。


 街は所々篝火に照らされているが、滅亡前の賑わいに比べれば暗い。

 もしゾンビが暗がりに佇んでいても、気付かず接近してしまう恐れがあった。


 そこでエルミラは、再び暗視を発動することにした。

 その暗闇を見通せる目で中央通りをよく確認する。

 この大通りは旧市街の中央を東西に横断し、その真ん中に立つと両端を確認できないほど長大だった。

 彼女はちょうどその中心に立っている。


 幸い、見える範囲内に動く人影はなく、安心した彼女は西に向かった。

 目指すマルジオの酒場は街の中心部から少し西へ行ったところにある。


 途中、別の酒場を通り過ぎたが、皆閉まっている。

 この辺りは酒場がいくつも並んでいて、それぞれが自慢の料理を競い合う楽しい区画だった。

 脳裏で賑やかだった頃の光景が重なる。

 いまは見る影もない……


 少し歩くと、マルジオの酒場が見えてきた。

 やはり他同様、閉まっている。

 いつも開放されていた入口は固く閉じられ、明かりと歌が漏れていた窓も鎧戸が閉まって、外からの侵入を拒んでいる。


 もしかして旧市街の住人は立ち退かされたのか?

 そう思ってしまうほど街全体から人の気配がなくなっていた。

 せっかくここまで来たが、マルジオもすでに退去した後だったか?


「無駄足だったかもしれないな……」


 そんな諦めが彼女の中に芽生えたときだった。

 目指す酒場の入口に向かって人影が一つ突っ込んでいった。

 人間大の物体が板にぶつかる激しい音の後、ドンドンドン! とけたたましく続いた。


 エルミラも彼の店に用があったのだが、物陰に隠れて先客に譲ることにした。


 音の特徴から掌ではなく、拳を握りしめて叩いているらしい。

 それが規則正しく続いている。

 どうやら生きている人間のようだ。


「おい、マルジオ! 助けてくれ!」


 人影は男性だった。

 入口を叩きながら、助けを求めている。

 彼もエルミラ同様遠方から尋ねてきて、退去しているかもしれないことをわかっていないのか?


 音にゾンビたちが引き付けられて危険だ。

 戸を叩くのをやめさせよう、と物陰から出て、前に歩み出ようとしたときだった。

 酒場二階の窓が開き、誰かが入口に向かって怒鳴りつけた。


「やめろ! 奴らが来ちまうだろうっ⁉」


 マルジオだった。


 ——そうか! だから……


 物陰から見ていたエルミラは合点がいった。

 旧市街の建物は大体二階建て以上のものが多い。

 新市街ができるまで、増えすぎた人口を受け止めるためには高層化していくしかなかったのだ。


 ゾンビは地上を彷徨っているのだから、一階から聞こえる音に最も反応する。

 だから皆、上層階で息を潜めていたのだ。

 住民たちはこの街で生きていた。


 無人ではなかったことに安堵しながら成り行きを見ていると、マルジオは裏口に回るよう指示していた。

 男は素直に従い、酒場横の小道に消えていった。


 先客がいなくなったので、エルミラは隠れるのをやめて立ち上がった。

 彼に続いて、自分も裏口から入れてもらおう。

 そう考えた時だった。


 先に裏口に向かっていた彼が戻ってきた。


「うわあああっ! た、助けてくれええっ! マルジオ、マルジオォッ!!」


 戸を叩く音に引き付けられた二体のゾンビが小道に来ていた。

 長く叩きすぎたのだ。


 もはやマルジオにできることはない。

 彼自身が招き寄せたものだ。

 自力で逃げ延びるしかない。


 一人と二体は中央通りに飛び出してきた。

 これから命がけの追いかけっこが始まると思われたその矢先、三つの人影が一斉に倒れ込んでしまった。

 後ろのゾンビが僅かに足が速かったようで、前のゾンビを押し倒してしまった。

 その倒れたゾンビの指が逃げる男の靴に引っかかり、倒されてしまったのだ。


 後ろのゾンビは倒れている仲間を踏みながら、倒れている獲物に追い付いた。


「……あ……あぁ……」


 獲物は恐怖のあまり言葉が出ず、腰が抜けて立ち上がれない。

 ゾンビは膝を付いて獲物の両肩を抑えつけた。

 動けない彼は涙目になって震えながら、もはや命乞いをする気力も失せて一点を見つめていた。

 視線の先にあったのはゾンビの口。

 唇の肉が腐り落ち、欠けた歯が尖っていた。


 そのおぞましい口を大きく開くと一気に彼の肩口目掛けて被さった。

 その途端、中央通りに響き渡る凄まじい悲鳴。


「ギィヤァァァッ! 嫌だ、嫌だあぁぁぁっ!」


 深夜の中央通り、酒場の前は地獄の食肉祭と化した。

 倒されていたゾンビも追い付いて、祭りに合流した。

 先に貪り始めた仲間に倣い、獲物に縋りつく。


 合流したゾンビの口周りはすでに赤黒い。

 その色をさらに追加しようと、大きく口を開いた。

 そのまま齧りつこうとしたが、背後に気配を感じて振り返った。


「ウゥ、アァ……?」


 帆布を被った魔法剣士が、いつの間にか背後で見下ろしていた。

 エルミラだ。

 男を救おうと駆け寄ったが、間に合わなかった。


 ふり返って見上げてきたゾンビは、彼女を一目見ただけで理解した。

 祭りに追加された肉だ、と。


 仲間と一緒に食べかけていた肉を齧るか?

 それともこの新たな肉にしようか?


 少し迷った後、追加された肉に向かって手を伸ばした。

 直後その手がくるくると回転しながら宙を舞う。

 エルミラが横に避けざま、下から上に向かって斬り上げたからだ。

 魔法で強化されたマジーアは、まるで熱したバターを切るように、伸びてきた腕を滑らかに斬り飛ばした。


 前のめりに襲い掛かっていたゾンビは勢いが止まらず、エルミラがすでに退いた地面に再び倒れ伏した。

 彼のうなじが露になる。


 元は彼も王国の国民だったに違いない。

 だがいまや、人を食うモンスターと化した。

 彼女にできることは、彼を普通の死体に戻してやることだけ。

 もうそのことに躊躇いはなかった。


 彼女は斬り上げた勢いそのままに、大上段からまっすぐ振り下ろした。


 ザンッ……!


 うなじに当たったマジーアの刃がそのまま地面に食い込んだ。

 これで彼が人肉の飢えに苦しむことはない。

 二度と。


 まだ一口しか齧っていなかったが、仲間がやられたことに気が付いたゾンビが血まみれの顔を上げた。

 しかしすでに彼の顔面目掛けて白刃が迫っていた。


 エルミラは剣を地面から引き抜くと、残る一体に近寄り、斜め下から上へ振り上げていた。

 彼の半開きの口に入ってきたのは、肉ではなく刃だった。

 鉄をも切り裂く魔法剣の斬撃は、彼の両頬を切り開きながら首の骨を切断し、上顎から上が後ろへ飛んでいった。


 ボチャッ、グチャッ、と何度か嫌な弾み方をしながらどこかへ転がっていった。


「……すまない。間に合わなかった」


 エルミラは剣を抜いたまま、男に救えなかったことを詫びた。

 彼は座り込み、食いちぎられた右肩を左手で押さえながら呻いていた。


 僅かでも噛まれたり、爪で引っかかれた人間はゾンビに変異する。

 ある魔法使いはこれを毒によるものだと主張し、また別の者は呪いによるものだと唱える。

 どちらにせよ、傷つけられたら何かに感染して変異するということだ。


 救う方法はただ一つ。

 正気を保っていられるうちに神殿へ連れていき、〈浄化〉してもらうしかない。


 しかし、この正気というやつが難しい。

 自らの傷を見て、噛まれたことを自覚してしまう。


 これから自分は死ぬ——


 その事実が否応なしに突き付けられる。


「死後に動く屍となる」

「いいや、それは違う。本来の寿命が尽きるまでゾンビ状態のまま生き続けているのだ」


 魔法使いたちはこのように争っているが、噛まれた人間にとってそれほど重要な違いではない。


 いままでの自分ではなくなってしまう。

 そのことだけは確かなのだから。


 こんな残酷な運命に絶望しない者がいるだろうか?

 たとえ騎士でも、正気を保つのは難しいだろう。

 つまり、浄化は間に合わないときの方が多いのだ。


 一番良いのは、この場に司祭がいてくれることだ。

 冒険者たちが彼らを隊列に加えるのはこんなときのためだ。

 すぐ近くに癒し手がいてくれるというだけで、どれほど正気を保つ助けになることか。


「お、おい……」


 周囲に他のゾンビがいないことを確認したマルジオがやってきた。


「マルジオ、手を貸してくれ。彼を神殿まで運びたい」

「姫様⁉」


 帆布の奥から聞き覚えのある声がする。

 毎日のように通ってくれたご贔屓の声を忘れたりはしない。

 マルジオは目を丸くして驚いた。


「……ただいま」


 エルミラは頭にかかっている布を後に下して顔を見せた。

 酒場の中に入るまでバレたくなかったのだが、そんなことを気にしている場合ではない。


「ひ、姫さ——う、ゴボァァァッ⁉」


 マルジオに続いて見上げて、「ひ、姫様⁉」と言いかけたのだが、最後までいうことはできなかった。

 猛烈な吐き気が彼を襲ったからだ。


 彼は堪らずビチャ、ビチャと音を立てながら地面に向かって大量の血を吐いた。

 それを見たエルミラは思わず眉をひそめる。


 彼を汚らしいと思ったのではない。

 吐いた血の色が、緑を帯びた黒色だったからだ。

 ゾンビの血の色だ。

 ……いまから神殿に連れて行っても間に合わない。


 吐き終えると、肩で荒い息をしながらエルミラとマルジオの方を振り向いた。


「お、お見苦しいところを……申……し訳ござ……」


 その表情を見てマルジオは息を呑んだ。

 顔から血の気がなくなり、右目が濁り始めていた。

 一方、エルミラは一切動じていなかった。


「すまんな。私に神聖魔法の心得はない」


 詫びながら剣を両手で握り直し、彼に向かって構えた。


「そのまま頭を下げよ。すぐに終わる」


 エルミラがいま彼にしてやれることは他になかった。

 だが、男は血まみれになった左掌を彼女に向けて辞退した。

 そしてよろめきながら立ち上がった。


「とんでもない……ことで……す。姫様……にそのよ……なこと」


 彼は混濁した意識を辛うじて保ちながら、彼女に礼を述べた。

 ゾンビたちから助けようとしてくれていたことを。


 言い終わると、城壁の方に向かって足を引き摺り始めた。

 ゾンビになりつつある自分を、二人から引き離そうとしているのだ。

 残された二人は黙って見送るしかない。


 ずっとうつむいていたマルジオは、急にバッと顔をあげると彼の方へ走った。


「おい、これ持ってけ!」


 彼の前に回り込み、左手で受け取れるように何かを差し出した。

 それは酒瓶だった。

 すでに栓は抜いてある。


「せっかくウチに来てくれた客に、酒を出さないまま帰せねーよ!」


 左目も濁り始めていたが、彼はまだ理性を保っていた。

 差し出された酒を血まみれの左手で受け取ると、嬉しそうに微笑んだ。


「アりがテェ……」


 それが彼の最期の言葉だった。

 もらった酒をさっそくグビッとやりながら、彼は下水施設の方へ消えていった。


 マルジオの更に後方から、その様子を見守っていたエルミラは天に祈った。

 あの酒が飲み干されるまで、どうか彼に猶予を与えたまえ、と。

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