第23話「弱肉強食」
故郷の島へ上陸を果たしたエルミラは、ボートから下ろした皮革のザックを背負い、さっそく街道を歩きだした。
ザックの中身は四日分の食料と、ウンディーネに出してもらった一日分の水だ。
潜入が無理だった場合、そのまま引き返すことになる。
一週間分位持っていこうかと思ったが、あまり重いと足が遅くなるので最低限に留めた。
歩き始めてすぐ、遠くに薄っすらと集落の灯りが見えたが、立ち寄ることはできない。
街や村には間違いなく、帝国兵が駐屯しているからだ。
それに、いまは村人たちにも見つかりたくなかった。
ここへは祖国奪還に戻ったわけではない。
リルの情報が手に入ったら、すぐに離脱する。
姿を見た村人たちに、王女の御帰還を宣伝されては困るのだ。
薄情かもしれないが、解放軍に協力するつもりはない。
解放軍は元々、王党派を名乗っていた。
だからといって、王家に忠実な者たちとは限らない。
己の欲を叶えるために都合が良いから、王家を旗印としているにすぎないかもしれないのだ。
帝国兵に捕まったら、二度と海に出られない。
当然だ。
しかし解放軍に捕まっても、やはり二度と海に出られなくなるだろう。
元々、富と力に溺れて外道に堕ちた国だ。
ゆえに女将がかつて見放した。
そのような国の中枢にあった者たちに、忠誠心や思いやりの心などという高尚なものはない。
彼らは利益がすべてだ。
もし捕まったら、女将が言っていた通りのことが起きるだろう。
リルとファンタズマは取り上げられ、エルミラ自身も拘束されて彼らの欲に利用される。
祖国解放後、一応、リーベル王国は復活するかもしれないが、それは見せかけだ。
解放軍首脳陣が国政のすべてを掌握し、お飾りの王族には指一本触れさせないだろう。
滅ぶというのは、そういうことだ。
世界は広いので、奇特な忠臣が王国を復活させて、実権まで返してくれたという話がないわけではない。
だが彼女の実家に、そのような人物はいない。
それでもリルの情報を得るためには、解放軍と接触するしかないのだが、用が済み次第、変なことに巻き込まれないうちにさっさと引き上げる。
——引き際を間違えないようにしなければ……
ここは祖国ではない。
だがまったく知らない国ではない。
見知った故郷だと思うと、彼女の気持ちはつい緩んでしまう。
それではいけない、とエルミラは気を引き締めるようにザックを背負い直して先へ進んでいく。
しばらく歩いていると、女将が言っていたことは本当だとわかった。
いまこの島は野蛮な夢を叶える戦場と化している。
歩いているうちに段々、目が暗さに慣れて進む先が見えてきた。
そこに見えたものは、赤黒い
見渡すとその他にも、あちこちに赤黒い地点や、焼け焦げた痕跡が点在していた。
こんな何もないところでも戦闘があったのだろう。
戦っている二者のうち、一方は帝国からやってきた陸軍の騎兵だろう。
地面に残っている蹄の痕が深い。
王国にこれほど力強く地面を抉る馬はいない。
もう一方は不明だ。
野生の獣か、解放軍か?
もしくはモンスターかもしれない。
いずれの敵も、大陸最強の騎兵隊には敵わなかったようだ。
赤黒いのは敗れた者の血溜まりが乾いたものだろう。
いくつかはまだ乾いていないうちに、森へ引き摺られた痕があった。
それを見たエルミラは腰に吊るした魔法剣マジーアを確かめた。
そのままでは街道の邪魔になるからと、帝国兵が森に運んだのならば良い。
もしそうではないのだとしたら、女将さんにもらったこの剣がさっそく役立つことになる。
帝国兵でもないのに、街道に転がっていた死体を森まで運んで片付けた者——
その者は森に住んでいて、住処に死体を運びこんだのだ。
街道から片付けてくれたのではなく、その肉を食べるために。
つまり森に住む肉食獣か、モンスターということだ。
どちらも人間に対して友好的ではない。
王国時代、ここは王都からも東側の街からも遠い地点だったので、巡回が手薄だった。
放っておくとすぐに餌場と化し、人々の往来を妨げた。
時折、討伐隊を派遣して一掃するが、翌日にはまた戻ってきて馬車を襲った。
こんな不毛な繰り返しを避けるために海上輸送が始まり、ますますこの辺は見向きされなくなった。
残っている戦いの痕跡は、島東部に用があった騎兵隊が、偶然ここで解放軍かモンスターたちと戦闘になったというだけだろう。
この有様を見る限り、いまも放置されているようだ。
——急いでここを抜けなければならない。
きっと奴らは夜行性だ。
いまが最も活動的な時間帯だろう。
彼女の足は自然と早まった。
急ぎはするが、走りはしない。
せいぜい歩幅を少し広げるくらいだ。
いつでも剣を抜いて応戦する準備を整えながら。
荷物を背負いながら駆ければ息があがる。
そんなとき、不意に茂みから敵が躍り出てきたら危険だ。
相手はこちらの息が整うのを待ってはくれない。
——!
エルミラは何かに気が付いて立ち止まり、傍らの草叢にしゃがみ込んだ。
進行方向から誰かが来る。
灯りが二つ揺れている。
松明を持った複数人が、こちらに向かっているようだ。
おそらく騎兵ではない。
嘶きや蹄の音が聞こえないし、近付いてくる速度が緩やかだ。
——歩兵か?
それにしては松明の位置が低い。
ちょうど子供が持ったときの高さだ。
こんな物騒なところを子供だけで?
しかもいまは夜更けだ。
——夜、子供、徒歩、松明……
それらの単語から彼女はいま、士官学校時代を思い出していた。
***
候補生エルミラの卒業が間近に迫った頃、各科目の最終試験が続いていた。
どれも候補生たちの卒業後の所属が決まる重要な試験だった。
その一つに実戦試験があった。
候補生数人で隊列を組み、ウェンドアから遠く離れた街まで、数日かけて移動するというものだ。
リーベル王国に生まれ育った者なら全員知っている。
王都の外には残酷な弱肉強食の世界が広がっていることを。
この試験はそこを通ってこいと言っているのだ。
どの道を通っても良い。
何をしても良い。
実戦試験といっているが、一度も戦わずに目的地の街へ到達しても合格になる。
モンスターたちに見つからないよう、探知魔法を駆使して迂回すれば良いのだ。
だが、不戦合格した先輩の話など聞いたことはない。
モンスターは島中に蔓延っている。
ウェンドアから街まではモンスターたちの餌場だ。
一度も遭遇しないなど、到底無理な試験なのだ。
候補生エルミラもその試験を受ける資格がある。
彼女は王族なので、試験を受けなくても実戦試験に合格できるのだが、それを辞退して隊列参加を希望した。
教官たちは迷惑そうだったが、彼女は意思を貫いた。
試験では万が一に備えて、隊列後方から王国陸軍の魔法兵と剣士隊が続く。
彼らは実際に街道を守っている本職の討伐隊だ。
彼らは候補生たちが戦闘になると、少し離れたところで待機していた。
試験の主役は候補生たちだ。
たとえ苦戦しようと、敗北が決定的になったと判断しない限り、手は出さない。
だから救援が間に合わず、不幸な事故が起こることもあった。
そういう危険な試験なのだが、国王陛下はあっさりと許可してしまった。
こうなっては教官たちも試験参加を認めざるを得なくなり、彼女の実戦試験は始まってしまった。
そして試験初日——
夜の街道でさっそく、彼女たちの隊はゴブリンの群れと遭遇した。
ゴブリンは子供程の大きさだが動きは俊敏で、持っている武器には毒が塗られていることもあった。
また夜行性なので奴らの目は暗闇を見通すことができる。
光ひとつない野外の暗がりから、いきなり毒矢を射かけられることも……
昼間はそれほど恐れる相手ではないが、夜間は一気に危険度が増す。
そういう油断できない敵だった。
しかし、なぜかこの島のゴブリンは松明を持っている。
せっかくの利点を自ら潰す行為だが、そうせざるを得ない事情があった。
奴らの餌場が狼の餌場と重なっているのだ。
夜の狼の群れにはゴブリンも敵わない。
闇を照らす灯りとしてではなく、狼を追い払うための護身用だった。
だがそのおかげで、人間のエルミラたちは易々と発見できる。全員茂みに隠れて待ち伏せ、見事ゴブリン退治に成功したのだった。
***
草叢の中、エルミラは試験のときのことを思い出していた。
近付いてくる松明はゴブリンたちのものだ。
松明は二匹につき一本らしいから、おそらく四匹。
何か話しているようだが、警戒の声ではない。
まだこちらには気が付いていないようだ。
試験のときは奇襲をかけて殲滅したが、今回はやり過ごすことにした。
単独行なのだ。
余計な消耗は避けたい。
息を潜めていると、話し声がさっきよりも近付いてきた。
草を少しだけ退かして視界を確保した。
やはり四匹のゴブリンたちだった。
奴らが持っている松明のおかげでよく見える。
奴らは木を組んで檻を取り付けた荷車を押しているようだ。
一匹が荷車を引き、その横で一匹の松明持ちが引くのを手伝いながら話しかけている。
後ろも二匹が同様に押している。
——どこかの村を襲って家畜でも奪ったか?
エルミラはゴブリン隊が何を護送しているのか気になったが、まだ遠くてよくわからなかった。
あの大きさでは牛は運べないだろうから、羊や豚ではないかと推測するが……
彼女が目を凝らす中、荷車が斜め前から目の前へ移動してきた。
おかげで松明に照らされた荷をよく見ることができ、一体何を運んでいるのかがわかった。
——!
運搬しているものが何かわかってしまった彼女は見たことを後悔した。
気の毒ではあるが、家畜だったら見逃したのに、と。
荷は人間だった。
まだ二〇歳にも満たないどこかの村娘だ。
食料として運んでいるのか、それ以外の用途なのか不明だが、とんでもない目に遭わされるのは確実だ。
見殺しにはできない。
だが、どうやって救うか?
敵は四匹。
同時に仕留めなければならない。
一匹でも仕損じれば、仲間を呼ばれる。
エルミラは持ってきた武器を確認した。
魔法剣と短銃、それに水晶銃だ。
短銃はだめだ。
周辺に仲間がいたら、音で気付かれる。
では、静かに魔法剣で一匹一匹順番に……
だめだ……
二匹ずつ並んで話しながら歩いているのだから、一匹目を倒した瞬間に気付かれる。
彼女は水晶銃を選択した。
グリップを握りしめながら考える。
——何の魔法を込めようか?
火や雷は村娘にも被害が及ぶ可能性がある。
毒霧もだめだ。
少し考えて方針が決まると、か細い声で銃に向かって詠唱を始めた。
魔法が水晶銃に装填される。
〈眠りの霧〉という魔法だ。
これなら村娘に当たっても怪我はしない。
ただ、この水晶銃も無音ではないから発射したら気付かれる。
また霧の範囲は狭いので、荷車全体を包むのは無理だ。
そこで——
前方二匹に対しては、もう一度詠唱して眠りの霧をお見舞いする。
終わったら間髪入れず、水晶銃で後方二匹にも霧をぶつける。
こうすればほぼ同時に四匹を仕留めることができる。
村娘は少し眠気に襲われるかもしれないが、我慢してもらおう。
作戦が決まったエルミラは再び静かに詠唱を始めた。
すると、膝の上に置いていた彼女の左掌の中心に、小さな白霧が生まれ、詠唱に合わせて大きくなっていく。
その霧が指の付け根まで膨らんだところで、綿のようにフワッと掴んだ。
奇襲の準備は整った。
荷車は彼女が潜む草叢を、いま通り過ぎようとしている。
エルミラは草叢から左手を翳して前方の二匹に集中する。
狙いをよく定めると、掴んでいた左手を勢いよく開いた。
その途端、握りしめていた綿を放すと元の大きさに戻ろうとするように、白霧も膨張して消えた。
消えた白霧は瞬間移動し、前方二匹の頭部を包むように現れた。
「ギッ!?」
それ以上、言葉を続けることはできない。
猛烈な睡魔の群れが二匹を襲う。
「グガッ……」
ゴブリン語は知らないが、おそらく異変を感じたことを表す言葉なのだろう。
二匹は膝をついてその場に崩れた。
引く者がいなくなった荷車はその場で急停止してしまった。
「ギギャッ?」
何事か、と後ろの松明持ちが前方の様子を見に行く。
押す係のゴブリンはその場で待機し、一緒には行かない。
——しまった! 分散してしまった。
いま、まさに後方二匹に水晶銃を向けようとしていたのだが、間にあわなかった……
作戦を変更しなければならない。
水晶銃の白霧は、いま様子を見に行っている松明持ちに使う。
撃つのは倒れている二匹に辿り着いたとき。
彼女は空になった左手を草叢に戻し、入れ替わりに右手の水晶銃を出した。
狙いを松明持ちの背中に定める。
狙撃ではないのだから頭を狙う必要はない。
僅かでも吸い込ませればよいのだから。
「ギギャ! ゲワハジャ!」
近付きながら倒れている二匹に向かって何か怒鳴っている。
さっぱりわからないが、大体こういうときは「どうしたんだ!」といったところではないだろうか。
返事がない二匹に、辿り着いた松明持ちは蹴りを入れた。
仲間への優しさに欠けるゴブリンらしい蹴りだ。
それでも二匹は起きない。
仲間の状態が尋常ではないことを感じ取り、もっと様子をよく見ようとしゃがみ込んだ。
そのとき——
キィーンッ!
後方で、水晶を金属で叩いたような透き通った音が響いた。
今度は何だ?
と、振り返ったところで松明持ちの意識は消えた。
先の二匹同様、その場に崩れ落ちた。
水晶銃の白霧がその背に命中し、彼の上半身をすべて包んでしまったからだ。
残りは一匹。
エルミラは勢いよく、草叢から飛び出した。
相次ぐ仲間の失神に、残ったゴブリンは何者かの攻撃によるものと確信した。
この周辺で獲物を探している仲間たちに知らせなければならない。
左手を口の横に沿え、息を吸い込む。
そこへ自分より大きな何かが迫ってきた。
人間だ。
こちらに駆け寄りながら剣を抜こうとしている。
避けられそうにない。
諦めたゴブリンは斬られるのも構わずに、吸い込んだ息を一気に吐き出した。
「ゲワアアアァァァッ!」
エルミラが辿り着いて斬り捨てたのは、その直後だった。
ゴブリンが僅かに早かった。
「ちっ」
仲間を呼ばれてしまった……
急いで立ち去らなければならない。
前方で眠っている三匹に止めを刺すと、松明を拾って荷車後部に戻った。
檻は縄で施錠してあるが、もうほどいている暇はない。
松明で焼いた後、マジーアで切断した。
村娘は怯えているが、無事だった。
注意深く放っていたので、白霧は彼女に当たらなかったようだ。
「助けに来た。急いでここを離れよう!」
エルミラは松明を捨てると左手で村娘の手を取り、北に向かって駆けだした。
良くない状況だ。
漆黒の森の中から、さっきの叫び声に応える声がする。
近い……
村娘は両手も縛られているのでほどいてやりたいが、それどころではない。
少しでもこの場から遠くへ逃げるのだ。
二人は一切振り返らずに走る。
もちろん村娘を気遣いながら走っているつもりなのだが、気が焦るエルミラはつい自分の速度で走ってしまう。
だから——
「あっ⁉」
息が上がっていた村娘は足がもつれて転んでしまった。
数歩前を走っていたエルミラは慌てて戻った。
「すまない。私が速すぎた。大丈夫か?」
差し伸べられた手を借りて立ち上がると、村娘は命の恩人が誰なのか気が付いた。
走りながら目が闇に慣れていたので、間近で見ればそれが誰なのか判別できる。
知っている顔だった。
どこかで聞いた声だった。
「……姫様?」
しかしエルミラはそれに答えず、驚く村娘の手を引っ張り、再び走るよう促す。
「話は後だ。奴らが集まってくる!」
「は、はい!」
決して愚鈍ではない村娘は、姫様の指示通り、走ることに集中した。
地面を蹴る音だけが続き、二人の姿は闇に溶けていった。
その頃、荷車のところに、別のゴブリンたちが到着した。
だがすでに仲間は全滅し、積み荷は奪われていた。
「ギワ、ギャワ!」
「ゲガギ」
仲間の死体を見下ろしながら何か話している。
そのときだった。
「ギッ!」
一匹が何かに気が付いて森を指差すと、一斉にその場から立ち去った。
再び無人となった街道。
地に落ちている二本の松明が、荷車と骸となったゴブリンの影を作る。
そこへ新たな影が加わった。
初めは一つ。
さらにもう一つ。
そうやって二つ、三つ、四つと増えていった。
陰たちには足が四本あって、鋭い牙があるようだった。
ゴブリンの影に集まり、しきりにクンクンと匂いを嗅いでいる。
やがて口を大きく開けると一気にゴブリンの影と重なり、街道を赤く染めた。
他のものたちもそれを合図に続く。
影たちの正体はイスルード島在来種の狼。
闇の中で獲物を求めているのはモンスターだけではないのだ。
人間を狩るゴブリンも、敗れれば誰かの獲物になってしまう。
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