第22話「ただいま」

 哨戒網を突破したエルミラたちは、その後も東へ進み続けた。

 もちろん遮光航行のままで。


 ウェンドアはそろそろ日の出を迎える。

 きっと島に後光が差して見えることだろう。


 正直、ちょっとだけ遮光を解除して、久しぶりの故郷を肉眼で見たいと思う。

 しかしそれは叶わない。


 まだイスルード島も、そこから伸びる魔法使いの探知円も空間鏡に表示されていないが、城壁に立つ見張り兵の視力はさらに遠くまで見通す。


 すでにファンタズマ号は、彼らの観測範囲内を航行していた。

 見つかったらすぐに敵襲の警鐘が鳴り響き、港に停泊中の艦が迎撃に出てくる。


 遮光をやめるわけにはいかなかった。


 無言の甲板に、風の音と波を切る音だけが続く。

 周囲を見渡しても何も見えないことに最初は驚いたが、すぐに慣れてしまった。

 右を向いても、左を向いても、夜からずっとこの見えない景色が続いているのだ。

 景色が見えない、変わらないというのは人から言葉を奪ってしまうらしい。


 その沈黙を破ったのは鳥の声だった。

 艦首から艦尾へマストの上を高い声が抜けていった。

 うみねこだ。

 一羽目が通り過ぎると、その後を二羽、三羽と続いていく。

 島から飛んできたのだ。

 エルミラは上を仰いで目を瞑り、その声にじっと耳を傾けた。


 ——懐かしい……


 思い出すのはお飾り兵団長だった日々……


 朝、彼女が団長室に入ると、その机には書類が山と積まれていた。

 毎日だ。

 それを一枚一枚読み、確認した、許可する、と記名していく。

 立場上、口に出したことはないが、無意味でくだらない仕事だった。


 一例を挙げると、陸海軍共同でモンスターを討伐して島内陸部を解放しようという計画だ。

 こういうことは海に出たことも、モンスターを実際に見たこともない貴族が、気まぐれに立案するのだ。


 モンスター討伐には陸軍と海軍が密に連携することが肝要である。

 海軍魔法兵団として、その点をどうお考えか?

 そういう大雑把な質問状が彼女の机に置かれている。


 内陸のモンスター討伐で、海軍に何をしろというのか?

 沿岸の街道にモンスターが出たと通報があれば、海から魔力砲を撃ち込んで退治している。

 陸軍は街道で無駄な消耗をせずに内陸へ進軍できるのだから、すでに連携はできている。


 だが、それだけでは海軍のやる気が感じられないと立案者は言う。


 だから、兵団からの協力として、海軍魔法兵や魔法剣士隊を出そうとしたこともあった。

 しかし、今度は出過ぎた真似をするなと怒る。


 協力してくれ、もっとやる気を出してくれ。

 でも出過ぎた真似はしないでくれ。


 これらをすべて満たす海軍の連携とは?

 ……立案した貴族が明言することはない。

 それを考えるのも海軍側の仕事らしい。

 やる気が刺激されるような仕事内容ではない。


 せめてこの矛盾を彼女自らが考えた言葉で指摘できるなら、もう少しやる気が起きたかもしれないが、もう一つ意欲を削がれる要因があった。


 これらの書類には小さな紙が添えられているのだ。

 この書類はこのように書いておけば相手が満足する、という副団長からの助言だ。


 兵団の実質的な指揮官は副団長だ。

 団長の机に届く書類は、すべて副団長が目を通して判断を済ませている。

 だからこのメモはただの助言ではない。

 団長の仕事はその通りに書くだけだ。


 彼女はこの慣習が嫌いだった。

 いつの頃か、代々続いていることなので、彼女の能力を疑問視してのことではない。

 それでも「おまえは何も考えずに言われた通りにしておればよい」と言われているようでプライドが傷つくのだ。


 兵団長は朝議や式典に出席するので、相応しい〈格〉が求められる。

 よって、自然と王族や大貴族が代々就任するようになってしまった。


 逆に副団長は身分を問わず、能力や経験で選ばれた。

 兵団長に成り代わって、実務を取り仕切らなければならないからだ。


 平民と下位貴族たちは、どんなに頑張っても兵団長になれない。

 それがリーベル王国の良くない伝統だった。


 代々の副団長は不遇だったと思う。

 だが、その思いは兵団長も同じだ。

 誰が好き好んでお飾りになどなりたいものか。


 まるで籠の鳥だ。

 中途半端に王家の血など引いているから、世界に羽ばたくことは許されない。


 窮屈でたまらなかった少女時代のエルミラは考えた。

 羽ばたいてはいけない、というならば泳いでいこう。

 大海原をどこまでも。


 王宮の高い城壁を飛び越えられない雛鳥は、海軍士官学校で懸命に努力した。

 彼女の努力は実り、見事、魔法艦に乗艦して世界中の海を行く、海軍魔法兵団の剣士隊に入隊できた。

 鳥は魚に生まれ変わることができたのだ。


 だが彼女を待っていたのは魔法艦ではなく、団長室という水槽だった。

 近海で行われる定期訓練を何度かさせてもらった後、何もできないまま兵団長にされてしまった。

 宮殿という鳥籠から、団長室という水槽に換わっただけだった。


 うみねこの鳴き声は、そんな王家のが唯一、憧れていた自由の海を感じられるものだった。

 その声に癒され、励まされながら、彼女は午後も水槽の中で飼い主副団長の御指示通りに記名していった。

 確認した、許可する、そしてその最後に「エルミラ」と。


 月日は流れ、魚は帝国に献上された。

 帝都でも同じように水槽で飼われていたが、とんでもない暴れ魚で、うっかり逃がしてしまった。


 いまはウェンドアの近くでうみねこの声を懐かしんでいる。


 もう少し懐かしさに浸っていたいが、そうはいかない。

 エルミラはゆっくりと目を開いて現実に戻ってきた。

 視線を球体へ下すと、陸から伸びてくる探知円が表示されている。

 城壁の魔法兵たちだ。


 円は隙間なく重なっている。

 やはり港に潜入するのは無理だ。

 予定通り、南の小島を目指す。


「面舵―っ!」


 肩越しに後ろのリルへ指示を飛ばす。


「よーそろー!」


 元気な返事の後に、カラカラカラという音が続いて、右足に体重がかかっていく。

 同時に、正面の探知円がファンタズマの左側へ移動していく。

 そこで舵を戻し、円の外側と哨戒網の間をまっすぐ南下していった。


 目指す小島は、イスルード島南端の岩礁海域にある。

 海から突き出した大きな岩がいくつも屹立しており、中には戦艦より大きなものもある。

 そのような大岩には樹木が生えて、遠目には小島のように見える。

 植物が育つには不向きな場所だが、木々は懸命に枝を伸ばし、隙間がみつからない枝は海面に垂れ下がるように伸びていく。

 小型の艦船を隠すには最適の場所だ。



 ***



 エルミラたちは、州都ウェンドアから伸びる探知円を避けて南下していった。

 目指す小島に辿り着いたのは、さらに丸一日が経過した夜だった。


 到着すると空間鏡で周辺を拡大し、本島の影になる西側で停泊に適した場所を探した。

 幸いにも、隣り合う二つの小島が互いに枝を伸ばし合い、鬱蒼としているところを見つけることができた。


 彼女がここをファンタズマの隠し場所に選んだのは、警備艦が近付かないと予測したからだ。


 周辺には小島になれなかった岩が広範囲に潜んでいる。

 小島に辿り着くには、岩の間にある僅かに水深が深いところを通るしかない。

 それを知らない船が無造作に近付けば座礁してしまう。


 どうしても通りたければ、波が穏やかな快晴の日に、メインマストの上から水面下の岩を見張りながら進むしかない。

 だがそうまでして近付いても、そこにあるのは岩と枝だけだ。


 目視が難しいなら、探知魔法はどうかと考えるかもしれないが、そう上手くはいかない。

 探知魔法は、敵の〈気〉を察知するもの。

 敵意のない岩を察知することはできない。

 ゆえに、魔法艦であっても自在に通ることはできない。


 暗闇の中でも水中の地形を知り、安全に通ることができるのはこの艦だけだ。

 ここならウェンドアに潜入している間、リルの安全が確保できる。


 錨が着底するのを確認してから、エルミラは遮光をやめさせた。


「フゥ……」


 リルから一息漏れた。

 同時に、張り出した枝の下で幽霊船の姿が再び現世に現れた。


「リル、お疲れ様」


 遮光はやはり疲れる作業なのだ。

 無理をさせてしまった。

 だが、当の少女はまだまだ元気だった。

 その証拠に——


「平気だよ。それよりも、早くご飯にしよう!」


 と先に調理室へ下りて行ってしまった。


「待て。一人で作る気か?」


 後を追いながら、エルミラは一人胸を撫でおろした。

 核室で〈柩〉を見て以来、少し過敏になっていたようだ。


 考えてみれば、普通の人間も飲まず食わずで働き続ければ死んでしまう。

 少女も同じだ。


 あのとき、柩の中で彼女の腹は膨らんでいた。

 よく食べ、よく休めば、普通の人間同様に回復できるのだ。

 上陸している間、彼女は退屈かもしれないが、遮光も特殊操船もないのだから、ゆっくり静養させることができる。



 ***



 上陸前の最後の夕食を終え、エルミラとリルはボートを下した。

 これから砂浜までボートを漕いで上陸する。

 王都…… いや、州都ウェンドアを目指すのだ。

 沿岸街道を通れれば二日程だが、お尋ね者なので昼はどこかに隠れるか、森を抜けていくしかない。

 三日、あるいは四日以上かかるかもしれない。


「何かあったら、これで」


 縄梯子に足をかけたエルミラは、首から下げている巻貝を掲げて見せた。


「うん。エルミラも気を付けてね」

「ああ」


 互いの挨拶が終わると、彼女は縄梯子を下りて行った。

 少女に見守られながら、一段一段、注意深く。


 ボートに着くと、流されないよう係留していたロープを外し、縄梯子と一緒に回収するよう巻貝を通して声をかけた。


「…………」


 返事がない。

 また、見上げる欄干に少女の姿はない。

 どうしたのか、と声をかけようとしたとき、スルスルと上に引き上げられていった。


 少女はまだ欄干からこちらを覗き込んでこないが、ボートから上に向かって声をかけた。


「それじゃ、行ってくる! 留守を頼む!」

「うん。任せといて」


 すぐ隣で声がしたので、驚いて横を向いた。

 そこにはリルが。

 一瞬でボートに移動してきて、上を見上げているエルミラの横に座っていた。


 空間転移⁉

 いや、帝都脱出の時と同じだ。

 艦の近くなら、少しの間だけ霊体になって活動できるのだった。

 ……忘れていた。


「何してるんだ? 艦に戻れ」

「うん。お見送りしたら一瞬で戻るよ」


 しかし戻る気配はない。

 これで少女はまたしばらく一人になってしまう。

 帝都に繋がれていたときのように……


 その気持ちを考えると、艦長として間違っていると知りつつも、厳しくはできなかった。


「……浜辺までだぞ?」


 リルはニコッと微笑んで正面を向いて座り込んだ。

 諦めたエルミラはさっそくボートを漕ぎ出した。


 ギッ…… ザザッ……

 ギィッ、ザバッ……


 ——それにしても心臓に悪い。


 少女の背中を見ながら、心の中でそう呟いた。

 こういうことをするから、帝都で幽霊だと勘違いしてしまったのだ。


「大丈夫。砂浜には誰もいないみたい」


 リルはファンタズマと一心同体。

 空間鏡の前に立たずとも、そこに表示されているものが少女の視界の中にも映し出されている。

 これから上陸する砂浜の様子を見てくれていた。


「ありがとう。助かるよ」


 少女は振り返らず、右親指を立ててみせた。

 顔を見なくてもその背が語っていた。

 褒められて嬉しいことを。



 ***



 ザザザッ!


 船底が砂に擦れてボートは止まった。

 イスルード島に上陸した。


 ファンタズマから偵察してくれた通り、浜は無人だった。

 乗ってきたボートは見つからないように処分しようかと考えたが、やめて浜に引き上げた。


 暗礁のことがあるのでこの辺は漁船も近付かない。

 貨物を運ぶ船はもっと沖を通る。

 すぐ近くを通る沿岸街道もモンスターが出るので、旅人や馬車は通らない。


 つまり忘れ去られた浜なのだ。

 そこにボートが打ち上げられていても、誰一人、気にも留めないだろう。


「いってらっしゃい」

「ああ、いってくる」


 少女に手を振られながら見送られ、エルミラは街道に向かって砂浜を歩きだした。

 ふと、数歩進んだところで彼女は振り返った。


 そこに少女の姿はない。

 いま頃は、甲板で横たわっていた人型が起き上がっていることだろう。

 今度こそ艦長命令が守られたことを確認したエルミラは、もう振り返らなかった。


 戦乱のイスルード島。

 ついに元王女は帰ってきた。

 そこがもはやリーベルではないことはわかっている。

 それでも言わずにはいられなかった。


 誰もいない無人の浜で亡国の姫は、懐かしき島に向かって小さな声で囁いた。


「ただいま」と。

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