第4話「伝説の始まり」

 エルミラが考え込んでいる間にボートは双胴船に辿り着いた。

 甲板から数本のロープが投げ下ろされ、三人で受け取った。

 縄梯子ではなかった。

 ロープの先端に金具が付いている。


「私たちごとボートを引き上げるから、手伝ってくれる?」


 見ればボートの縁に金属で補強された穴があり、その数とロープの本数が一致している。

 作業は特段難しいものでもなかったので、三人は手分けして金具をかけていった。


 最後にロレッタ自ら金具がきちんと掛かっていることを確認し、甲板に手を振る。

 それを上から見ていた船員が後方に大声を掛けると、ボートが水から引き上げられていく。

 さすが大きいだけあって、設備はファンタズマより充実しているようだ。


 引き上げられたボートは甲板に設置されていた船台の上にそっと下された。


「私の宿屋へようこそ」


 最初にロレッタが下り、二人にも下りるよう促した。


 まずはリルから。

 女将らしく小さな客人が下りやすいように手を取った。


 ——?


 後ろからその様子を見守っていたエルミラは、女将がリルの手に触れた一瞬の変化を見逃さなかった。


 言葉に表すならば、それは違和感。

 ほんの一瞬、女将の表情に違和感が浮かんでいた。

 リルが普通ではないことに気が付いたようだった。

 それを感知できるということは、やはり……


 ロレッタの宿屋号甲板——

 そこには陸の宿屋一階にある食堂や酒場の光景が広がっていた。

 広い甲板一杯にテーブルと椅子が並べられ、給仕と思われる男女数人が働いていた。


 心配は杞憂だったようだ。

 海賊の嘘と疑い、海上宿屋など端から信じていなかったのだが、まさかこんなものが本当に実在しているとは。


 三人は給仕の一人に先導され、すでに一つだけ三人分の食器が並べられている席に案内された。

 朝食を持て成すというのも本当だったようだ。


 席に着くと別の給仕が、三人分の新鮮な牛乳が注がれたグラスを運んできた。

 それを見た瞬間、二人は猛烈な喉の渇きを思い出した。

 昨日の夕方からずっと続いていた極限の緊張状態が、体の苦しみや欲求を忘れさせていたのだった。


 一気に飲み干し、グラスを置いたのは二人同時だった。

 その様子が面白かった女将は笑いながらおかわりを勧めた。


「沢山あるから遠慮しないでね。えっと……」

「わたし、リルです」

「リルちゃんね。わたしはさっき名乗ってしまったけれど、改めてロレッタよ。女将さんと呼んでちょうだい」

「はい、女将さん」


 女将はエルミラにも微笑みを向けて、おかわりを勧めてきた。


「あなたも遠慮しないでね。団長さん」

「ありがとう。ロレッタ卿」


 …………


 テーブルから和やかさが消えた。

 リルも不穏な空気を感じ取り、二人を交互に様子見る。


「やっぱりロレッタ卿本人だったか」

「ただのロレッタ。もしくは女将と呼んでちょうだい。じゃないと、私も殿下とお呼びするわよ?」

「やめてくれ。それと団長もやめてくれ」

「なら、お互いに嫌な呼び方はやめましょう。私はただのロレッタ。あなたはただのエルミラ」

「わかった。ただ——」


 ただ、〈卿〉が嫌とは不思議なことを言う。

 一介の魔法剣士が手柄を立てたことで認められた称号。

 普通なら誇らしく思うところを、この魔女は嫌だと……

 それに……


「なぜだ?」

「そう呼ばれると、リーベルのことを思い出してしまうから」


 何か事情があって王国を離れなければならなかったのか?


「何があって国を離れたのか知らないが、懐かしく思うなら帰ってくれば良かったじゃないか」


 いまでも英雄として語り継がれているのだ。

 帰ってくれば歓迎されるだろう。

 だが女将は寂しい苦笑いを返すだけ。


「ロレッタ卿……いまだにそんな呼ばれ方しているのね……」


 そう呟くと俯いてしまった。


 意外だった

 この魔女は明らかに傷ついている。

 それもおそらくは自身の功績によって。


 歴史の教科書というものは、良くも悪くも事実とされていることだけを要約してある。

 なぜ彼女はそうしようと思ったのか、それが彼女に何を齎したのか、余計なことは記されない。


 でもエルミラはその余計なことが知りたかった。


 彼女はリーベルを去り、その一切と関わりたくないようだ。

 その彼女の口から団長と殿下という言葉が出てきたのだから、こちらの素性を知っている。

 知っていながら、助けてくれようとしている。


「一体、何があったんだ? リーベルを嫌っているようだが、私を王族と知りながら、なぜ助けようとする?」


 ロレッタは目を丸くして意外そうに驚いた。


「別に嫌っているわけじゃないわ。ただ——」

「お待たせしました!」


 女将の話に若い女性の声が割り込んできた。

 給仕の女性だ。

 三人分の朝食ができたので運んできたのだった。


 新鮮な野菜と果物、目玉焼き、軽く炙った薄切り肉、焼き立てのパン——

 リルの目が輝く。

 その笑顔を見て、女将の表情も綻んだ。


「難しい話は食べ終わってからにしましょう。さあ召し上がれ」

「いただきます!」


 子供らしい元気な挨拶をすると、リルはエルミラを待たずに食べ始めた。


おいひーひょおいしいよエフヒヒャほエルミラもはひゃふはへひゃひょ早く食べなよ

「誰がエフヒヒャだ」

「え? いまのわかったの?」


 女将は驚いた。

 リスのように口いっぱい頬張っているから、エルミラ以外にはわからなかった。


「いただきます。女将さん」


 過去がどうあれ、現在のロレッタ卿がここの女将であることは確か。

 王国に対して何かあるようだが、個人に危害を加える気はないようだ。

 すべてを話してもらったわけではないが、その点は信じられた。


 リルに続いて、女将の朝食をありがたく頂くことにした。

 食事は昨日の昼食以来。

 エルミラも口いっぱいに焼き立てのパンを頬張るのだった。



 ***



「ごちそうさまでした」

「お口に合ったようで良かったわ」


 お礼を述べたのはエルミラだけだった。

 リルはいま話せる状態ではない。

 食欲に命じられるまま食べた結果、向こうでひっくり返っている。


 行儀が悪いと注意すべきところだが、いまは好都合だった。

 落ち着いて女将、いや、ロレッタ卿の話を聞くことができる。

 なぜ王族と知りつつ助けてくれるのか?

 リーベルを去り、いまも生き続けている理由は?

 いろいろ聞きたいことがある。


 給仕がテーブルの食器を下げ、二人分のお茶を置いて下がった。

 女将は一口つけると話を再開した。


「えっと……」

「リーベルを嫌っているわけではない、というところからだ」

「そうそう、そこからだったわね。ありがとう」

「なぜ助けてくれたのか、理由を教えてほしい。偶然通りかかったというのは無理がある」

「あら、本当に通りすがりかもしれないじゃない?」


 エルミラはなぜ無理なのかを説明した。


 岩礁海域の先で積み荷の値が高騰すると聞いたら、通ってみようと思うのが商人だ。

 交易船なら、そういうことがあるかもしれない。


 だがこの船は客船だ。

 無理をしてまで、岩礁海域を通る理由がない。

 しかも危険を冒してまで辿り着いた群島海域は観光地だ。

 宿屋などいくらでもある。

 稼ぎのために南方に向かっている途中で、というのは無理があるのだ。


「噂通りの聡明な人。不自由な王族に生まれてこなければ大活躍していたかもしれない」

「話してくれないか。私たちのことを知った上で助けに来てくれたのだろう? それはなぜだ?」


 とぼけるのは無理と悟ったか、ロレッタは大きくため息を一つ吐くと向こうで倒れているリルを見た。

 釣られてエルミラもそちらに視線を移すと、ひっくり返ったまま「もう何も食べられない」と呻いていた。


「あの子、いろいろと不思議なことがあったんじゃないかしら?」


 視線をリルに向けたまま今度は女将からエルミラに質問した。

 こちらもとぼけるのは無理だった。

 さっき直に触れて確認されている。


「ああ、少し変わった子だ。でも悪い子ではない」

「……そうね」


 助けてくれた理由にリルが関係しているのか?

 それともただ話を逸らそうとしているだけなのか?

 女将は横顔を向けたまま。

 その横顔からは何も読み取れない。


「ねえ、あなたたちの船を見せてくれないかしら?」


 こちらに向き直った女将からの急な申し出。

 エルミラは面食らってしまった。


「待ってくれ。まだ何も答えてもらってないぞ」

「ボートで移動しながら話すわ。安心して。あなたに隠し事をするつもりはないから」


 どうしようかと迷う。

 悪人ではないように思う。

 だが現時点で、女将のすべてを信じているわけではなかった。

 まだ助けてくれた理由を話してもらっていない。

 目的がわからない者を船に乗せるのには抵抗があった。


 そんな逡巡を感じ取ったのか、食べ過ぎで苦しんでいるリルを振り返りながら女将は呟いた。


「……ただ、できればあの子には聞かせたくないわね……」


 お人好しと言われるかもしれないが、リルのことを持ち出して寂しげに呟かれたら応じないわけにはいかなかった。


 それにもう手錠は外されているので、もし何か仕掛けてきたら魔法で障壁を張って抵抗できる。

 相手は大魔法使いだ。

 こちらの薄い障壁などいとも簡単に破るだろうが、次の魔法が来る前に体術で撃退する。


 二人はリルに休んでいるように伝え、再びボートごと海面に下り、ファンタズマを目指すことにした。


「今度は私が漕ごう」

「あら、それじゃお願いしようかしら」


 漕ぎかけた手をやめ、差し出されたエルミラの手に櫂を渡す。ボートは力強く波の上を走りだした。


「さすがに若い人は速いわね」


 若々しい老人から褒められても心の中で首を傾げてしまう。

 思わず忌憚のない意見を言いかけたが、なんとか堪えて黙々と漕ぎ続ける。


 やがて宿屋号全体が視界に収まるくらい離れた頃、ようやくロレッタがさっきの続きを語り始めた。


「私は勲章になるような英雄じゃない。むしろ逆——」


 彼女自身の口から語られた英雄ロレッタ卿の物語。

 それは栄光とは程遠い、後悔の物語だった……



 ***



 魔法剣士と一口に言っても様々なタイプの者がおり、一般的にはエルミラのようなタイプが多い。

 剣術主体で魔法を補助として用いる者たちだ。


 ロレッタはその逆。

 魔法主体だが、自ら剣を取って護身もできる。

 魔法剣士というよりは、戦士の護衛を必要としない魔法使いというのが正しいタイプ。


 リーベルに来る前の魔法剣士ロレッタは一介の冒険者だった。

 彼女が得意としたのは時と空間を操る魔法。

 世にも稀なその魔法を武器に世界各地を巡り、迷宮探索やモンスター討伐、時には傭兵として戦に参加し、名声を高めていった。


 やがてその珍しい魔法の噂が魔法王国に伝わり、宮廷魔法使いとして召し抱えられた。


 彼女が宮廷魔法使いとして仕えることになったリーベル王国はイスルード島という大きな島にある。

 大陸にあるものほど高くはないが、島中央には山があり、そこから川が流れて海に注ぎ、その流域には平野があった。


 そのような大きな島には人間だけでなく、モンスターも生息しており、島民の生存を脅かす。

 人々は内陸から沿岸に移り住んだが、それを追うように沿岸に現れるモンスターたちも徐々に増加した。


 拠点間を往来する旅人や馬車は危険と隣り合わせ。

 護衛が必要だったが、雇えるのは一部の豪商たちのみ。

 弱小の商人たちは大した抵抗もできずに全滅していった。

 そうなれば、豪商たちが運んでくる物資だけが頼り。

 物価は上昇し、市民は困窮していった。


 ロレッタはそんな状況のリーベルにやってきたのだった。


 宮廷にやってきてすぐに彼女は思った。

 他国同様、モンスター討伐隊が足りないなら増員すればよいのに、と。


 だが、事はそう簡単ではなかった。

 街道が通っているその土地は貴族の領地であり、討伐隊の兵員と経費は領主の自己負担だったからだ。


 領地内のことは領主に全責任があると原則論に拘る王都側。

 恩恵を受ける王都が経費を負担すべきだという地方側。


 何度も議論の場が設けられたが、決して交わることのない平行線。

 最後は強引に、街道を万全に保つ義務は領主にあると定められたが、街道の領地は次々と手放され、かえって街道を危険に晒すことになってしまった。


「もう何もかもが限界を迎えていたわ。国も人間も……」


 その辺の歴史はエルミラも教科書で習っていたが、まさにその時代を生きていた者が語る生の歴史。

 文字の羅列からは伝わってこない臨場感がある。


「だから私は提案したの。街道が危険なら海路はどうか、と。」


 ロレッタは他国の交易船に乗ってリーベルにやってきた。

 他の者たちのように島内を馬車で輸送することに拘っていなかった。


 豪商たちの反対に遭ったが、王命により彼女の案は実行に移された。


 不当に得た財で役人を買収し、不正と理不尽の数々を働く悪徳商人たち。

 陸路を行くしかないと思っていたので、彼らの横暴に目を瞑ってきたが、皆うんざりしていた。


 こうして始まった海上輸送案は不足していた物資を島の隅々にまで届け、物価は適正に戻っていった。

 最初は簡素な船で隣の港まで物資を運ぶだけだったが、徐々に造船技術が発達していくに連れて、人々はより速く、より大量に、と望むようになっていった。


 そうなると次に願うものは、より遠くへ——

 外洋への進出だ。

 いまに続く海洋王国への転換はこうして始まったのだった。


「すごいじゃないか」


 ボートを漕ぎながらエルミラは素直に称賛した。

 子供の頃から伝え聞きながら育った英雄譚。

 思いがけず、本人から聞ける日がやってきたことに感動しながら耳を傾けていた。


 それでも語る彼女の表情は暗い。

 まるで過去の罪を告白しているような……


「ええ、そうね。リーベルの人たちはすごかったと思う」


 ——いや、あんたのことをすごいと言ったんだが……


 心の中で突っ込んだが、口には出さなかった。

 英雄の告白は続いた。



 ***



 リーベル人はセルーリアス海にポツンと浮かぶイスルード島で、力を合わせて素朴に暮らしていた。

 ロレッタは彼らを貧困から救い、元の素朴な暮らしを取り戻してあげたかったのだ。


 しかし繁栄への道を見つけたリーベル人たちは素朴な暮らしになど帰らない。

 次々と新造船を海に浮かべ、外の世界へと帆を張っていった。


 彼女は船乗りではないが、船客として乗船したことは何度もあったので、危険な海域があることを知っていた。

 外へ出ていくことを止められないなら、せめてそこには近づかないようにと、彼らの海図に印を付けて送り出した。


 彼女の心配を他所に、危険海域を事前に知ることができたリーベルの交易船団は毎回莫大な富を持ち帰った。

 その富を利用して、さらに交易船団を増やしていく——

 もう貧しかったリーベルはどこにもない。


 人々の生活は豊かになり、若者たちは海を目指した。

 だが、皆が希望に目を輝かせている中、ロレッタだけは表情を曇らせていた。

 彼女の思惑通りにならなかったことが不満だ、というわけではない。

 むしろ皆に笑顔が戻ったことは嬉しかった。


 曇りの理由、それは彼女の中で日々膨らんでいったある懸念。

 やがてその懸念は現実となる。


 事件は起きてしまった。

 交易船団は少しずつその行動範囲を広げていったのだが、ある日、その一つが旗艦を残して壊滅した……


 ロレッタの情報を信じ、危険海域を避けながら外洋を航行していたときだった。

 大型の水棲モンスター、〈島蛸しまだこ〉に襲われたのだという。

 島蛸は大頭足クラーケンの一種。

 島と勘違いして上陸した船乗りが食われた、という逸話がある巨大モンスターだ。


 これはロレッタが間違えたのではない。

 相手も生きているのだ。

 餌となる人間が一向に現れなければ、待ち伏せる場所を変えてくる。


 船団には巡洋艦が護衛に付いていたが、当時はまだ魔法艦登場前の通常艦。

 水中を静かに忍び寄る島蛸を探知する術も撃退する手段もなかった。


 いきなり至近距離に現れた敵に艦尾から組み付かれ、一発の砲弾を撃つこともできないまま、艦も人間もまとめて貪り食われていった。


 丸腰の交易船たちにできることはなく、

「我ニ構ワズ、離脱セヨ」

 という巡洋艦からの信号に従う他なかった。

 船団はモンスターが巡洋艦を食っている間に風下へ転針した。


 だが、ずっと空腹だったモンスターの食欲は巡洋艦一隻位で満たされるものではない。

 一隻目を平らげると二隻目に取り掛かろうと追いかけてきた。

 少しでも速度を上げようと積み荷を捨てていったが、捨て終わるより早く追い付き、最後尾の船も食われた。

 完食したら三隻目へ。

 大海原は地獄と化した。


 ようやく満腹になってモンスターが離れ、地獄から解放されたとき、船団は半数になっていた。

 リーベルへ退却しようという案が出たが、積み荷だけでなく、水・食料もかなり捨ててしまったので補給が必要だった。

 それに道程の半ばを越え、寄港先の方が近かったし、ここから母港を目指すにはさっきの海域に戻らなければならない……


 話し合いの結果、航海を続けることになった。

 ほとんどの積み荷は投棄してしまったのだが、小さく高価なリーベルの呪物が船倉に残っていた。

 まだ今回の交易を失敗と結論付けるときではない、という判断もあった。


 意気揚々と出航した船団はいつ襲われるかと怯え、近くを鯨が通っただけでパニックに陥った。

 そんな不安な航海を数日続けると、遠くに薄っすらと船が見えた。


 それほど大きな船ではなかった。

 おそらくは沿岸用の船。


 ——きっと目的地から出航した船に違いない。


 陸が近いことを示唆している、と船員たちの目に希望の光が戻ってきた。


 彼らが判断したことは正しかった。

 その船は外洋には出ていかない沿岸航行用の高速船。

 察しの通り、船団の目的地から出航してきた。

 陸が見えてくるのはもうすぐだった。


 だが、彼らの判断は甘かった。

 外洋に出ていかないのではなく、近海までで十分だったのだ。

 はるばるモンスターの海を越えて、獲物自らがここまで積み荷を運んできてくれるのだから。


 彼らは海賊。

 近頃、羽振りが良いと評判のリーベルの交易船を探し求めていた。

 そして今日偶然にもお目当てと遭遇できたのだ。

 狙いはリーベル製の呪物。

 一隻分の呪物を捌いただけでも一年は軽く贅沢できる。


 護衛が付いていない丸腰の交易船団は格好の餌食。

 命からがらモンスターから逃げてきた船団に、今度は海賊が襲い掛かった。

 元々戦闘力を持たない交易船に海賊を撃退する術はなく、捕まった一隻を見捨てて外洋に戻るしかなかった。


 こうして船団は補給を受けることもできないまま外洋に戻ることになってしまった。

 さすがに海賊たちも外洋までは追いかけてこなかったので、とりあえず全滅の危機は脱したのだった。


 失意の帰還……

 そんな彼らへ悲劇は更に襲い掛かった。


 リーベルへの帰路一日目から、ポツポツと死者が出始めた。

 モンスター襲撃時に重傷を負った者たちだ。

 すぐに陸の病院で手当てが必要だった。

 それが逆戻り……

 絶望した者から順に落ちていった。


 早くリーベルに帰りたかったが、モンスターの海域を通りたくない。

 遠回りになるが迂回する航路をとった。

 仕方がないことだが、それによって航海日数が増えてしまい、さらに死者が増えていった。


 ついには船団の一隻が人員不足により航行不能に陥った。

 生き残った者たちに救う力は残っておらず、生存者を旗艦に移して船を棄てた。

 そしてまた一隻……また一隻……


 辛うじてリーベルへ生還できた船員たちが語る海の地獄。

 人々は戦慄した。

 海のモンスターたちが待ち伏せ場所を変えてしまった以上、もはやロレッタの記憶は役に立たない。


 ——リーベルの船はうまい。


 モンスターだけでなく、海賊からもそう認識されてしまった。

 それでも危険と知りつつ出航していく交易船団だったが、大した抵抗もできず、モンスターに食われ、海賊に積み荷と命を奪われていった。


 そんな状況下、ついに大海原に出ていく大型の交易船は途絶えた。

 小型の沿岸用輸送船は普段通りに運航していたが、もはやかつての自給自足の島国ではなく、その程度の物資ではこの国の暮らしは成り立たなくなっていた。

 特に交易船団が持ち帰る品々が不足し、再び物価が上昇し始めた。


「海の脅威への対抗手段が必要——宮廷でも街の中でも、そう叫ばれていたわ」

「それで魔法兵団を作ったのか?」


 ロレッタは首を横に振った。


「いいえ。魔法兵団自体は私が来る前からすでにあった。島内でモンスター討伐を担っていたわ」


 ただし当時の魔法兵団は陸軍所属。

 海軍には魔法兵という兵科自体が置かれていなかった。

 波や揺れで集中しにくい船上で魔法の詠唱を行おうとは考えていなかったからだ。


 しかし、いまこそ必要だった。

 海の魔法使いが。


 犠牲になるだけの巡洋艦に代わり、危険の探知及び超長距離からの魔法攻撃を任務とする海軍魔法兵が船団を護衛する。

 これがロレッタの案だ。


 この提案に国王・大臣はすぐに飛びついた。

 だが豪商たちのとき同様、反発する者たちが現れた。

 魔法兵団とリーベル中の魔法使いたちだ。


 エルミラは首を傾げた。


「わからん。なぜ嫌がる?」


 自分たちの能力を見込まれての話ではないか。

 新たな活躍の機会をなぜ嫌がるのか。


 ロレッタは苦笑いした。


「当時はそういう考え方ではなかったの……」


 当時の魔法は学問であり、何の役に立つかではなく、何ができるかが重要だった。

 だから当時の魔法使いたちはより複雑で高度な魔法を成功させることに集中していた。


 少しでも他より優れようと凌ぎを削り合っている状況下、船上で魔法を役立ててくれという話が受け入れられるはずはなかった。



 ***



 学術として向上を目指す魔法使いたちと実用を目指すロレッタ。

 両者がわかり合えるはずはなく、誰にも理解されない彼女の孤独な戦いは続いた。

 毎日、魔法研究所と魔法兵団司令部に通い、また街へも魔法の心得があると聞けば、訪ねて協力を求めた。


 その結果は……たった二名だった。


 魔法研究所は取り付く島もなかったが、兵団は志願者一名を出してくれた。

 名前はアルシール。

 研究所の魔法使いとは違い、兵士なので引き締まった体格の男性だった。

 彼の実家は銛打ち漁師で他人事と思えず、同僚の魔法兵たちからは笑われたが志願してくれたのだという。


 もう一人は街で見つけた占い師の女性。

 名前はデシリア。

 港の大通りに布を敷いて座り込み、紛失物がどこにあるかを言い当てる占術を得意としていた。


 しかし探しているのは占い師ではなく、魔法使い。

 気にせず、前を通り過ぎようとしたとき、彼女から掛けられた言葉がロレッタの心に引っかかった。


 ——いまは誰もあなたを理解しない。

 皆が指を差して嘲笑するだろう。

 でもあなたの試みは必ずこの国を救う。

 そのとき嘲笑は称賛に変わる——


 耳障りのいい予言に心を奪われたのではない。

 占いの能力も高いようだが、彼女の目に宿る高い魔力が気になった。

 紛失物を言い当てるのが得意なはずなのだ。

 占いで当てているのではなく、高度な探知魔法なのだから。


 ロレッタは身分と目的を話して協力を頼んだ。

 断られると思ったが、意外にも彼女は引き受けてくれた。


 聞けば、彼女は未亡人。

 夫は島蛸に食われた巡洋艦の水兵だった……

 夫の仇を討ちたかったが、自分にできるのは対象を探知するだけ。

 仕方なく、占いで日銭を稼いでいたのだという。


 考えていた海の魔法使いは三人編成。

 索敵担当のデシリアと攻撃担当のアルシール。

 この二人を補佐し、万が一脅威が迫ったときには障壁を張る等の防御を担当するロレッタ。

 合計三人だ。


「ちょっと待ってくれ。アルシールとデシリアだと!?」

「ええ。あなたたちリーベル人にとってはお馴染みの二人」


 ロレッタ、アルシール、デシリア。

 彼女たちは海の三賢者と呼ばれ、信仰の対象だ。

 海に出る者はその霊廟に航海の無事を祈願してから出航する。


 言い伝えによれば三人はリーベルを救うために西方よりやってきたという。

 それが一人は漁師の息子、一人は日銭稼ぎの占い師だったとは……


「それはまあ、王宮から見て兵団司令部は西側にあったし、デシリアも占い師同士の縄張り争いを避けて中央通りではなく、港の大通りに座り込んでいたから……」


 港も司令部の更に西側にある。


「あ、でもまったくの嘘っていうわけでもないわね。私は交易船に乗ってきたから、確かに西方よりやってきたわ」

「……いや、もういい」


 櫂を漕ぐ手は休めないが、エルミラは正直ガッカリした。

 西方というより、単に街の西側から集められた寄せ集めではないか……


 そんなエルミラの落胆をロレッタは笑った。


「伝説なんてそんなもの。元気を出しなさい」


 励ましながら話を先に進めた。


 アルシールは雷撃の魔法が得意だった。

 親の漁を手伝い、大きな魚を気絶させるのに使っていたのだという。

 子供の頃からずっと続けているというだけあって、それほど時間を掛けずに雷を作り出せるのは見事だった。

 あとは魚を探すのに探知魔法も使えた。


 ただしそれだけ。

 他の魔法は苦手だった。

 つまり落ちこぼれだったから兵団は気前よく放出してくれたのだ。


 デシリアは探知魔法が得意だった。

 占いで鍛えられたのか、予知能力まであった。

 攻撃魔法の心得はなかったが、その索敵能力は頼もしかった。

 船酔いさえなければ……


 確かに寄せ集めと言われても仕方がない二人だったが、それでもなんとか人数を揃えることができた。

 さっそく翌日から三人で訓練を開始したのだが、初日早々、占い通りに宮廷からも街の魔法使いからも嗤われることになった。


 出航早々、デシリアが船酔いで索敵どころではなくなり、アルシールの雷撃も波と揺れに邪魔され、陸上の半分程の威力に落ちたからだ。


 無理もないことだった。

 魚を気絶させるのにそれほど大きな雷は不要だが、これから相手をするのは大型モンスターや海賊船。

 それらを撃退できるほどの雷を船上で出そうとしたのは彼自身も初めてだったのだ。


 これを当事者意識に欠ける王国中の魔法使いたちが嗤ったのだった。


 魔法使いは魔法をより高めていくことに専念すべきであり、海のことは船乗りたちに任せておけばよい。

 魔法兵は陸上でこそ真価を発揮する。

 その力が半減するとわかったのに、なぜそれでも海に出そうとするのか。

 明らかに誤った用兵であり、税金の無駄遣いだ、と。


「二人共落ち込んで、励ますのが大変だったわ」

「あんたは落ち込まなかったのか?」


 ロレッタは毎日宮廷で心ない言葉を浴びせられていたが、二人と違って一切動じることはなかった。

 彼女にはこれで大丈夫、という確信があったからだ。


 冒険者時代、乗っていた定期船が沿岸から飛来したハーピーの群れに襲われたことがあった。

 そのとき有効だったのは失敗しやすい大魔法ではなく、素早く確実に完成させられる基本的な魔法だった。


 目指しているのは海の魔法使い。

 そう考えれば、アルシールの雷撃は十分な威力を保っていた。

 そして船酔いは穏やかな港内の波から順に慣れさせていけばよい。

 その日からデシリアはよほど具合が悪いときを除いて、基本的に停泊中の船上で生活し始め、船酔いを克服していった。


「私たちの準備はすべて整った。あとは出撃するだけ」


 そのときはすぐにやってきた。

 市民生活の困窮が見逃せないほどになり、どうしても交易を再開しなければならなくなったのだ。


 だが、国からの求めに対して商人たちの腰は重い。

 船が沈められれば、商人によっては露頭に迷うことになる。

 沈むとわかっている航海に船を出す酔狂な商人はいなかった。


 仕方なく、海軍の補給艦で編成することになった。

 そこにリーベル製の呪物を積み込み、水兵たちを乗せる。

 まるで決死隊のような交易船団だ。


 ロレッタたちはこの船団に同行した。

 国王や大臣からは最後まで巡洋艦隊で船団を囲もうと言われたが、固辞した。

 決して手柄を独り占めしたかったからではない。


 水中から忍び寄る島蛸を魔法使いではない水兵が探知するのは無理だ。

 また艦尾から組み付かれたら舷側砲も無意味だ。


 今後のリーベルを占う船団だというなら、尚更犠牲を出すわけにはいかない。

 囮になる以外、やれることがない巡洋艦隊など一隻も連れていくわけにはいかなかったのだ。


 その代わり、小回りが利く足の速い小型帆船を用意してもらった。

 大きな補給艦に対してあまりにも小さい護衛の艦。

 港で見送る人々からどよめきが起きたが、気にしなかった。


 彼女たちは魔法で船団を護衛するのだ。

 そのために必要なものは砲撃火力ではなく、速力だった。

 長く伸びた船団のどこに島蛸が現れるかわからず、異常を感知したらすぐに急行しなければならないからだ。


 皆から嗤われ、誰にも初陣を祝ってもらえなかった海軍魔法兵団。

 その数、僅か三名。


 そのちっぽけな護衛に先導されながら交易船団は出発した。

 リーベル人たちの命と夢を食らったあの絶望の海へと……



 ***



 女将の話はエルミラが聞いてきた歴史と微妙に違っていたが、もう驚かなかった。

 彼女の言う通りだ。

 伝説とはそんなものなのかもしれない。


「随分な扱いだったんだな。皆から期待され、応援を背に受けながら出撃した、と習ったんだが……」


 応援はあった。

 ただし、見送りに来た水兵の家族が自分の息子や夫に向かってのものだ。

 甲板から手を振るロレッタたちに対しては罵詈雑言の嵐だった。

 人殺し、地獄に落ちろ、死にたいなら三人だけで行け、と……


「その教科書をアルシールとデシリアが読んだら、お墓の下で大爆笑するわね」


 と、ロレッタは笑った。


 地獄の海へと出航した船団は順調に目的地を目指した。

 波は穏やかで風も程よく吹き、水兵たちは甲板磨きや訓練に勤しんでいた。


 一週間が過ぎ、いよいよ例の島蛸に襲われた海域に入ると船団全体に緊張が走った。

 航海自体は穏やかで順調だったが、もはや甲板で船歌を歌う者はいなかった。

 交代で索敵していた三人の他に船団各艦もそれぞれ見張りを増やし、少しの異変も見逃すまいと目を凝らす。


 だが、見張りは水上の異変を発見するためのもの。

 マストの上から見下ろせば、多少は波の下もわかるかもしれないが、せいぜい二~三エールト(一エールトは約一メートル)程だろう。

 肉眼では無理なのだ。


 ロレッタの考えた通り、海軍魔法兵の本領はさっそく発揮された。

 デシリアだ。

 船酔いを克服し、本来の能力を取り戻した彼女の探知魔法は半減していても素晴らしかった。

 深海より浮上してくる大型生物の〈気〉を捕捉。

 直ちにその情報を船団全体に伝えた。


 報告を受けたアルシールは攻撃の準備を始める。

 訓練通りだ。

 右手を高く上げながら詠唱を始めると、彼の掌に青白い雷が幾筋も現れた。

 それらは絡まり合い、やがて一つの球になっていった。


 雷球という。

 生まれたばかりの雷球は微かに放電しながら、彼の詠唱で少しずつ大きく成長していく。


 その間もデシリアの探知は続き、〈気〉の大きさと特徴から島蛸と断定。

 敵の現在位置と距離を計測し続けた結果、浮上予測位置も明らかになった。

 八隻編成の船団中央、四番艦の艦尾だ。


 最初の巡洋艦以来、艦尾から襲い掛かれば容易く食えると学習したのだろう。

 まっすぐ浮上してきていた。


 対するロレッタたちは特に回避行動はとらなかった。

 船団には進路と速度を維持させ、自分たちの船は速度を落として五番艦前方につけた。


 雷球は目視で狙わなければならないので、アルシールは四番艦の艦尾に意識を集中させている。

 油断してそのまま浮上してきてもらったほうが命中させやすい。


 更なるデシリアの報告から相手が浮上速度を上げたことがわかった。

 いよいよこちらを捕食する気だ。


 島蛸に船を理解する知能はなく、水中から見上げる船団は細長い楕円形の群れに見えるだろう。

 楕円形の殻の中身は柔らかい人間たち……

 それが縦一列に並んでいる様は、さぞ食欲をそそることだろう。


 接近されていることに気付かず、捕まって初めて狙われていたことに気付く愚かな楕円形たち。

 何も抵抗できずに食われるしかない弱い獲物目掛けて一直線に速度を上げる。


 そんな島蛸にも唯一こわいものがあった。

 それは落雷。

 薄暗い日に何もない大海原の真ん中で触手を伸ばそうものなら、自分に向かって落ちてくる。


 でも今日は快晴。

 海中を日差しが青く照らしている。

 こういう明るい日に雷は落ちてこない。


 体験からそう学習していた島蛸に恐れるものはない。

 早く食事にありつこうと四番艦の後方目掛けて突進し、その〈殻〉に触手を伸ばした。


 一方、五番艦前方のロレッタたちは浮上してくるのを待ち構えていた。

 すでにアルシールの雷球は完成し、バチッ、バチッと恐ろしい音を上げている。


 また四番艦の乗員たちは艦首付近の船室に退避した。

 甲板は波を被るので雷球が命中した島蛸から電撃が伝ってしまうかもしれないからだ。


 お仕置きの準備はすべて整った。


 甲板の様子を海中から見ることはできないので、まさかそこで大嫌いな雷を用意されているとは思いもしない。

 島蛸は何も疑わず、海を割って浮上した。


 海面上に飛び出すと、いろいろなものが視界に入ってきた。

 青空、太陽、大好物の楕円形たち、青白く光る大きな何か。


 ——?


 前者三つはよく知っているが、最後の一つは何だろう?

 急激に大きくなり、右の視界全体が塞がれてしまった。

 初めて見るその不思議な円形は、大嫌いなものと同色だったので本能的に嫌な予感がした。


 それが、右目で見た最後のものとなった。


 バチィィィッ——!


 視界全体が青白に変わった直後、襲い掛かる衝撃と激痛。

 人間を一瞬で黒焦げにしてしまうほどの電撃が島蛸の右目に命中し、眼球を吹っ飛ばした。


 ——っ!? 痛い! 怖い! 痛い! 怖い! 痛い! 怖い!


 もう食事どころではなかった。


 ——晴れの日には丸い雷が飛んでくる!


 新たな学びと引き換えに右目を失った島蛸は、元いた深海へと落ち延びていった。

 そこなら雷は落ちてこない。

 ……たぶん。


 かくしてロレッタたちは海のモンスターを撃退することができたのだった。

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