第27話「故郷の灯り」
図らずも
外ではまだ大騒ぎの真っ最中だ。
時々、青白い稲光が彼女の背を照らした。
これから中に入る。
だがその前に、元難民だったゾンビたちを振り返った。
皆、モンスターと化してしまっているのだが、その姿は帝国支配に反対し、抗議に押し掛けた民衆の様にも見えた。
彼らは死して尽きることのない食欲を満たすために、生者を喰おうとしているだけだ。
決して王国への忠義から攻め寄せているわけではない。
わかっている。
わかってはいるが、それでもエルミラは彼らに一礼した。
彼らのおかげで彼女は無事にここまで辿り着けたのだから。
民たちの犠牲を無駄にはできない。
彼女は先を急いだ。
下水道は足元をチョロチョロと水が流れる程度で、脇を歩けば濡れずに通ることができる。
それでも湿っぽく、時々異臭が漂ってくる。
半分は下水の匂いだが、残り半分は死臭だ。
つまり、
大半の者たちは夜明けまで外出中だが、やはり引っかかって出られなかった者たちがどこかで留守番をしているということだ。
エルミラは弓に矢をつがえながら目を瞑り、小声で何かを唱えた。
短いその詠唱は〈暗視〉の魔法。
唱え終わって目を開いたとき、彼女の目は夜行性の獣のように闇を見通せるようになっていた。
魔法剣士隊必須の魔法だ。
周囲の様子を知るという点において〈暗視〉より〈探知〉の方が優れてはいる。
探知なら全方位を把握することができるのだが、欠点は暗視より消耗することだ。
城壁上で魔法兵たちが交代で発動しているのはそのためだ。
魔法剣士隊の任務は少人数もしくは単独で上陸し、敵施設の無力化や敵将を暗殺することである。
探知魔法で消耗している場合ではない。
ゆえに状況を把握できる範囲は狭まるが、魔法剣士隊では探知ではなく、消耗の少ない暗視を採用していた。
少女時代、王族だからと手を抜かずに訓練を積んできたおかげで、今日、真っ暗な下水道を行くことができる。
鮮明に見えるようになった下水道は、思っていたより水量が少なく、そこを流れる
士官学校の訓練で下水道の駆除に同行するというものがある。
そのときのことを思い出すと、彼女はいまでも吐き気がする。
ウェンドア中から捨てられた物が海や河口に向かって流れていくのだ。
それを狙う鼠や虫も多く、匂いと不快さが限界に達したとき、不覚にも吐いてしまった。
あのときのことを思い浮かべ、覚悟しながら下水道に入ったのだが、拍子抜けしてしまった。
これは市民生活がかなり制限されているということだろう。
おそらく夜間外出禁止令が出ている。
酒場は一番の稼ぎ時に営業を終えなければならず、ゆえに食器を洗った水や残飯がここに流れ込むこともない。
この下水の少なさが帝国支配の厳しさを物語っている。
——旧市街に出たら、巡回兵に気を付けなければ……
きっと夜間は見回りを強化しているはずだ。
帝都の巡回兵より士気は低いかもしれないが、粗暴さや気の短さはこの島の帝国兵の方が上だろう。
禁止令に従わない市民たちがどんな乱暴狼藉を受けていることか……
エルミラはチョロチョロと流れる下水を見ながら用心するのだった。
***
「ウゥ、アァァ……」
進行方向から呻き声が響いてくる。
エルミラは立ち止まり、弓矢を用意した。
——いる。
やはりどこかに引っかかって外に出られなかったものが残っている。
いま彼女が立っているところは下水道の本道だ。
闇を見通せるようになったその目で確認するが、本道に人影らしきものはない。
本道は真っ直ぐな一本道ではなく、市内各地から伸びてきている支道が合流している。
そのどこかに引っかかっているのだ。
暗視のおかげで闇は苦にならないが、可視距離が延びるわけではないし、探知のように支道で待ち伏せているものを発見できるわけでもなかった。
目に見える範囲には何もいない。
呻き声がどの支道から聞こえてくるのか、聞き耳を立ててみる。
「オォォ……」
声はあちこちに反響している。
前方からということしかわからない。
エルミラは弓矢をいつでも引き絞れるように構えると、静かに本道を進んでいく。
まるで肉食獣が獲物との距離を詰めるときのように。
最初の十字路に差し掛かり、左右を確認する。
——いない。
ヒタヒタと通り過ぎて、次の十字路に集中する。
ウェンドアには大きく二つの下水道がある。
河口に注ぎ込む旧市街下水道と、海に注ぎこむ新市街下水道だ。
昔の王都は旧市街だけで十分だったのだが、ロレッタ卿の功績により大きく栄えて手狭になってしまった。
そこですでにあった地下空間を拡張したり、地下道をさらに掘り進んだりした。
やがて崩落や水脈に当たって噴き出したりと、旧市街の地下拡張は限界を迎えた。
そこで新市街が作られることになったのだが、その頃には迷宮と化していた。
いまも全容はよくわかっていない。
その支道からゾンビの呻きが伝わってくる。
静かに、もしそこにいるなら下手に刺激しないよう、気を付けながら十字路に近付く。
「ウアァ……ォオォ……」
近い。
かなりくっきり聞こえるようになった。
エルミラは十字路の手前中央で止まり、耳をそばだてた。
ここまで来ると反響ではなく、発した音が直接届く。
低い呻き声と靴底が擦れる音が左から聞こえてきた。
キリッ、キリキリッ——
弓を引きながら、彼女はそっと前のめりに左を覗き込む。
——!
そこにいたのは成人男性のゾンビだった。
彼はこちらを向いていたので目が合ってしまった。
その白濁した目……
あまりの醜悪さに思わず数歩後退した。
彼は両手を前に突き出しながら、本道に向かって足を引き摺り始めた。
彼から見た人影が難民なのか、王族なのか、その腐った目で見分けることはできなかった。
第一、そんなことはいまの彼にとって些細な違いだ。
皆、ただの肉なのだから。
「アァァ、アアアァ……」
彼は彷徨っているうちに下水道の入り組んだところで引っかかってしまっていた。
普通の人間なら簡単に出入りできるが、腐った脳では至難だった。
もう何日も肉を食べていない。
それが肉の方からやってきてくれた。
すぐそこにいる。
壁に沿って進み、本道に出たところに。
久しぶりの生者の肉を味わおうと、彼は重い足で前進する。
曲がり角まであと二歩、あと一歩。
ズドッ……!
何かが右目に当たり、左後頭部へ抜けていった。
——?
元々あまり見えなくなっていた右目がなぜか全く見えない。
そこへ、あとから痛みが続く。
始めは右目に、続いて脳に。
一体何が当たったのか確かめようと、彼は見えなくなった右目に触れてみる。
——!
何か細い棒が突き刺さっている。
そのせいで見えなくなったのだ。
彼はその棒を引き抜こうと、右手で掴んで引っ張ったが抜けない。
引っ張ると左後頭部で何かが引っかかって止まってしまう。
それは鏃の返しだった。
本道で待ち構えていたエルミラが、彼の脳の中心部目掛けて放った矢が狙い通りに命中したのだ。
矢は貫通して止まったので、引っ張れば返しが後頭部に当たってそれ以上引き戻すことができない。
「オォ、ウガァァッ……」
苛立たし気に、右目から生える棒を両手で掴んで引っ張るが、その
元々重かった体に全く力が入らなくなり、膝から崩れて地に伏せた。
もう彼が立ち上がることはない。
一声低く何かを呻くと、棒を掴む両手から力が抜け落ちた。
生きている敵兵ではないので、生死の確認はしない。
エルミラは次の矢をつがえながら先へ進む。
彼の手が届く範囲の外側を、大きく円を描くように通り過ぎることにした。
倒れている横を通り過ぎるとき、彼の服装が横目に入ってきた。
生前は農民だったらしい。
元々耕作面積が少ないこの島を懸命に耕し、島中の人々に作物を供給してくれていたのだろう。
それほど骨が露出していないから、ゾンビになってまだ日が浅い。
おそらく解放軍の略奪で村が滅んだか、帝国軍と解放軍の戦場になってしまったので村を捨ててきたか。
なんとかウェンドアに辿り着いたが中に入れてもらえず、この近くで噛まれてしまったのだろう。
そして今日、頭を貫かれて下水道に伏した。
島民を飢えから守ってくれていた功労者の、あまりにも報われない最後だった。
それもこれもリーベル王家が不甲斐なかったからだ。
魔法使いたちの増長を戒めることができなかった。
だからやがて増長が野望に育ち、その野望を帝国に利用されたのだ。
大臣も将軍も王家も、その後の共和国議員たちもどれだけ高度な魔法を扱えるかを競っているだけの愚か者だったのだ。
完全に彼の横を通り過ぎた後、ふと女将の言葉が思い起こされた。
艦長が判断を誤ったとき、艦の運命は決まる、と。
艦が沈めば乗員は巻き込まれて死ぬか、海に投げ出される。
運が良い者は誰かに拾ってもらえるかもしれないが、それ以外の者たちは鮫や大頭足に食われるか、力尽きて海の藻屑となる。
ファンタズマはまだ二人だけだが、これから徐々に乗員が増えていくはずだ。
もしエルミラが判断を誤れば、その乗員たちの命運は尽きる。
後方で永遠の眠りについた彼のように。
指揮を執る者が愚かではいけない——
ただの死体に戻った彼と女将が声を合わせて、エルミラを戒めているようだった。
***
深夜の旧市街地下——
エルミラはまだ下水道の中を歩いていた。
どこにゾンビが潜んでいるかわからないので、どうしても歩みが遅くなる。
歩数から推測して、もう旧市街の中心まで来ているはずだが、出口までもう少し歩かなければならない。
下水道に残っているのは最初の農民ゾンビだけではない。
先へ進んでいくと、あちこちに点在していることがわかった。
矢の消耗は避けたい……
だが、どうしても仕留めなければ通れない位置に佇んでいる者がいる。
その場合は仕方がないので矢を放った。
大体は一射で脳を貫くことができたが、弓兵でも銃兵でもない彼女の弓矢では仕留めそこなうときがあった。
そうなれば一体のゾンビに対して第二射、第三射と撃つしかない。
その結果、矢は残り四本になっていた。
——もうこれ以上、彼らに遭遇したくない。
矢の本数が不安だというのが最大の理由だ。
しかしそれだけではない。
説得が通じる相手ではないので倒すしかないのだが、本当は守るべき国民だった者たちだ。
その頭を射抜くのは決して気分が良い作業ではない。
——もういませんように。
そう祈りながら彼女は旧市街を目指した。
早く普通の人間に出会いたい一心で先を急いだ。
十字路に出会うと立ち止まって緊張し、誰もいないことを確認すると安堵する。
そんな単独行がしばらく続いた。
——!
彼女の歩く先、遠くに灯りが見えてきた。
途中にまだ支道が合流している十字路があるが、出口が見えてきたことに安堵する。
しかし、その十字路に潜んでいる可能性が残っているので油断はできない。
現に前方からも後方からも唸り声が聞こえてきている。
聞き耳を立てて位置を知りたいが、その音がまったく信用できない状況だ。
本当は前方にいるのに、支道からさらに伸びている道を伝って後方から聞こえているかもしれないのだ。
最後の十字路に差し掛かり、注意深く左右を確認した。
どちらからも恐ろしい唸り声は届いているが、幸いなことに人影はなかった。
ただ、左より右から届く声が大きい。
こちらに近付いてきているようだ。
遭遇したくないので足早に通過した。
あとは一本道だ。
追いかけてきていないか、後ろをふり返りながら出口に向かう。
——やっと帰ってこられた、ウェンドアに!
帝国に連行されてから一ヶ月以上が経過していた。
暮らしていた頃は何も感じなかったし、早く遠い外国に行きたいと願っていた。
だが実際にその遠いところから帰ってきたいま、彼女の心には懐かしさがこみ上げてきていた。
だから気が付かなかった。
不審に思わなかった……
王国時代、いや、彼女が生まれるずっと以前から、下水道の出入り口には頑丈な鉄柵扉が設けられ、自由に開閉できないよう施錠されていた。
今日、河口へ注ぎ込む排水口に鉄柵扉はなかった。
だからこそ彼女は潜入できたのだ。
そしてこれから向かう旧市街側の出口では、松明か何かの灯りが出迎えている。
そちらにも鉄柵扉はないということだ。
排水口付近の壁には、無数の引っ掻き傷があった。
元難民たちがつけたものだろう。
彼らが狙う獲物は夜、城壁に立つ守備兵たちだ。
日が沈めば、再び城壁に押し寄せる。
そのため、あまり下水道の奥には入り込まないようだった。
それでも彼女がここへ来る途中で遭遇したように、奥へ奥へと彷徨い込んでしまう者たちはいる。
……旧市街側が開放してあったら市民が危険ではないか?
いまのエルミラに、このことを疑問に思う余裕はなかった。
嬉しさのあまり飛び出したい気分だった。
だが彼女はここへ潜入した目的を忘れてはいない。
あくまでも冷静だった。
出口の手前に辿り着くと、いつでも発射できるように弓を構えながら、静かに左壁に背を付けて出口右を覗き見る。
——いない。
続いて右壁に背を付けて左を。
——誰もいない。
安心した彼女は引き絞っていた弓矢を緩めながら下水道から出た。
そこは街に何ヶ所かある下水を集める地下施設だった。
市内の下水は一度この施設に集められてから排水されるらしい。
深く穴を掘っておき、いま通ってきた下水道に繋がっている。
壁中に穴がいくつもあるから、そこから市内の下水が注ぎ込まれるのだろう。
キョロキョロと見渡してみたが、その建物自体も無人のようだ。
気になったものは下水道からも見えた松明だけ。
下水を溜めておくその穴の壁面で明々と燃え続けていた。
——これは一体何の目的で?
エルミラは首を傾げた。
松明は下水道から見える位置に一つだけ。
他の壁面にはない。
ここは水没する場所だ。
そんなところで松明を灯しても消えてしまう。
士官学校の訓練で別の下水施設に入ったことがあるが、構造はほぼ同じだ。
そのときにこんな松明はなかったように思う。
帝国の統治になってから灯すことになったのだろうか。
毎日交換しているらしいが、帝国軍の考えていることはよくわからない。
——何か大陸の宗教的な意味合いがあるのかもしれないな。
そう結論付けると、壁面の階段を上って地上を目指した。
エルミラはまだ知らない。
その松明の意味を……
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