第3話「初代」

 無事に帝都沿岸警備隊を振り切ることに成功したファンタズマ一行。

 その甲板は喜びに包まれ——という感じではなかった。

 むしろ不穏な空気が漂っていた。


「リル、おまえは何者だ?」


 尋ねるエルミラの声は低い。

 当然の疑問だった。

 姿が消えたり、突然瞬間移動するのは生霊だからと無理やり納得する。

 ……いまのところはとりあえず。

 では、物体の舵輪を掴んで操作していることはどう説明する?


 問われたリルは困惑していた。

 なぜエルミラが不機嫌そうなのかわからないし、どう答えてよいかもわからない。

 例えるなら鳥がおまえはなぜ空を飛べるのか、と尋ねられるようなもの。

 少女にとっては同じ位当たり前のことだったのだ。


 頭の中で答えが整わないうちにエルミラの質問がさらに続く。

 少女を責めているわけではない。

 逃げている最中だったので、いろいろな疑問は後にしようと切り換えていただけだ。

 追撃を振り切ったいま、それらの疑問が噴出していたのだった。


 エルミラの疑問は舵輪のことだけではない。

 精霊の呼び出し方についても疑問があった。


 天才召喚士と呼ばれる者たちは幼少の頃、すでに精霊と戯れていたという。

 だからリルが精霊を召喚すること自体は不思議ではない。

 問題はなぜ複数同時に呼び出せたのかだ。


 兵団内にも精霊魔法を得意とする魔法兵たちがいたが、複数同時に呼び出せる者はいなかった。

 能力の優劣によって召喚できる精霊の格に違いはあったが、一度に呼び出せる数は一体のみ。

 その一体を呼び出すのにも相当疲労しているようだった。

 異世界の存在を顕現させるというのはそれほど大変な作業なのだ。


 それを目の前の少女は、友達にちょっと手伝ってもらうような気軽さで召喚する。

 しかも複数同時に。


 そして土の精霊ノーム。

 海は言うまでもなく水の精霊力が強く働いている場所だ。

 だからウンディーネはわかる。

 海上は風が強いからシルフも呼べるだろう。

 だがノームを呼び出せるほどの土の力はどこに働いているのか?


 こんな芸当ができるのは人間ではない。

 仮に人間だったとしても齢数百歳の大魔女だろう。

 そんな人間離れした存在がなぜ脱走を助けてくれたのか。

 その狙いを知りたかった。


 対するリルは矢継ぎ早に質問を浴びせられ、処理しきれなくなっていた。

 舵輪のことも精霊たちのことも、当人にとっては極めて普通のこと。

 なぜできるのかなど考えたこともなかった。

 しかしエルミラが不審に思っているなら、沈黙はよりその疑念を深めてしまうだろう。

 少女は泣きそうな声でやっと答えた。


「私は……私だよ……あとは、よくわからない……」


 そう言うと、リルはそれっきり黙ってしまった……

 エルミラは項垂れてしまった彼女にそれ以上の追及はできなかった。


 残念ながら、いまの少女の言葉には何の答えも含まれていない。

 だから大魔女が少女の振りをしてとぼけている可能性は残っている。

 しかし仮に大魔女だったとして、滅んだ王国の元王女にどんな利用価値があるだろう?


 ——利用したいならそれでも構わないじゃないか。


 俯いている少女を見ているうちにそんな気持ちになった。


 あのまま帝国にいても、一生飼い殺しにされるか、共和国が反旗を翻したときに処刑されるか。

 どちらかの運命しか待っていないだろう。


 あとで利用するつもりなのだとしてもその運命から救い出してくれたことに違いはない。

 どうせ誰かに利用されるなら、助けてくれたリルがいい。


 それに、おそらく取って喰うわけではないのだろう。

 それならガレーを撒いたいま、誰にも邪魔されずに実行できるはずだ。


 また、どこかに連行して生贄に使うというわけでもないようだ。

 王家の血は高貴かもしれないが、庶民の母から生まれた自分の血はきっと薄い。


 その半分しか流れていない王家の血も、別に特殊な力を持っているわけでもない。

 昔、魔神と血の契約を交わしたので、王家の血を引く者にはその加護があるなどという話は聞いたことがない。


 王族という響きが立派なだけの常人の血。

 大魔女が帝国に乗り込んでまで調達しなければならないほどの生贄ではない。


「すまない、リル。初めて見るものばかりで動転してしまった」


 何が目的かわからないが、目の前の少女から悪意や企みといった闇は感じられない。

 それは確かだ。


 エルミラはせっかく助けてくれた小さな恩人に心ない尋問をしてしまったと反省した。


「私もうまく説明できなくてごめんね」


 リルは俯いていたが、エルミラの声から不信感が消えた様子に安堵してそう返した。


 落ち着きを取り戻した少女は、ポツポツと自身のことを語りだした。

 ずっとこの船で暮らしてきたこと。

 船からあまり離れると意識を失い、そういうときはいつ、どうやって戻ったのかわからないが、船室で目を覚ます。

 あの子精霊たちもこの船で暮らしているから、呼べばいつでも来てくれる。

 それが精霊魔法だとは知らなかった。


「…………」


 呼べばいつでも来てくれると、さらっと言ってのけるが、とんでもない大魔法だ。

 しかも何の自覚もなしに……

 大魔女ではないようだが、常人でもないようだ。


 それと彼女の不思議な点はおそらくこの船が関係している。

 彼女は確信していた。

 これはリルの親が個人で所有している船ではない、と。


 では、何なのか?

 真っ先に思いつくのはリーベルの最新鋭魔法艦。

 何が秘められていたとしても不思議ではない。

 子供の生霊でも動かせる何かがあるのだ。


 だとしたら、ここであれこれ考えても仕方がない。

 祖国に帰って建造に関わった魔法使いから聞くのが早い。


 リルに害意はない。

 話してみて、その一点だけは確信が持てた。


「わかった。リーベルまで一緒に頑張ろう」

「うん」


 やっとリルの顔に笑みが戻った。

 エルミラはこんな悪意の欠片もない少女に疑念を抱いたことを少し恥じたのだった。



 ***



 方針は決まった。

 王都ウェンドア港を目指す。

 いや、いまは共和国首都ウェンドアだったか……


 そうと決まればエルミラは頭の切り替えが早い。

 リルに操船を任せて船室に降りて行った。

 しばらく二人だけの船旅になる。

 水・食料の備蓄を確認するのだ。


 下に降りるとまずは鍵が掛かっていて入れなかった区画になる。

 さっきは慌てていたので気付かなかったのだが、かなり厳重だ。

 何気なく扉を叩いてみると音が重い。

 鉄扉の表面に木材を張り付けてあるらしい。


 木材は錆を防ぐためだと思うが、なぜそこまで厳重にする必要があるのか?


 ——営倉?


 それなら艦底付近にするはず。

 甲板を降りてすぐの区画は甲板で使うものが保管してあったり、砲室として使用されることが多い。

 そういう便利な場所を営倉にするというのは聞いたことがない。


 また扉には鉄格子も何もないから、中にいる者にどうやって食事を渡すのか?

 そんな部屋がいくつも並んでいるのだ。


 だからここは営倉ではない。

 何かを保管しておく部屋なのだろう。

 だとすると、ここまで厳重に保管しなければならない物が何なのか気になる。


 エルミラは部屋名のプレートに目をやった。

 開けられないなら、部屋名から中を推測しようとしたのだ。

 しかし何と書いてあるのかわからなかった。


 日常で使われている言語ではない。

 魔法語でもない。

 プレートには見たことのない文字で何かが書き込まれていた。

 他の部屋も同様だ。

 先頭部分は部屋ごとに違うが、途中からは同じ文字の羅列。


 ——古代語か?


 もしそうならお手上げだ。

 残念ながらエルミラに古代語の心得はない。


 目視確認を諦めると、施錠されている扉に耳を当てて音から中の様子を探ってみた。


 室内から伝わってきた音は……

 無音だった。

 何の音も生物の気配もない。


 ということは中にいるのは動物やモンスターではなく、何らかの物資ということ。

 何が置いてあるのか気になるが、やはり帰国してからこの扉を作った職人か魔法使いに開けてもらうしかなさそうだ。


 それよりもいまは水と食料だ。

 つまみ食い防止のために厳重な食料庫という可能性も考えたが、そんな部屋がいくつも必要とは考えにくい。

 食料庫ではないと判断し、他を探すことにした。


 厳重な区画を抜け、ガランとした船室の前を通り過ぎていく。

 エルミラが目指しているのは調理室だったのだが、すでに嫌な予感がしていた。


 船全体から漂う新品感。

 さっきからまったく物と出会えない。

 砲弾も予備の帆も何も……


 思い返してみれば、研究調査のために帝都に運ばれた船。

 回航中は船員のために水・食料を積んでいたかもしれないが、到着したら二度と出航することはない。

 補給どころか、余った食料はすべて下してしまうのではないだろうか……


 短銃と水晶銃が置きっぱなしになっていたことは奇跡だったのかもしれない。


 考察は正しいのか、それとも杞憂に過ぎないのか。

 幸いこの船は戦艦のように巨大ではないから調理室はすぐに見つかった。

 見つかった安堵感と、やはり調理場の扉も真新しいことへの不安感。

 相反する二つの気持ちに挟まれながら、扉を開けた。


 陸の調理場と違って船は狭い。

 少しでも空いている空間があれば食材を上から吊るしておく。

 ちょうど目の高さなので、船の調理場に行くとまずはそれらが視界に飛び込んでくる。

 だから見落とすことはない。


「…………」


 彼女のいやな予感は外れなかった。

 何もない。

 食料どころか食器すらなかった。


 心が折れそうになったが、見渡す視線の先にもう一つの扉を見つけ、辛うじて持ち堪えた。


 珍しく食料庫を備えた船なのかもしれない。

 だから吊るしておく必要がなかったのだ。

 そう自分に言い聞かせながら、エルミラは緊張に震える手でその扉を開いた。



 ***



 エルミラが調理室を目指していた頃、一方のリルはさっきの言葉を思い返していた。


「お前は何者だ?」


 考えてみたこともなかったので、返答に困る質問だった。


 船から離れると意識が遠くなるので、当然遠くに行こうとは考えないし、それが普通だと思っていた。

 精霊たちのこともそうだ。

 呼べばすぐに来てくれて、手伝ってくれる。

 皆も友達に用があるときは、名前を呼ぶだけではないか。

 自分も同じなのだが、エルミラによれば普通ではないらしい。


「私は何者なんだろう……」


 誰に言うでもなく、リルはポツリと呟いた。

 エルミラが船室から戻ってきたのはそのときだった。


「おかえりなさい」


 リルは一旦考え事をやめて明るく出迎えたが、対するエルミラの表情は暗かった。

 聞かずとも、探索の結果が思わしくなかったことは明らかだった。


「水はウンディーネに頼めば、出してくれるよ?」

「そうか。水はなんとかなるな。ただ、食料はどうしたものか……」


 一縷の望みを掛けて確認した食料庫は空だった。

 干し肉一つ落ちていなかった。

 明日から水だけでリーベルを目指さなくてはならないのだ。

 二週間以上も……


 リルは釣りをしながら東を目指そうと提案してきたが、絶対に無理だ。

 エルミラに海釣りの経験はない。

 無茶な提案をしてくる位だから、リルも素人だろう。

 第一、技量以前に餌として使えそうな食材がない。


 子供の頃、一度だけ池釣りに連れて行ってもらったことがあったが、同伴していた釣りの名手が疑似餌という物を見せてくれた。

 魚が好みそうな虫に似せてあり、餌と勘違いした魚が食いつくのだという。

 海の魚に通用するかわからないが、船にあるもので自作して試してみるしかなさそうだった。


 それでも二週間以上の航海は無理だ。

 進路を変更せざるを得ない。

 いま風は東から西に向かって吹いている。

 帝国に押し戻すような風だ。

 逆風に逆らって東に進むのは諦め、南を目指すのだ。


 風を横に受けながら全速で南に向かえば、半日ほどでネイギアス海に入る。

 そこは大小の島々からなる群島海域。

 その島の一つ一つが都市国家であり、と名乗らない限り、基本的にどんな船でも受け入れてくれる。


 まずは一番北寄りの島に向かい、そこで補給してから改めて北東に進むしかない。

 丸一日近く断食になるが、二週間釣果頼みの地獄の航海よりは現実的な案だ。

 話すと、リルもこの案に賛成した。

 ……さすがに魚を捕まえてきてくれる精霊はいなかったか。


 新しい方針が決まると直ちに面舵を切り、南に進路変更した。

 あとは風に南へ運んでもらうだけだ。


 人間がやれることはすべて終わった。

 そう気が緩むと、不意にエルミラの口から大きな欠伸が出た。

 リルは笑うが無理もないこと。

 夕方からずっと緊張の連続だったのだ。


 宮殿から脱走し、港で追いついた警備兵たちと斬り合いになった。

 ファンタズマに乗った後も砲弾の雨を掻い潜り、海に出られたと思ったらそこにはガレー船二隻が待ち受けていた。

 一度でも判断を誤れば衝角の餌食になるか、接舷されて斬り込まれる運命が待っている。

 これらすべてが夕方からついさっきまで続いていたのだ。

 それらの緊張から解放された途端、どっと疲労が襲い掛かってきた。


 だが——


「リル、交代で休もう。先に寝ていいぞ」


 すでに疲労困憊だったが、自分自身よりリルが心配だった。

 見れば元気そうだが、初めて経験した海戦の疲れは確実にあるはずだ。

 加えてあの大魔法。

 自覚がないだけで、体力をかなり消耗している可能性があった。


「私は平気だから、エルミラこそゆっくり休んで」


 そこから譲り合いが始まったが、結局リルの元気と自身の睡魔に勝てず、エルミラが先に少しだけ眠ってくることになった。


 再び船室に下りていき、適当にその一つに入る。

 ベッドもハンモックもないのでそのまま眠るしかない。

 壁に寄りかかって座ると、限界を迎えていた瞼がすぐに落ちた。


 朦朧とした意識の中で海図を思い浮かべる。

 ここからネイギアス海までに岩礁はなかったはず。


 ——もしリルが我慢できずに居眠りしても大丈夫だろう……


 そのままスウッと意識が切れて、エルミラの長い一日が終わった。



 ***



「エルミラ! 起きて、エルミラ!」


 少女の高い声と肩を揺さぶられたことで、エルミラは目を覚ました。

 ちょっと仮眠を取ったら自分から交代しに行くつもりだったのに、寝過ごしてしまった。

 あまりにも遅かったので起こしに来たのだろう。

 少女を甲板で見張らせたまま、自分一人だけ睡眠を貪っていたことを恥じた。


「すまない。交代するからゆっくり休んでくれ」


 しかしリルは交代を催促しに来たのではなかった。

 手を引っ張ってどこかに連れて行こうとする。


「甲板に来て! 近くに何かいる!」


 帝国艦が追い付いてきたか?

 気だるさが残っていた身体に緊張が走る。

 一瞬で眠気が吹っ飛んだ。


 リルに先導されながら甲板へ急いで上がると、水平に差し込んでくる強い光に思わず目が眩む。

 時刻は早朝。

 夜中に交代するつもりが、眠り込んでしまったようだ。


 ——無理せず、もっと早く起こしに来てくれれば良かったのに。


 横に立つ少女はそんな彼女の後ろめたさを気にも留めず、「あれ!」と指差した。

 促されて見た左舷前方、すぐそこに見たこともない巨大な双胴船が佇んでいた。


 リルが驚いて起こしに来るのも無理はない。

 エルミラもまた驚いた。


「どうしてここまで接近される前に知らせなかったんだ?」


 責めているのではない。

 リルのことだから全方位しっかり見張っていたに違いない。

 にもかかわらず見落としてしまったのだとしたら、それは何か異常な現象によるものだろう。

 だから、何があったのかという純粋な報告を求めているのだ。


「わからない。突然目の前に現れたからびっくりして起こしに……」


 忽然と現れたという巨大な双胴船。

 双胴船という名の通り、二隻の船を横に並べて板で繋いだ船だ。

 元となっている船体は一二〇門級戦列艦だろうか?

 その巨大戦艦二隻の間に板を張り、その上に構造物が建っている。


 かつては各国でこのような巨艦を競って建造していたようだが、魔法艦にとって大きな的でしかないとわかり、姿を消していった。


 以来、魔法艦は大量の砲や船員を必要としないので小型化していき、その相手も魔法攻撃を回避するために同じく小型化していった。


 それは現在も続いており、このような巨艦を他国が建造しているという話は聞いたことがない。

 考えられるのは、帝国で秘密裏に建造された双胴戦艦の可能性だが、かなり無理がある。


 双胴戦艦は敵を威圧するには良いかもしれないが、単艦時より旋回性能が低下するという弱点が発生してしまう。

 広くなった甲板に帆柱を増やせるが、船体総重量が勝り、速力も低下する。

 高い速力と旋回が求められる小型船の追撃には不向きだ。


「どうするの?」


 横に立つリルが不安そうに見上げるが、正直エルミラも返答しようがない。

 急に現れたというのだから、あれほどの巨艦を瞬間移動させる方法があるということ。

 だとすれば速力と旋回の問題は解決されているとみるべきだ。

 少しでも不審な動きをすれば一瞬で向きを変えて撃ってくるかもしれない。


 いまのところ、停船を命じる信号はないし、戦闘旗も上がっていない。

 それに国旗を掲げていないから帝国の戦艦かどうかもまだわからない。

 下手に刺激せず、やりすごせるならそうしたほうが良いだろう。


 進路と速度はこのまま。

 砲門が開くのが見えたらすぐに転舵して逃げるのだ。

 ……瞬間移動できるなら先回りされてしまうかもしれないが。


 そう指示しようとしたとき、再びリルが指差した。


「何か来る!」


 それは一隻のボートだった。

 瞬間移動ではなく、人が漕いでいるようだ。

 使者が来るようなので、投錨はしないが帆を絞り、その場で停船することにした。

 一体こちらに何の用なのか?


 待っていると少しずつ大きくなり、輪郭がはっきりしてきた。

 士官が来るのかと思っていたが、どうやら漕いでいるのは一人の女性のようだった。


 待っているとボートはゆっくりと接近し、エルミラ達の下で止まった。

 こちらに上がってくるよう、ボートに縄梯子を投げ下ろしたが、掴んだだけで上がってこない。


 濃紺のドレスに身を包んだその女性はボートから上に向かって大声で用件を伝えてきた。


「私はロレッタ——」


 彼女はあの双胴船〈ロレッタの宿屋ロレッタズイン号〉の船長、そして女将だという。


 その女将が一体何の用なのか。


「私の船に来て、朝食でもどうかしら?」


 あの船は軍艦ではなく、どこの国にも所属していないロレッタ個人の船。

 彼女はそこで宿屋を営みながら、世界中の海を巡っているのだという。

 だから怪しい者ではないというのだが……


 ファンタズマの二人はどうしたものか、と顔を見合わせた。

 正直、ものすごく怪しい。


 現在、軍艦とは逆に商船は積載量を増やすために大型化の傾向にあるが、それより巨大な客船。

 海上の宿屋だと言われても、すぐに受け入れられるものではない。


 それに女将の目的も不明だ。

 なぜ自分たちの前に現れ、招待しようとするのか。


 夜から南を目指していて、もう少し進めばネイギアス海に入るだろう。

 そこは南国の明るく青い海と、そこに点在する群島の緑が織りなす美しい海域。


 一方で暗礁が多い危険な海で、積載過多の商船が毎年座礁している。

 小回りが利かない巨大双胴船には不向きな海だ。

 一体何の用があって南方海域に向かっていたのか?

 この遭遇を偶然の一言では片付けられなかった。


 リルは最初こそ不審がっていたが、もうその不審は興味に変わってしまったようだった。

 特にあのよく目立つ甲板上の構造物が気になっていた。

 つまり、行ってみたいということだ。


 エルミラはまだ判断できずにいた。

 女将が嘘をついているようには見えないが、積極的に信じる理由も見えてこない。


 どうしたものか、と改めてあの船を見る。


 ——確かに戦艦ではないのかもしれない。


 もし戦艦なら甲板の構造物が邪魔だ。

 帆が受ける風を遮ってしまうし、敵の砲撃に狙われやすい。

 そんなすぐ壊されるものより、一本でも多く帆柱を立てたほうが合理的だ。


 しかし客船なら合理性より快適さを優先する場合がある。

 あの構造物の高さなら甲板下の船室より見晴らしが良く、特等室として使えるだろう。


 ——客船というのは本当かもしれない。


 もちろん客船だから安心ということはない。

 客船を装った海賊船ということも考えられる。

 無力な商船の振りで相手を安心させて近付き、隠れていた斬り込み要員たちが一気に拿捕するのだ。


 ここからでは船室にどれだけ潜んでいるのか知る術がない。

 この女将も船長ではなく、こちらを油断させに来た手下かもしれない。


 いろいろな心配事が頭に浮かんだが、エルミラは申し出を受けることにした。


 考えてみれば、船室はガランとしていて、積み荷どころか食料もない有様。

 金目の物といえば、いま持っている短銃と水晶銃くらい。

 それも今晩の酒代くらいにしかならないだろう。

 奪われて困るものなど、最初からなかったのだ。


 それにもし罠だったら、リルの精霊たちを呼び出して暴れさせ、その間にファンタズマへ逃げ帰ればよい。


「ありがたくご馳走になる!」


 ボートからこちらを見上げているロレッタにそう返した。

 まだ信じたわけではないが、悪人だという確証もない。

 だから行ってみるのだ。

 それに食料がなくて困っているのは確かだった。


 現在の位置で投錨し、ファンタズマを停船させた。

 まずはリルを下す。

 縄梯子の下はロレッタが掴んでいるので、上も抑えて揺れないように固定する。


「落ちないように気を付けてな」


 エルミラは下り始めたリルに一声かけた。

 生霊が落ちたからといってケガをすることはないだろうが、相手はまだそのことを知らない。

 そのまま生身の人間だと思わせておいたほうがいい。

 それゆえの注意だった。


 上から見守る中、少女は慎重に下り、ボートに降り立った。

 エルミラも続く。


「それじゃ、行きましょう」


 二人を双胴船に向かって座らせると、ロレッタは静かに漕ぎ出した。

 乗っている間、向き合っているのでどうしてもお互い、目が合って気まずくなる。

 いや、それはエルミラたちだけか。

 警戒している二人とは対照的にロレッタは微笑みを返してくる。


 向こうに着くまで大人しく座っているしかないので、改めて女将を見る。

 黒い髪と瞳に濃紺のドレスがよく似合っているが、どことなく魔女を思わせる。

 一回りほど年上だと思うが、綺麗な人だ。


 だが、あまりまじまじと眺めては失礼かと思い、視線を双胴船に向ける。

 ボートは無言が続き、櫂が水面を切る音と風の音しかしない。

 結構漕いでいるはずなのだが、まだ船体が視界の中に納まっている。

 本当に巨大だ。


「随分大きいが、元になっているのは払い下げの戦列艦か?」

「あら、詳しいのね」


 あの二隻は破壊され、浜に打ち上げられていたもの。

 ある日、女将が発見して修理し、自分の船にした。

 その後も手を加えていき、現在の形になったのだという。


「それにしても、あんな目立つ船がよく海賊に襲われないな? 凄腕の用心棒たちを雇っているのか?」


 暇を持て余して始めた話だったが、思いがけず、こちらの望む展開になった。

 これなら自然な流れの中で兵力数について質問することができる。


 そんな心の内に気が付いているのか、あるいは単に質問内容に対するものなのかは不明だが、女将は苦笑いを浮かべた。


「襲ってくるというより、海賊もウチにとってはお客様。さっきまで殺し合っていた敵同士も、ウチに来たら乾杯して楽しく飲む決まりだから」


 だから用心棒は一人も雇っていないし、必要ないと言い切った。

 いるのは料理人と小間使い、あとは航行担当の水夫たちだけらしい。


 その話が本当なら随分と不用心だが、エルミラたちにとっては好都合だった。

 もし何かあったら、リルの精霊たちで撃退可能だ。

 あとは手錠が外せれば、自分も体術だけでなく、魔法も使って護衛し、召喚を援護できるようになるのだが……


 そんな思いから、つい手首の手錠を睨んでしまった。

 ロレッタは見逃さない。


「お屋敷から逃げてきたのかしら? 何を失敗したのか知らないけど、随分とひどいご主人様ね」


 昨日から死に物狂いだったので忘れていたが、宮殿の侍女の服装のままだった。

 どうやら、お仕置きで手錠をかけるような、人でなしの主人から逃れてきたと思われているようだ。


 どう誤魔化そうかとエルミラが悩んでいると、ボートを漕ぐ手を休めて、手錠にその手を伸ばしてきた。


「いや、ここで外すのは無理だと思う。あとで鑢でも借りて——」

「大丈夫。任せて」


 そう言うと手錠に手をかざし、何かを呟いた。

 途端、カチッという金属音を立てながら、忌々しかった魔法封じの手錠がスルリとボートに落ちた。


 ——解呪の魔法!


「女将さん、魔法が使えるのか?」

「あなたたちリーベル人ほどじゃないけど、多少の心得はあるわ。団長さん」


 ——素性を知られている!?


 驚いたが、すぐに冷静になる。

 強国リーベルで主力の一翼を担っている海軍魔法兵団の団長。

 しかも王女でもあるから、何か行事があれば人前に姿を晒していた。

 だからエルミラは初対面だが、女将はそのとき一般人として参列して顔を覚えていたのかもしれなかった。


「これで楽になったでしょ?」

「……ありがとう」

「女将さんすごいね。昨日からずっと困ってたの」


 リルは目を輝かせながら、友人を助けてくれた女将を称賛した。

 女将は再び櫂を掴んで漕ぎながら、少女の素直さに目を細めて微笑んだ。


「お役に立てて良かったわ」

「うん!」

「…………」


 和やかなリルたちと対照的に、エルミラは難しい顔で考え込んでしまった。


 魔力を帯びた手錠を外すには三つの方法が考えられた。


 一つ目は素直に鍵で開ける。

 これは兵士が所持していなかった時点で断念した。

 また探している暇もなかった。


 二つ目は力ずくで手錠を壊す。

 だが、どんな怪力だろうと壊せないように魔力を付与した呪物の手錠だ。

 一度掛けられたら、怪力のオーガでも無理だろう。


 三つ目は鑢で削って切断する方法。

 これなら女の力でもできそうだが、ファンタズマに鑢はなく、どこかで手に入れるまでは実行不能だった。


 いま採れる手段はその三つくらいだったが、実はもう一つあった。


 それは手錠に付与されている魔力を解呪するというもの。

 しかしそれができるのは、製作者本人と魔法に長けた妖魔か魔女くらいだろう。


 エルミラは剣術主体で補助程度の魔法しか使えない。

 だから最初から除外していた。

 それを目の前の女将が易々とやってのけた。


 多少の心得どころではない。

 妖魔が人間に化けているようには見えないから、本物の魔女だ。


 ——魔女がなぜ海で女将などやっている?


 堪らず問い質そうとしたエルミラだったが、その言葉を飲み込んだ。

 問う直前、彼女の正体に心当たりがあったことを思い出したからだ。

 そして考え込んでしまった。


 ——魔法、海、ロレッタという名前……


 それらはある人物を指し示していた。

 リーベル人なら子供でも知っている人物。

 当然エルミラもよく知っている。


 知ってはいるが、会ったことはない。

 祖父母たちが生まれるよりずっと前に、天寿を全うしているはずの人物だから……



 ***



 昔、リーベルに一人の女性がやってきた。

 彼女の名はロレッタ。

 諸国を旅する魔法剣士だったが、時のリーベル国王に宮廷魔法使いとして召し抱えられた。


 当時のリーベルは四方を海に囲まれ農地を増やすことができず、僅かな作物と森や海で採れたもので生を繋ぐ貧しい島国だったという。

 その上で他の地域同様、モンスターの脅威も等しく襲い掛かってきていた。


 モンスターと貧困。

 限界を迎えつつあったこの国に彼女は〈海〉を示した。

 だが、海にもモンスターや海賊たちが……

 そこで彼女は魔法を海に持ち込み、それらの脅威に対抗した。


 これが後に無敵を誇ったリーベル魔法艦隊と海軍魔法兵団の始まり。

 彼女こそがその生みの親。

 リーベルを繁栄に導いてくれた救国の英雄。

 元海軍魔法兵団初代団長、ロレッタ卿。


 ところが……

 これから強国への道を歩んで行くと思われた矢先、彼女は忽然と姿を消したという。

 出奔したのか、あるいは何者かに暗殺されたのか?

 真相はいまでも謎に包まれたまま……


 彼女はリーベルから去ったが、彼女の功績は語り継がれた。

 いまも国内外を問わず、王国に貢献した者に授ける〈ロレッタ功労勲章〉にその名が残っている。


 そのロレッタ卿がいま目の前に……

 エルミラは彼女が偽物で、売名をしているのかと疑った。


 だが、売名をするような者は大抵、実力が伴わないもの。

 ところが彼女は違う。

 目の前で手錠の解呪をいとも簡単にやってみせた。


 呪物の解呪はそれほど簡単ではない。

 手錠に付与されていた魔力は永続的なもの。

 つまり付与魔法の熟練者の手によるものだ。

 解呪したければ、それを上回る実力の持ち主か、魔法使いを数人連れてこなければ無理だ。


 彼女はそれを一瞬で成し遂げた。

 そのような実力者にロレッタの名が必要だろうか?


 名を騙る理由がなかった。


 本物のようだが、なぜ生き続けているのか?

 ただの不老不死に憧れる老人なのか、それとも何か目的があって延命を?


 歴史の教科書や絵画でしか見たことがない伝説の英雄、ロレッタ卿。

 生身の彼女は如何なる人物なのだろうか……


 徐々に大きくなる双胴船を見ながら、エルミラは大魔女が自分たちの前に現れた目的を掴まなければ、と気を引き締めるのだった。

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