第14話「潜入」

 エルミラ艦長の本日の勉強は、空間鏡の頁を読み終えたところで終わりになった。

 まだ続きはあったが、これ以上はしんどい。

 計画書前段もひどい内容だったが、後段はそれ以上だ。


 それに量も多い。

 異なる精霊の組み合わせ例などがずっと続いている。


 ここまでくると軍艦の性能というより、霊式艦という呪物を用いた魔法の一種、一つの系統といってよいだろう。

 もはや説明書というより魔導書グリモアに近い。

 宿屋号の乗員が綴じて本のようにしてくれたので、尚更そんな雰囲気を醸し出している。

 短期間ですべて頭に入れるのは無理だ。


 それでもとりあえず、哨戒網突破に必要になりそうなことは把握した。

 まだウェンドア近海まで日数があるので、続きはそれまでに目を通すことにした。


 いまはリルと食卓を囲んでいる。


「いただきます!」


 今晩の食事は塩漬け肉と豆のスープ、それと固いビスケット……


 エルミラはこのビスケットが苦手だった。

 お菓子のビスケットはおいしいが、船に積む保存食の方はとにかく乾燥しきっていて固い。


 はっきり言ってまずいのだ。

 口の中の水分がすべて吸い取られるので飲み込みにくく、食べ物というより、飲み物と一緒に流し込んで空腹感を誤魔化すものという認識だった。


 だが釣果頼みの地獄の航海に比べれば、いま味わっているボサボサ感もありがたい。


ほえこれはひゃいへ固いね


 リルもこのビスケットを口いっぱい頬張るから苦戦していた。


「これは頬張るものじゃない。少しずつちぎってスープと一緒に食べるんだよ」


 エルミラは苦笑しながらひとさじ、豆のスープを掬ってみせた。

 ……昔、同じ目に遭った先達としての忠告だ。


 今日は波が穏やかだったので、かまどが使用できて良かった。

 おかげで暖かいスープにありつける。

 明日も穏やかだと良いが。

 海の上で火を使えるということは幸福なことなのだ。


 せっかくの幸福なスープが冷めてはもったいない。

 リルに続いて、彼女もスプーンを口に運んだ。


 積み込んだばかりの材料とウンディーネの新鮮な真水で作った豆スープはおいしかった。

 一緒に入れた塩漬け肉の塩分が溶け込んで、程よい塩加減だ。


 女将に出会うまで空っぽだった調理室には、沢山の食器や保存のきく食材、様々な調味料が揃えられている。

 宿屋号からの補給のおかげだ。


 感謝しながら二口目をスプーンで掬おうとしたとき、腰のベルトに付けてある魔法剣マジーアの柄が目に留まった。


 この剣には、女将の覚悟が込められている。

 亡国の王女を支援するということは、退場できた歴史に再び登場するということ。


 スープを啜りながら、エルミラはふと考えた。

 女将は一体、自分のどの辺を気に入ってくれたのだろうか、と。


 この航海を支援してくれるだけでなく、戻ったら時と空間の大魔法使いロレッタ卿自ら、その魔法を教えてくれるという。

 世の魔法使いたちが聞いたら、妬まれそうだ。


 彼女が失踪してから今日まで、弟子を名乗る者が散発的に現れたが、全員売名目的の偽物だった。

 女将は〈卿〉だったことを捨てたくて、他人と距離を取っていたのだから、たとえ才能豊かな魔法使いだったとしても、弟子入りどころか、出会うことも無理だっただろう。

 ずっと、彼女の弟子は存在しなかったのだ。


 一方、自分はどうか?

 王家からは、所詮、平民の血だから。

 平民からは、王家の血を引いているだけの能無し。

 そう言われたくなくて、努力は怠らなかった。


 では、才能はあるのかと尋ねられると、情けないが剣術主体の魔法剣士の魔力など、たかが知れている。

 息苦しい王宮から出たくて海を目指したのだが、魔法研究所に入るほどの魔力がなかったというのもある。

 だから才能については、どうしても口ごもってしまう。


 宿屋号が世界を巡り始めてから長い年月が経っている。

 その間、女将の下には世界中の情報が集まるのだから、天才や努力家の噂も耳にしていたはず。

 そんな彼らであっても、彼女の弟子になることはできなかった。

 だとすると、彼女が求めているのは才能でも努力でもないということだ。


 あと、考えられることは人柄……か?


「頭痛いの? エルミラ」


 スープとちぎったビスケットを交互に頬張っていたリルは、心配そうにスプーンを止めた。

 目の前の艦長は食べかけのスプーンをスープに浸し、左手で額を押さえていた。


 エルミラは何気なくした自分の仕草が、少女に余計な心配をかけたのだと悟り、左手を下した。


「いや、大丈夫だ。ちょっと自分で考えたことが恥ずかしかっただけだから」

「恥ずかしいこと?」


 それだけでは意味がわからない。

 少女は首を傾げたが、その恥ずかしい考えを話すことはできない。

 弟子の条件が人柄で、自分はその人柄が良かったから認められたのだ、などと。


 ——人柄……は違うな。絶対に……


 エルミラは心の中で呟いた。


 この艦の計画書を冷静に読み終えることなく、途中で「胸糞悪いっ!」と激昂して乱暴に投げ捨てた。

 あまつさえ、巻き散らした書類を師匠に拾い集めさせた。

 まるで、あばずれではないか。

 だから弟子の条件は人柄の良さではないだろう。


 ——私にわかるわけがないか。


 彼女は自分の何が女将に気に入られたのか、納得のいく理由を見つけたかったが、やめにした。

 齢数百を数える大魔女の判断基準など、凡人に理解できるはずがないのだ。


 それよりもいまは優先すべきことがある。

 哨戒網突破だ。

 考え事をするなら、そのことについてするべきだった。


 エルミラは食事に専念した。



 ***



 セルーリアス海東部に入ってから数日が経過した。

 夜、ファンタズマ号はついにイスルード島近海に到達した。

 まだ島は見えないが、夜明け頃にはくっきりと見えてくるはずだ。


 懐かしき海。

 しかし、その海を行く甲板は緊迫した空気に包まれている。

 リルは神妙な面持ちで舵輪を掴み、前に立っている艦長の指示にいつでも対応できるよう備えていた。

 その艦長、エルミラは第一デッキから甲板に上げた空間鏡を睨む。


 島はいまでも彼女の故郷だ。

 しかし祖国ではない。


 現在、島を治めているのはイスルード州政府。

 島の近海は帝国の領海だ。

 許可なく立ち入る艦船は領海侵犯とみなされる。

 彼女たちにとって、ここは敵陣だ。


 すでに州政府には、帝都から人質脱走の報が届いていた。


 脱走艦は帝都方向からやってくる。

 そう予測する沿岸警備隊は、島の西側、ウェンドア沖に厚い哨戒網を張っていた。


 彼らの迎撃態勢は万全だ。

 そんなところへ白昼堂々押し入ったら大騒ぎになる。

 一度停船し、夜を待ってから潜入を開始した。


 離れたところで警備艦が通り過ぎるのを待って、見えなくなってから帆を張って進む。

 そんな作業を繰り返しながら、さっき一番外側の哨戒線を突破した。

 突破したときはリルが少しはしゃいだが、エルミラがまったく浮かれないのですぐに静まった。


 潜入作戦は始まったばかり。

 一度でも見つかれば、突破した哨戒線の艦も帰ってくる。

 浮かれている場合ではない。


 頼れるのは空間鏡と元海軍魔法兵だったエルミラの経験だけ。

 だから彼女はずっと球体を眺めたままの状態で、指示を出している。


 いまも球体の端から小型艦が現れて、ファンタズマの模型に向かっている。

 見るとその艦からは、半球状の光が放たれている。


 計画書グリモアによれば、その光は敵探知魔法の範囲を示しているのだという。

 その半球光にファンタズマの模型が触れたとき、本艦は敵に探知される。


 つまり前方から来る警備艦には探知の呪物が搭載されているか、魔法兵が乗船しているということだ。


「面舵っ!」


 漆黒の甲板上、空間鏡の淡い光を頼りに、リルへ操舵指示が飛ぶ。

 指示を受けたファンタズマはカラカラと回る舵輪に合わせて、その方向へ舳先を向けた。

 甲板が緩やかに右へ傾く。


 艦長は右足で踏ん張りながら敵半球を睨む。

 やがて自艦の模型が想定した針路に乗ったところで——


「舵戻せっ!」


 まもなく足にかかる負荷が消えた。

 艦は水平に戻り、逆風を縦帆一杯に含んで闇の中を進む。

 これでどちらかが舵を切ろうなどと思わなければ、交差することはない。


 しかし、弱い光とはいえ、真っ暗な海では目立つもの。

 空間鏡の淡い光が敵見張り員に見つからないだろうか?


 もっともな話だが、その心配はない。

 なぜならその光はエルミラにしか見えないのだから。


 もしここに第三者がいたら、彼女を気味悪がるかもしれない。

 台座に両手をついて真っ暗な水晶球と向き合っているのだから。


 彼女が何をしているのか知りたければ、その第三者も台座に触れてみると良い。

 触れた途端、彼女が見ているのと同じ光を見ることができる。


 空間鏡は呪物。

 触れている者の目にだけ周囲の様子を明るく示してくれる。

 これなら敵に見つかることはない。


 海の魔法使いたちは初代団長の理念から大きく外れていってしまったが、一つだけは引き継がれているようだった。

 即ち、魔法を使う場所が〈海〉だということを忘れることなかれ。

 ゆえに、デシリア型空間鏡は夜の海戦や夜間隠密航行を想定し、光が漏れない工夫が施されていた。

 まさに海の上で使うための呪物だ。


 エルミラが注視する中、何も探知にかからない敵警備艦がファンタズマの模型の左側を通り過ぎる。

 実物の警備艦は現在、ファンタズマ左舷方向の遙か彼方を航行している。

 水平線のさらに向こうなので、昼間だったとしても互いにその艦影を視認することはできない。


 水平線のことだけなら、ここまで離れる必要はない。

 問題は敵探知魔法だ。

 元々、敵見張り員の目視より先に発見するための探知魔法だ。

 その半球が及ぶ範囲は広かった。

 それを大回りして避ける航路を取らなければならない。


 兵団長のときには何とも思っていなかったが、敵に回すとこんなに厄介な連中だったとは……

 エルミラは改めて師匠ロレッタの偉大さを思い知るのだった。


 こちらが半球に少しでもかすれば、彼らはすぐに探知するだろう。

 いや、かすらなくても何か違和感を感じたら、確認しに戻ってくる。


 何もないから余計なことは気にせず、黙って通り過ぎてくれ……

 そんな思いで、小さな模型を睨み続けた。


 緊張の中、彼女は祈り続ける。

 そして——

 敵艦は真っ直ぐ空間鏡の反対端まで進み、消え去った。


「フゥ……」


 空間鏡に敵影なし。

 エルミラの口から安堵の息が漏れた。

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