第15話「帝都の怪談」

 エルミラたちの神経が磨り減るような操船は、ようやく後半戦に突入した。


 空間鏡の中に敵艦が現れれば、その針路を見定めてから大急ぎで帆を絞ったり、閉じたり……

 終わるとすぐに空間鏡へ戻り、やり過ごすとまた帆を開きに走る。

 ずっとその繰り返しが続いていた。


 リルに舵を任せて一人で甲板を走り回りながら、エルミラはふと思った。

 いくらなんでも厳重すぎないか、と。


 脱走のことは帝都の魔法使いによって、州政府に伝わっていることだろう。

 だから昼間の哨戒網が厳重なのは予測していた。


 しかし夜になっても警戒態勢が変わらないというのは異常だった。


 決して駐留帝国海軍を甘く見ていたわけではない。

 ただ、自艦の甲板すら見通せない暗闇の中では、見張り員が水平線上の敵艦を見つけるのは無理だ。

 下手をすれば警備艦同士で互いが見えないまま、衝突事故を起こす可能性だってある。

 それを避けるために、暗くなったら引き上げるのが通常だった。


 ちなみに、帝都沖のガレーたちと夜戦になったのは特殊な事例だ。

 一日の哨戒任務を終え、引き上げ中に起きた緊急事態だったこと。

 その日は空気が澄んでいて、月明かりがとても明るく、脱走艦のシルエットを捉えることが可能だったこと。

 これら二つの条件が重なったことで発生した夜戦だった。


 今日はどの条件にも合致していない。

 それにも関わらず、昼間と変わらない警戒態勢。

 エルミラは首を傾げていた。


 だが、良くわかっているようで、意外にわかっていないのが自分自身というもの。

 彼女にとっては不可解だったかもしれないが、帝国側にとっては至極当然な態勢だった。


 何が帝国にそこまでさせるのかを知るため、少し時間を遡る。



 ***



 ファンタズマ号が脱走した後、帝都に箝口令が出た。

 その命令はある噂を禁止するもの。

 いや、噂というより怪談といったほうが正確かもしれない。


 怪談などというものは、市民の間で定期的に流行る戯言。

 普段なら取り合わない。

 だが、その怪談の出所は市民ではなく、城壁の砲兵隊と沿岸警備隊の兵士たちだった。


 兵士たちは語る。

 月の明るい日、東の海を見ていると幽霊船が出る、と……


 非番の日に酒場など、人が集まるところで話すから民衆に広まってしまったのだ。


 これを放置すれば士気に関わる。

 事態を重くみた軍が動き、発令された箝口令だった。


 その怪談とは……


 いくら城壁から砲弾を撃ち込んでも、何の手応えもない。

 沿岸警備隊のガレー船が追撃したら、氷山に衝突させられて沈没した。

 しかも救助後、その氷山は見つからなかったし、そもそも氷山ができるような冷たい海ではない……


 人々は祟りだと噂した。


 箝口令が功を奏して騒ぎは収まったものの、いまでもヒソヒソと帝都内に蔓延している。

 帝国はファンタズマ号を脱走艦と公称するが、市民たちは違う。

 役人たちがどんなに取締りを強化しようと、人の口に戸は立てられない。

 市民と兵士たちは陰でこう呼んでいた。

「幽霊船」と。


 帝国、特に海軍はこれを看過するわけにはいかない。

 現に、一隻沈められているのだから。

 こうなっては、幽霊の化けの皮を剥がしてくるしかない。


 幽霊は夜に出るもの。

 ゆえに夜になっても、接収した魔法艦を出して網を張っているのだった。


 なんとしても件の幽霊船を撃沈して、その残骸を帝都まで曳航する。

 水から引き上げて大広場に晒し、市民たちの目を覚ましてやるのだ。

 幽霊などいない、と。



 ***



 帝国側の事情など知らないエルミラは、空間鏡との睨み合いを続けていた。

 進めば進むほど哨戒網は厚くなっていく。


 さっきまで点在しているだけだった光の半球は、いまや空間鏡のあちこちに示されている。

 こうなってしまったら、余裕をもって回避することはできない。

 大きく避けすぎると、避けた先にいる探知円に触れてしまう。

 半球と半球の僅かな隙間を縫うような際どい操船が続いていた。


 しんどい作業だが、それだけ島に近付いたということ。

 あと少し頑張れば、その最も厳重な地点を抜けられる。

 代わりに、海上よりもっと大きな探知円が岸から伸びてくるのだが……


 その大きな半球に少しでも触れたら、ウェンドア城壁に設置されている魔力砲が一斉に火を吹く。

 いや、撃ってくるものが火とは限らない。

 装填されるものは雷や氷、あるいは毒の霧かもしれないのだ。


 先年の小竜隊には後れを取ったが、揺れや半減を気にする必要がない陸上の魔力砲台は、艦船にとってはいまでも恐ろしい相手だ。


 ウェンドアに近付くのは無理だった。

 それに陸の砲台に撃たれている間に、警備艦が戻ってきて挟撃されてしまう。


 問題はさらにある。

 砲台の射程圏に到達する頃、島は夜明けを迎える。


 夜は闇の力が強く働き、隠して見えないようにするが、昼は光の力が強く働くので、明らかにして見えるようにする。

 視力が戻った見張り員たちは皆、目にすることになるだろう。

 沿岸に浮かぶファンタズマ号の姿を。


 ——遮光しかない。


 遮光航行で哨戒網と陸の探知円の隙間を通り、いったんウェンドアから南下する。

 沿岸を進んで城壁の探知円が途切れた辺り、そこに小島が点在している。

 ゴツゴツとした大きな岩が海から突き出たような小島なので人はいない。

 そこにファンタズマを隠す。


 考えがまとまったエルミラは空間鏡の表示範囲を広げた。

 この呪物はかなり遠くまで表示させることができる。

 そろそろウェンドアからの探知円が見えてくる頃だった。


 彼女はこの潜入で、すっかり空間鏡の扱いに慣れることができた。

 全体を俯瞰したり、半球間を抜けるときには表示範囲を狭めて精密に表示させたり。

 それで気付くことができたのだった。

 さっきやり過ごした警備艦が戻ってきているのを……


「なぜ? どうして⁉」


 ここまで冷静な艦長として振舞う努力を続けてきたが、思わず零れ出た。

 項の毛が逆立つのを感じる。


 ここまで慎重にやってきたのに、なぜバレたのか?

 どこでミスを犯したのか?

 混乱する彼女の頭の中に、次から次へと嫌な考えが浮かび上がってくる。


 ——落ち着け、落ち着け、落ち着け……


 これは彼女の心の声ではない。

 自分では心の中で呟いているつもりだろうが、小声となって漏れていた。


 まずは落ち着いて状況を整理する。

 彼らの任務は哨戒だから、ただ同じコースを通っていればよいわけではない。

 きまぐれに針路を変えるときだってあるだろう。

 まだ発見されたと決まったわけではない。


 空間鏡を操作し、戻ってきている警備艦を大きく表示させた。

 よく見るべきはその探知円の大きさと形状だ。

 もし何か不審に思うことがあって戻ってきたのなら、通常時よりその円が大きくなる。

 ウェンドア近海に入ってから、警備艦たちの半球が変化する様を何度も見た。


 探知円は気になった箇所をより詳しく調べるとき、半球状ではなく扇状になる。

 その扇は徐々に狭まり、その分だけ光が濃くなるのだ。


 かつて彼女も王家の子供らしく、探知魔法の仕組みについて一通り勉強したが、空間鏡の表示方法はこれと合致している。


 戻ってきている警備艦の探知円は——

 何も変化がなかった。


「……バレたわけではないのか?」


 首を傾げながらも、楽観的な結論に結び付けようと傾きかける。

 しかしそれは早計というもの。

 もっと接近してから精密にやるつもりなのかもしれない。


 何をしに戻ってきたのか?

 その意図がわからない。


 不気味ではあったが増速してこないということは、こちらの位置を特定して追いかけてきているわけではないようだ。

 互いの航速は同じ位。

 ならばそのまま距離を保ち続ければよい。


 直ちに対応する必要はないと安心し、エルミラは再び広域表示に戻した。

 そのときだった。


「取舵いっぱーいっ!」


 肩越しにリルへ緊急転舵を指示すると、彼女自身はマストへ全力疾走。

 板を踏みぬくような乱暴な音が急速に遠ざかる。


 落ち着きかけていた彼女は一体何を見たのか?

 空間鏡の中央には変わらず、ファンタズマ号の模型が浮かんでいる。

 その後方には戻ってきた敵魔法艦。

 だが、彼女を慌てさせたものはこれではない。


 本艦前方、北から南下していた哨戒艦隊の一つが通り過ぎずに停船してしまったからだ。


 幸い、転舵指示が早かったおかげで衝突は免れそうだ。

 けれどもこのまま進むと艦隊に近付きすぎる。

 それほど近いと、いくら暗闇といえども夜目の利く者なら薄っすらと、本艦の輪郭が見えてしまうかもしれない。


 前方には艦隊の壁、後方からは魔法艦。

 追い込まれてしまった。


 ……遮光しかない。


 ついにエルミラは決断した。

 巻貝を取り出す。


「リル、舵戻せ」


 少女はファンタズマと一体化しているから、空間鏡を覗き込まなくても同じものが見えている。

 状況を理解しているので大声を出さず、巻貝に小さく「よーそろー」と返してきた。


 まもなく左足に掛かる負荷が緩んでいく。

 同時に大急ぎで帆を畳む。

 敵艦隊が停船した理由は不明だが、こちらも停船しなければならない。

 でないと、遮光しても白波や波を切る音で発見されてしまう。


 停船位置は敵舷側砲の真正面……

 もし見つかったら、狙わなくても確実に当たる位置だ。

 緊張をゴクリと飲み込み、エルミラは再び巻貝を手に取った。


「遮光!」


 艦長の小さな号令が少女に届く。

 直後、巻貝に返ってくる小さな「よーそろー」の声。


 空間鏡はその間も現状を示し続けていた。

 直進していたので急に左折しても、惰性によって左前へ進もうとしてしまう。

 そんな中央の模型に、艦隊から伸びる探知円が迫っていた。

 後ろからは敵魔法艦からの探知円。


 このままでは二つの円に模型が押しつぶされてしまう!

 まさにその寸前、中央の模型は忽然と消えた……


 挟むものがなくなった二つの円は、何もなかったように重なっていき、やがてその速度を落としながら止まった。

 後方魔法艦は不審艦を発見したのではなく、艦隊に用があって合流しに来たのだった。

 両者は衝突しない安全な距離で停船した。


 ファンタズマ号の遮光は成功。

 見張り員の目だけでなく、魔法兵の目からも消えた。


 危ないところだった……

 空間鏡に戻ったエルミラと舵輪を握りしめているリル。

 それぞれの巻貝から安堵の息が漏れ聞こえてきた。


 夜明けまであと少し。

 イスルード島までは、まだもう少し。

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