第2話「幽霊船vsガレー船」
無事に港口を抜けたファンタズマの船尾——
なんとか砲弾の雨を切り抜けたエルミラは船尾の欄干に頬杖をつき、ユラユラと遠ざかり、小さくなっていく帝都を眺めていた。
「やはり、解せない……」
ぼんやり眺めていた彼女は誰に言うでもなくそう呟いた。
一ヶ月間、あの窓から毎日帝都を見ていて気になることがあった。
帝国はせっかく沿岸に遷都しているのに、海のことにはあまり興味がないようだった。
最近は少しずつ海に目を向け始めたらしいが、根っこは昔ながらのブレシア騎兵。
陸を中心とする考えはそう簡単に変わらない。
他国の商船が内陸の産物を欲しがるから取引の場を作り、そこに集積しておけば勝手に利益が舞い込んでくる。
海に対する関心はその程度のようだ。
そんな帝国が、なぜ海を越えた先の島国を欲するのか。
——世界征服の野望?
だとしたら、順番がおかしい……
ブレシア帝国はリューレシア大陸の過半を占める大国だが、まだ臣従しない国々が残っている。
版図拡大が目的ならば、大陸統一が先ではないだろうか?
——リーベルの資源を求めて?
いや、それはないだろう。
エルミラは思い浮かんだ考えを自分で打ち消した。
鉱物資源はなく、農地面積も少ない。
他国からは、征服しても何の旨味もない島と評価されている。
だから魔法に活路を見出すしかなかったのだ。
その甲斐あって、確かにリーベル製の呪物は高値で取引されるが、安定して量産できるものではない。
帝国が歳入の当てにするほどの利益はない。
リーベルの豊かさは交易で手に入れたもの。
他国で品物を仕入れ、船と魔法を駆使して危険な海を渡り、需要が高い地域まで運ぶことで繁栄してきた。
島を占領しても金貨が手に入るだけだ。
窓の向こうでは沢山の商船が陸の産物を買い付けに来ていた。
帝国にはそれで十分だったはずだ。
そう考えると、侵攻の理由はおそらく目先の利益ではない。
——これから海洋進出に取り組むので、海洋王国リーベルを血祭りに上げて威光を示したかった?
ならば、先年まで最強と謳われていたリーベル魔法艦隊を各国の観戦士官たちの前で破ってみせなければならない。
それも正攻法で。
しかし賄賂を用いて、海戦自体を避けてきた。
これではどこの国も決して帝国海軍の力を認めないだろう。
「何か目的があるはずなのだが……」
軟禁され、何の情報も入ってこなかった彼女がいくら考えても答えは出なかった。
頬杖をやめ、舵輪を握っているリルのところへ歩いていく。
少女にも聞きたいことがある。
姿が消えたり、急に現れることについては生霊だからということでとりあえず不問とする。
もちろん生霊も不思議だが、いまはもっと不思議なことがある。
それは何か。
舵輪は木製。もちろん物体だ。
では、霊体のリルがなぜ舵輪を操ることができるのか?
これは帝国の謎と違って直接質問できる。
その時だった。
左舷前方の海で何か光った。
「何だ? いまの光は——」
訝しんでいると再び光った。
光っていたと思ったら、突然消えるというのを繰り返し、円を描いたりしている。
「エルミラ、あれ何だろう?」
リルはわからなかったようだが、尋ねられたエルミラは見ているうち、光の正体に気がついた。
「信号かもしれない」
すると、右舷前方でも同じように光が現れ、同じような動きを始めた。
二隻の船が前方で交信しているようだ。
「何て言ってるの?」
「えっと……」
信号が読めない少女に代わり、エルミラがその内容を読み始めた。
しばらく光の動きを見ていた彼女は、何も言わずに表情を曇らせてしまった。
「難しい?」
「いや、そうじゃないが……まずいかもしれない」
その意味を理解できない少女はキョトンとした表情で横顔を見上げた。
彼女がまずいと告げた理由。
それは少女同様、信号の内容がわからなかったからだ。
単に不勉強だったということではない。
彼女は危険度の高い海戦に出ることがなかったというだけで、その他の訓練内容は他の者たちと同じだった。
当然各種信号についても学んでいる。
訓練が終われば、一緒に学んだ者たちは危険な戦場に出ていくが、自分は安全な後方に飾られる。
ならば的確な指揮ができるようになろうと、座学の時間は真剣に取り組んでいた。
その勉強熱心な才女が、目の前の交信内容を解することができない。
それは信号が一般船舶用の信号ではなく、暗号だったことを意味している。
暗号で意思伝達を行う船——
つまり軍艦だった。
帝国海軍の待ち伏せ。
まずいかもしれないどころか、非常にまずい状況だ。
陸の騒ぎに気がついて急行してきた沿岸警備隊。
どこの国でも彼らの任務は大体同じだ。
沿岸での不審船の発見と臨検。
抵抗した場合、その度合いよっては撃沈すること。
そのため、彼らの艦艇には積載量と耐波性能がそれほど求められない代わりに、高い速力が求められる。
その条件に適している船種の一つがガレー船だ。
風力ではなく人力で進むので、加速力が高く、逆風でも苦にならない。
また、やろうと思えばその場で旋回することもできる。
それだけでも厄介なのだが、一番恐ろしいのがその加速力を活かした衝角攻撃だ。
船首水面下に取り付けられた衝角でこちらに大穴を開けられてしまう。
その状態でセルーリアス海を渡るのは無理だ。
衝角が突き刺さった後は白兵戦が待っている。
甲板の兵士に漕ぎ手たちも加えて、突っ込んできた船首部分から斬り込んでくる。
対するこちらはたった二人、いや一人か。
大勢で押し込んでこられたら一溜まりもない。
この状況で絶対に会いたくない相手。
どうか他の船でありますようにと祈っていると、雲の切れ間から差し込む月明かりがファンタズマの行く手を残酷に照らし出した。
……現れたのは二隻のガレー船だった。
「リル、さっきの影をまた出せるか?」
「うん!」
「それじゃ、あいつらの前に沢山——」
「えっ? ……それは……」
作り出せる影は一つが限界だった。
闇の精霊を呼び出せるのは凄いことなのだが、一つでは意味がない。
手分けして一隻ずつ突撃してこられるだけだ。
エルミラは目眩しを諦め、操船で回避することを決める。
実際の海戦で船の指揮を執ったことはないがやるしかない。
不安ではあったが、手立てがまったくないわけではない。
おそらく前方の二隻は、こちらが水流を噴射して横滑りや急停止できることを知らないはず。
追いかけてきた捜索隊と城壁の砲兵隊には見られてしまったが、いまのところ光などで海上の味方に知らせている様子はない。
この有利を活かす。
いつでもさっきのような動きができるよう、リルに用意を指示する。
シルフとウンディーネはすぐに現れた。
その間にエルミラは甲板下の船室へと降りていく。
こちらとガレー船はまだ離れているからすぐに戦闘が始まるわけではない。
いまのうちに何か武器を探してくるのだ。
宮殿から持ってきた剣はあるが、いまは銃が必要だ。
長銃が理想だが、なければ短銃でもいい。
ところが、探索は最初の船室から躓いた。
施錠されていて入れないのだ。
すぐに隣の部屋に向かうが結果は同じ。
心の中でリルに詫びながら蹴破ろうとしたが、頑丈でビクともしない。
——一体何の部屋なのか……
気になるが、いまは考えている場合ではない。
船内での反乱に備えてある程度の厳重さは必要だが、ここまで厳重だと敵の急襲時に不便だ。
例えば鍵の管理担当者が海に落ちてしまったら、誰も銃を取り出せなくなってしまう。
だから保管場所はここではないと見切りをつけ、他を探しにいく。
どうやら厳重だったのはさっきの区画だけで、他は基本的に鍵すらついていないようだった。
それらの部屋を次々と探していくが銃は見つからなかった。
ほとんどの部屋が空き部屋だったからだ。
新造船のようだし、備品を搬入する前に接収されてしまったのだろうか。
だから銃も見つからないのか……?
一室一室、空き部屋を確認していくうちに、そんな諦めが浮かんでくる。
それでも次の部屋こそはと希望を持ち、直後に落胆する。
そんなことを繰り返しながら、彼女は船尾の船長室にたどり着いた。
この部屋には船長の私物がいろいろ置いてあるはずだ。
リルの親がどんな船長だったか知らないが、短銃くらいは持っていただろう。
壁に飾ってあるか、あるいは机の引き出しの中に。
——もし接収が私物を運び込む前だったら……
不吉な予感が過ぎったが、勇気を出して扉を開けた。
扉の向こうは……
空き部屋ではなかった。
閑散としているが机や棚など、一通りの物が揃っている。
だからといってその中にお目当ての物があるという保証はないのだが、それでも希望が繋がったことを喜んで探索を始めた。
入り口から部屋を一望し、壁には飾っていないことを確認する。
この時点で長銃発見の可能性は消えた……
ならば、あとは短銃。
入り口に近かった棚に駆け寄り、引き出しを下から順に開けて探していく。
……ない……
ほとんどの引き出しが空で軽く、重い引き出しは何か書類が入っているだけだった。
しかし嘆いている暇はない。
早く何か見つけて甲板に戻らねば。
棚の確認が済むと次は机へ。
また下から引き出しを開けていく。
すると——
「これは!」
大きめの引き出しに留め金付きの木箱が入っていた。
短銃が入っていても不思議ではない大きさだ。
急いで留め金を外して蓋を開く。
中身を見たエルミラは息を一つ吐いた。
落胆の溜め息ではない。探し物が見つかった安堵の一息だ。
そこには短銃が二丁。
一つは普通の短銃。
もう一つは……
「なんだ? この銃は……」
それは水晶の銃だった。
形状と重量は一緒に入っていた通常の短銃とほぼ一緒。
銃床は木製で、金属は僅かに引き金と細かな部品のみ。
特徴的なのはその銃身。
滑らかに磨かれた細い筒状の水晶でできている。
これを考えた人間の意図がわからない。
こんな銃身の中で火薬が炸裂したら砕けてしまうだろう。
一体何を装填して撃つつもりだったのか?
そして撃鉄がないのにどうやって発射するのか?
用途も使用方法もわからないが、とりあえず持っていくことにした。
たぶん親の銃だったのだろうから、リルが何か知っているかもしれない。
それよりもいまは普通の短銃が手に入ったことを喜びたい。
こちらはよく知っている物だ。
箱の中には弾薬も入っていたので、すべてポケットに突っ込んだ。
——これで戦える!
手錠のせいで魔法は使えないままだが、これで何もかもリル任せという不甲斐ない状況は解消される。
エルミラは甲板へと急いだ。
***
階段を駆け上がり甲板に出ると、強い海風が顔を叩いてきた。
遅くなったことを詫びると、リルは何かを指差していた。
「さっきと違うみたい。何て言ってるの?」
少女に促されて前を見ると、ガレーはこちらに向けて発信しているようだった。
暗号ではなく、万国共通の信号で送ってきている。
内容は——
「停船セヨ。抵抗スレバ撃沈スル」
読んでやると少女の表情は強張った。
信じられない大魔法の使い手ではあったが、初の実戦。
エルミラも初陣のときは内心怖くて普段通りに動けなかったものだ。
いまのリルはそのときの自分より年少だ。
港からの脱出も恐ろしかったはず。
短銃に弾薬を装填しながら少女を落ち着かせた。
白兵戦はもちろん、一門しか撃てない状態では砲撃戦も無理。
だからあいつらの相手などせず、さっさと外洋へ逃げる。
ただし、そのためにはさっきのような精霊を使った操船が必要になる。
「頼めるか? リル」
「うん!」
少女の表情はまだ固かったが、その目に怯えはない。
決意を込めるかのように、舵輪を力強く握り締めた。
月下の帝都沖追撃戦。
ファンタズマの方針は全速離脱と決まった。
あとはしつこそうな追手をどう振り切るか……
風と波は変わらず、洋上から陸に向かっている。
警備艦隊の二隻は洋上から急行してきたので風上を押さえている。
対するこちらは風下。
ジグザグと切り上がっていかなければならない。
ガレーが第一に衝角で狙う箇所は敵船の横腹。
そんな相手の前で右へ左へと舵を切り、わざわざ横腹を晒しながら近付いていかなければならない。
しかしファンタズマは風上に向かって順走できる。
さらに帆走の他に水流噴射による特殊な操船もできる。
これらの特殊能力でうまく二隻を躱すことができれば、風上を取れる。
ガレーは人力なので逆風に向かって進めるが、それは楽に進めるという意味ではない。
いままで沿岸をあちこち漕ぎながら哨戒し、騒ぎに気が付いて急行してきたのだからすでに疲労しているはず。
そこへ逆風が追加されたら漕ぎ手たちの疲労は加速し、船の速力は一層落ちるだろう。
風上を取れれば、地の利はこちらに傾くのだ。
シルフの力で速力を上げ、二隻を引き離すことができる。
そこでエルミラが考えた作戦はこうだった。
とりあえず、通常帆船の振りをしてジグザグ航行する。
そしていよいよ突撃してきたら、さっきのような特殊操船を行って衝角を躱す。あとは一気に離脱。
リルは「わかった」と了解した。
ガレーは猛牛に例えられるが、動かしているのは人間。
興奮した牛と違って人間は相手の動きを予測し、衝突の瞬間まで細かく軌道修正しながら突っ込んでくる。
作戦の成功は二人の阿吽の呼吸にかかっていた。
そこで帆と舵の号令については従来通りで問題ないが、ファンタズマ独特の水流噴射については指示を統一しておかなければならない。
簡単に話し合った結果、船首を方位〇度として数字で指示することに決まった。
右舷から噴射したければ「方位〇九〇、水流噴射用意!」といった具合だ。
打ち合わせを終えるとエルミラは取り舵を指示し、船首に走っていった。
到着すると舷側の縁に身を隠して前方の海を睨む。
そこには月明かりに照らされた百足のような艦影が二つ。
両者の距離はかなり狭まったようだ。
ガレーの強力な武器である衝角攻撃。
当たれば相手は被害甚大だが、やる側もかなりの衝撃がある。
もし衝撃で大砲の点火棒を弾薬に落としてしまったら大惨事になる。
ゆえに衝突時、固定できる物はすべて固定して衝撃に備えるのだ。
また船首を相手に向けて突っ込むのだから、舷側は相手に向いていない。
だから砲撃はないと予測していた。
砲撃がないとすると、警戒すべきは突撃からの斬り込み。
使わない大砲を引っ込めた代わりに、空いた甲板には斬り込み要員がひしめいていることだろう。
だから混雑して避けられない甲板を銃撃してパニックを狙う。
真の海兵ならその位で動じたりしないから虚仮威しにもならないが、この国の海兵は練度も意識も低そうだ。
試してみる価値はあった。
自分が立てた作戦を振り返っている間もファンタズマは取り舵回頭中。
正面に見えていたガレーがファンタズマ右舷に移動してきた。
同時に風も右舷から吹きつけてくる。
普通の帆船にとってちょうど良い風向きになった。
「舵、戻ーせー!」
エルミラは船尾のリルに聞こえるよう船首から声を上げる。
船は左折をやめて直進に変わった。
「針路、このままー!」
すぐに船尾から、
「よーそろー!」
と元気よく返事が返ってきた。
いまのところ、少女に怯えはないようだった。
その間も警備隊からの警告は続いていたが無視していた。
するとついに信号が止み、代わりに鐘が打ち鳴らされた。
まるでこちらの態度に腹を立てているような剣幕で……
——来る!
巡航時は風力も利用するが、交戦時は風が邪魔になるときがあるので帆を畳んで人力のみで航行する。
月明かりの下、展開していた三角帆を畳んで平べったい印象のシルエットに変わった。
向こうも方針が決まったようだ。
臨検ではなく撃沈する——と。
二隻は横に並んだ単横陣で迫っていたが、戦闘態勢に入ってからは縦一列の単縦陣に陣形を変更した。
まず通常通り、一隻目が突撃する。
当たればそれで良いが、躱されたらどちらに回避するかをよく見てから二隻目が突撃する作戦のようだ。
速力を上げた一隻目を先に行かせ、二隻目はその後を緩やかに追走していく。
敵もなかなか用心深い、とエルミラの表情は曇った。
できれば横一列で突っ込んできてもらいたかった……
大きく外側を回り込み、追いついて衝角で突っ込んできたら急加速、もしくは急旋回で躱す。
そして避けざま、敵の操舵手を撃つ。
すぐに誰かが交代するだろうが、方向転換して戻ってきたときにはこちらが風上をとっている。
もう一隻は相手をせず、予定通り逆風を順走してそのまま振り切る。
これが作戦だった。
ファンタズマの能力をもってすれば、一隻目を躱すことはそれほど難しくない。
問題は二隻目だ。
単横陣形を維持しながら来るならば問題なかった。
能力を見られてしまうが、そのまま置き去りにすれば良い。
こちらを追撃するには進路を妨害する一隻目を迂回しなければならず、その間に戦域を離脱できる。
しかし相手は人間。
思惑通りに動いてはくれない。
作戦が潰れたことに少なからず動揺したが、気持ちを切り替えた。
間近に一隻目が迫っている。
こちらも必ず躱せると確約されているわけではない。
操船を誤れば衝角の餌食になるだろう。
——二隻目のことは一隻目を躱してから考える!
いまは間近の敵に集中することにした。
エルミラはしゃがんだまま頭を上げて敵艦の様子を伺う。
戦闘態勢に入ったガレーは加速中。
暗いが甲板の様子も薄らと見えてきた。
甲板の前半部で黒い影がゾロゾロとひしめいている。
斬り込み要員たちだろう。
彼らが最初に突入し、後から甲板下にいる漕ぎ手たちが武器を持って続いてくる……
やはり一人で退けるのは無理だ。
「面舵用ー意っ!」
風の音に負けないよう、船尾に向かって叫んだ。
すぐに元気な復唱が返ってくる。
西のブレシア帝国と東のリーベル王国はセルーリアス海を挟んで向き合うように位置している。
帝都を出航し、東に直進したが沿岸警備隊に捕捉されて左へ舵を切ったので、いまは北上していた。
だからどこかで面舵を切り、東に進路を戻さなければならない。
敵もそれがわかっているから、舵を切るのを待っているようだった。
ファンタズマの特殊能力を見れば敵は驚き、混乱するだろう。
それでも人間は見たものに対して何らかの対応をしてくる。
ゆえに意表を突けるのは一度だけ。
舵を切らずに直進を続けた。
先頭のガレー、〈コアフィーラ号〉は相手の転舵に備えて斜めに接近していたが、もはや転舵はないと判断したようだ。
増速した後、こちらの船体に対して直角に進路をとった。
それを見たエルミラは頃合いと判断した。
「面舵一杯っ!」
続いて、
「方位二七〇、水流噴射用ー意!」
指示を受けたファンタズマはグググッと右へ傾きながら、旋回を始めた。
対するコアフィーラも舵を切って合わせてくる。
そのため両艦の位置関係はほぼ変わらず、右舷前部あるいは船首付近に衝突するのが確実となった。
これで不審船を逃すことはない。
あとはできるだけ直角に近い角度で衝突するだけ。
コアフィーラの操舵手は今頃そう考えているだろう。
見事な操船だった。
帝国海軍は士気も練度も低いと思ったが、港の警備兵と毎日海に出動している者では違うようだ。
舵を切り過ぎれば船体が傾き、斬り込み兵で溢れかえる甲板を敵舷側砲の前に晒すことになる。
そこで甲板をできるだけ水平に保ちながら詰め寄ってきた。
これで、こちらが東に転針しようとする限り、絶対に衝突する。
いやなら、いますぐ取り舵に転舵して風下に回るしかないが、それでは帝都に戻ってしまう。
コアフィーラは敵の右舷に突っ込む予定だったのを、左舷に変更するだけだ。
無理に撃沈しようとせず、帆船に下手回しを繰り返させ、このまま陸へ追い込んでいけばよい。
普通の帆船ならば詰んだと言わざるを得ないが、エルミラの狙いはまさにそこだった。
ファンタズマは衝角から逃れようと、懸命に右回頭しているがもう間に合わない……
このまま右船首付近に衝突されるようだ。
彼女の眼前にガレーの大きな船首が迫る。
衝突と同時にこちらに乗り込んでくるつもりなのだろう。
斬り込み兵たちが甲板で鬨の声を上げているのが、エルミラのところまで聞こえてきた。
右舷側でしゃがんでいた彼女だったが、突如、一人だけ助かろうとするように左舷側に走っていった。
しかし、これは断じて恐怖に駆られて逃げたのではない。
到着するとすぐに振り返って叫ぶ。
「左舷、水流噴射ー!」
左舷側水面下、港で横滑りしたときの白波が湧き起こる。
直後、「ドンッ!」という弾き飛ばされるような衝撃と同時に、ファンタズマは予測されていた旋回軌道から右へ大きくズレた。
初回は衝撃の大きさを知らずに甲板上を転がったエルミラだったが、今度は耐えた。
用心深く先を読む艦長のようだが、さすがにこの反則は予測していなかったようだ。
コアフィーラ甲板上の全員が呆気に取られていた。
その隙にファンタズマは舵を戻し、ガレーの左側を通り過ぎていく。
そこで船首のエルミラは用意しておいた短銃を構えた。
狙いは敵操舵手。
お互い、逆方向に進んでいるので物凄い速度ですれ違っていく。
銃の訓練も受けているが、狙撃手になれるような腕前ではない。
だから当てる自信はまったくない。
しかし、ハズレでもいいのだ。
当たらなくても付近に着弾して一瞬でも怯んでくれれば、それだけ回頭が遅れる。
心を落ち着け、片目を瞑ってよく狙う。
引き金に掛けた指に力を込めて——
パァァァンッ!
エルミラの短銃が火を吹いた。
敵船尾は騒然となり、その場に居合わせた者たちは皆伏せた。
果たして銃弾の行方は?
どうやら操舵手には当たらず、舵輪に命中したようだった。
だが横を抜き去る寸前、何かに驚いて舵輪から手を離す操舵手が見えた。
漕ぎ手たちに甲板の様子はわからない。
変更指示がない限り、この進路で正しいと信じて力一杯漕ぎ続けるので、みるみる遠ざかっていった。
コアフィーラはこれで片付いた。
***
先頭艦の対処を終えると、続けて後続艦に取り掛かる。
僚艦がどう躱されたか、見ていたことだろう。
きっと横ズレも計算に入れて突撃してくるはずだ。
まだまだ気を抜くわけにはいかなかった。
二隻は単縦陣だった。
先頭艦を抜いたのだから、後続艦は前方にいるはず。
短銃に次弾を装填しようと薬包を取り出しながら、船首前方の海を見渡す。
後続のガレーはすぐに見つかった。
彼女の読み通り、左舷前方に。
だが……
その待ち構えている艦影を見てエルミラは呻いた。
「まずい……」
状況を即座に理解した彼女は間髪入れず船尾に叫ぶ。
「取り舵一杯っ!」
指示を受けて先ほどとは逆に、船体が左へと傾いていく。
一度見られてしまったが、それでも
それにまだ後続艦との距離は離れており、慌てる時ではないはずだ。
一体何が彼女を焦らせたのか?
彼女にまずい、と言わしめた後続艦。
先頭艦の艦長は用心深い人物だったようだが、後続艦〈ルージレン号〉の艦長はそれ以上だった。
単縦陣では、前の艦に付いていくのが普通だ。
だから先頭艦を躱せば、すぐに後続艦の船首が見えるはず。
ところがエルミラの目に飛び込んできたのは右舷側。
ルージレンは途中で取り舵に転舵し、僚艦に対して丁字になる位置で停船していた。
何のために?
答えはすぐに教えてくれた。
砲炎と轟音で……
ドンッ——!
最初の大砲が火を吹くと、隣の大砲も順次砲撃を開始していく。
ドンッ、ドンッ、ドンッ——!
「砲撃だ! 伏せろ、リルッ!」
船尾に叫ぶとエルミラ自身もすぐに伏せた。
リルもその発砲炎を目撃していたので、彼女の指示は聞こえている。
しかし、少女は伏せない。
「リルーッ!」
エルミラの大声は聞こえていたが、闇夜の中をこちらに飛んできている砲弾を睨みながら静かに、
「ノーム」
するとマストの辺りに立派な髭を生やした鉱夫姿の小人が現れた。
土の精霊だ。
精霊は右舷の方を向くと、両手で足元から上に向かって何かを持ち上げるような仕草をした。
そこへ敵艦からの砲弾が飛来する。
たとえ熟練の砲手であっても、常に揺れる甲板から離れた相手を狙うのは難しい。
通常、初弾は命中しないことが多いのだが、今回は砲手たちに運が味方していたようだった。
初弾にも関わらず、ほぼ全弾が命中する軌道を通っていた。
砲弾たちがファンタズマの右脇腹を貫通しようとしていた。
まさにそのとき——
ノーム前方の舷側に土壁が現れた。
分厚い土壁は船首と船尾に向かってあっという間に広がっていく。
そこへ着弾!
ボスンッ!
ボンッ!
という粘土に鉄球を力一杯叩きつけるような鈍い音。
そのうちの一個が辛うじて土壁を突き抜けることに成功したが既に威力はなかった。
伏せているエルミラの前をコロコロと転がって海に落っこちた。
砲弾の勢いを殺した土壁は役目を終えたのか、ボロボロと海に落ちていった。
マストの傍にいたノームはいつの間にかいなくなっていた。
またもや大魔法だった。
複数の精霊を呼び出すリルは精霊使いだと確信した。
各種の精霊を呼び出すことはもう不思議ではない。
その上で大魔法だと驚いたのは、海上でノームを呼び出したことだ。
エルミラは魔法剣士なので付与魔法については知っているが、系統違いの精霊魔法については一般人の知識とそう違わない。
それでもノームを召喚したければ、土の力が強く働いている場所でなければならないということは知っている。
つまり大地ということだ。
しかし、ここは海。
見渡す限り水だらけだが、どこに土の力が働いているのか?
不思議ではあったが、いまはその疑問を頭の片隅に追いやる。
あとで話してもらうとして、まだ終わってない戦闘に集中しなければならない。
伏せた状態から起き上がり、船尾を振り返る。
「リル! 無事か?」
「うん!」
元気に右手を振ってきた。
安心したエルミラは次の指示を出す。
砲撃を受ける際、ファンタズマは左転舵中だったので、面舵を切り、東に進路を戻さなければならない。
「舵戻ーせー!」
すぐに面舵転舵したかったが、落ち着いて左旋回の惰性が治まるのを待つ。
出航してからずっと非常識な操船の連続だった。
助かるために致し方なかったが、船体にかなりの負担が掛かったはずだ。
特に心配なのが舵だ。
意外と頑丈に作ってあるのかもしれないが、それを実戦中に試してみようとは思わない。
それにいまの防御も見ていたはずだ。
無駄な砲撃は諦めて、衝角攻撃に切り替えてくるだろう。
また無理な操船をしなければならない。
だから余計な負担を掛けず、惰性が治るのを待ってから面舵を指示した。
幸い舵に異常はなかったようで、滑らかに右へ傾きながら回頭していく。
風向きは逆風になったが、ファンタズマには関係ない。
砲撃を終えたルージレンはまだ停船中だが、こちらは右旋回しているため、船尾に見えていた艦影が中央に移動していく。
そのまま進み、ガレーの艦尾後方を東へ通過しようかという頃、海水に浸かっていた櫂が一斉に持ち上がった。
追撃再開だ。
「進路、このままー!」
リルに現進路の維持を指示しながら、エルミラはガレーがどちらに転舵するのか注視する。
左旋回してくれればファンタズマに対して直角に位置することになる。
衝角で突撃する絶好の位置だ。
対してこちらは
さっきの先頭艦より余裕をもって回避できるだろう。
これは決して慢心ではない。
もう能力を隠しておく必要がなくなったからだ。
では、右旋回だった場合は?
彼女たちにとって厄介なことになる……
エルミラはそこで考えるのをやめて軽く頭を振った。
左方向へ逃げている相手に対し、わざわざ右旋回を選ぼうとはしないだろう。
遠回りになってしまう。
追いかける人間の心理としては、少しでも近付きたいと考えるはずだ。
ならば左旋回を選ぶはず。
それでも一抹の不安を拭うことができない。
視界を横に流れていくガレーの後ろ姿から目が離せなかった。
彼女の心配は杞憂に過ぎないのか?
それとも……
ザァンッ!
持ち上がった櫂が前方の海面に差し込まれ、そこにある水を後方へと追いやる。
左舷側の櫂だけが——!
右舷側はその逆の動きをしている。
彼女が心配していた右旋回だった……
さらに追い討ちをかけるように、ガレー甲板上で変化が起きた。
それを見てとったエルミラは船尾に走りながら叫んだ。
「リルッ、速度が上がるものはシルフでもウンディーネでも、何でも全部呼び出せっ! 全速前進っ!」
すでにファンタズマは全速だったのだが、そう叫ばずにはいられなかった。
彼女が慌てた敵甲板上の変化、それは——
接舷まで待機していた斬り込み要員たちが一〇人程度を残して、すべて甲板下に降りていったことだ。
甲板下には漕ぎ手座がある。
甲板の兵士たちがそこに降りていったということは、漕ぎ手を増やして速度を上げるということ。
交代もできるから、疲労による速度低下の問題も解決されてしまった。
***
右へ急速回頭中のルージレンの艦長は甲板で踏ん張りながら、小さくなっていく脱走船を鋭く睨む。
——こいつはたぶん魔法艦というやつだ。
さっきの衝角攻撃が外れたのは僚艦の失敗ではない。
この小船は普通ではないのだ。
衝角を当てようというのがそもそもの間違いだった。
帝国にはなかったが、リーベル海軍には魔力を付与した魔法艦が配備され、常識では考えられない能力を発揮していたという。
目撃したのは横滑りだが、きっとそれ以外の動きもできるはず。
対してこちらは一直線に突き進むしかない。
こういう相手に衝角で一撃必殺など横着をしてはいけなかったのだ。
——小さく細かく砲弾を浴びせてボロボロにしてやるしかない。
そう考えて待ち構えていたのだが、その砲弾も土壁で凌がれてしまった……
帝都にリーベルから接収した船が到着した日、どれほどすごい新鋭艦なのだろうと好奇心から見に行ってみた。
するとそこにあったのはただのちっぽけなスループ。
取るに足りん、と鼻で嗤ったものだった。
いま、そのときの自分を深く恥じていた。
目を見張る何かがあったから、遠征した連中は研究のために持ち帰ってきたのだ。
その意味をよく考えなければいけなかった。
小船の姿に騙されてはいけない。
相手はリーベルの最新鋭魔法艦。
まだ何を隠しているかわからない。
艦長は小船を格上の敵と認めた。
衝角も砲撃も効かない格上の相手にこちらが唯一勝っているもの。
それは兵士の数。
だから何をされようと、耐えてくっつき兵士を送り込んで制圧するしかない。
並走からの接舷——
それが慢心を悔い改めた艦長の方針だった。
引き離されてしまったが、これから一気に追いついてみせる。
回頭が完了すると、艦長は肺一杯に息を吸い込んで漕ぎ手座に向かって叫んだ。
「全速前進っ!」
「オオオォォォッ!!」
命令に対して漕ぎ手たちは勇ましい雄叫びを一斉に返した。
それは遠く離れたファンタズマのエルミラたちにも届いた。
まるで大きな猛獣が咆哮をあげているかのようだ。
そこから爆発的な加速が始まった。
遠目にもわかる。
長い船体から伸びる沢山の櫂が、小枝でも振り回しているかのように軽々と動いているのを。
まるで旅人を襲って喰らうという大百足のようだ。
その猛追撃を船尾から見ているしかないエルミラは居ても立ってもいられず、前方の帆を見上げた。
——もっと速度がほしい。
しかし、見ればすべての帆はシルフの風を一杯に含んでいた。
一枚として緩んでいる帆はない。
すでに全力航走中だ。
これ以上を望めば、強度が保たずに破けてしまうかもしれない。
また
速度を合わせながらジワジワと寄せてこられては逃げられない。
エルミラは何か打つ手はないか、と考えを巡らした。
訓練で学んだこと、魔法兵団に所属してから積んだ経験——
それらの知識を総動員して考えるが、この危機を脱する手立ては何も浮かばない。
大百足の姿をした絶望が少しずつ、少しずつにじり寄ってくる……
もはや思考を放棄してしまった彼女の脳は、代わりに別の考えを提案してくる。
それは一度浮かぶと、一つが二つ、二つが四つ、とみるみる増殖して頭の中を埋め尽くす。
逃げるときに絶対考えてはいけないこと——
増殖したその考えが頭の中で収まりきらなくなると、彼女の口から漏れ出でた。
「もう、ダメだ……」
短銃を握る手から力が抜けて、甲板にゴトリと落ちた。
もう次弾を装填しても仕方がない……
ルージレンは更に接近し、その後方では躱されたコアフィーラが同様に漕ぎ手を増やして合流を目指している。
逃亡計画は失敗したのだ。
舵輪を握っていたリルも後ろを振り返っていたので状況は理解していた。
エルミラ任せではいけない、と何か知恵を出そうとするが何も浮かばなかった。
無理もない。
軍人としての訓練も教育も受けていない子供では、何をどうすればよいのかわからない。
自分の無知がもどかしい……
せめて指示を受けたらすぐに動けるように備えておこう。
少女にできることはそれが精一杯だった。
短銃は、そのときに落ちた。
前を向いて操船に集中していたリルだったが、重い衝撃が甲板の床板から伝わってきた。
思わず振り返ると、そこには呆然と立ち尽くしているエルミラの姿が。
尋ねずともガレーを見る横顔が語っていた。
万策尽きた、と。
彼女に策がないなら、リルも運命を共にするしかない。
舵輪から手が落ちた。
二人とも何も語らない。
この戦いが敗北であることは理解している。
あとは降伏するか、命ある限り抵抗するか。
リルは俯いてしまった。
自分は船を置いていくわけにはいかないが、彼女は違う。
陸路も難しかったかもしれないが、海と違って隠れることもできる。
だから彼女は作戦会議で陸路と言っていたのだ。
それを海に引っ張ってきてしまった……
このあと、ガレーから大勢乗り込んできて話どころではなくなってしまうだろう。
そうなる前に一言詫びようと俯いていた顔を上げた。
「エル……」
少女は最後まで「エルミラ」と言うことができなかった。
顔が上がっていくのと一緒に足元から上へと視線も上がっていったが、腰の高さまで来たとき、そこにあるものに気がついたからだ。
少女の目に飛び込んできたもの。
それは、船長室から短銃と一緒に持ってきたあの水晶銃だった。
「その銃——!」
リルの大きな声にエルミラは我に返った。
銃と言われて、短銃を右手から落としていたことに気がついた。
「あぁ、すまない」
戦場で放心状態に陥った未熟を恥じた。
短銃を拾い上げようと屈むと、さらに少女の声が続く。
「違う! 後ろのやつ」
屈んでいたエルミラは拾い上げる動きが止まる。
あまりに真剣な声だが、その「後ろのやつ」がわからないので少女を見上げた。
顔のすぐ前には少女の細い人差し指があり、何かを指し示しているようだった。
——何かあったか?
少女の視線と指先を辿ってみると、どうやら背中の腰のあたりのようだ。
手を伸ばしてみると、何か筒状のものが触れる。
訝しみながらも腰から引き抜いて正面に持ってくると、それは短銃と一緒に入っていた銃のような物だった。
操船指示と狙撃に集中していたので、すっかり忘れていた。
リルに用途を尋ねてみよう、と船長室で後ろの腰に差してきたのだった。
「ああ、下で見つけたんだ。何か知っているのか?」
彼女はこれが一体何なのかもわからなかったが、リルは違う。
それが何なのか知っているし、当然使い方もわかっている。
少女の目に光が戻ってきた。
「あっちに向かって構えて!」
そう言うと彼女の腰に向けていた人差し指をガレーに向けた。
理解できていないエルミラは内心混乱してはいたが、指示通りにその銃のような物を素早くガレーに向けた。
その姿勢のまま少女に話しかける。
「リル、これが何なのか私にはわからないが、たぶん何も装填されていないと思うぞ」
「わかってる。ちょっと待ってて」
暫し意識を集中すると、また新しい精霊を呼び出した。
「フラウ」
現れたのは氷の精霊。
その小さな白雪のような少女はフワフワと空中を漂うと、水晶銃の横に定位した。
すると銃身が薬室の辺りから銃口に向かって凍っていく。
「リルッ!?」
「大丈夫だから安心して。手は冷たくならないから」
確かに少女の言う通りだった。
冷気は銃身から漂ってきていたが、それ以外の銃床や握りからは伝わってこなかった。
凍傷の危険はない、と安心した頃には霜が銃口に達した。
魔法剣士である彼女は
これは紛れもなく銃だ。
ただし火薬と弾丸ではなく、魔力を装填して撃ち出す銃だ。
それならば水晶製の銃身も合点がいく。
水晶は魔力を高めるから、少ない魔力でも水晶筒に込めて増幅してから発射すれば、大きな威力を生み出せる。
これはそういう武器だった。
「ガレーの手前の海面を撃って」
氷の装填が完了すると、リルはその銃で撃つべき箇所を指示した。
「……なるほど」
エルミラは少女の作戦を理解し、ニヤリと笑った。
さっきまでの絶望感はもはやない。
引き金に指を掛け、衝角のちょっと手前の海面に銃口を向けた。
よく狙って——
キィーンッ!!
金属で水晶を叩いたような透き通った音が響き、銃口から氷雪の塊が勢いよく飛び出す。
氷塊はまっすぐ飛んでいって着水すると、ビシッ、ビキキッという音を立てながら周囲の海水を急速に氷結させ、どっしりとした氷山を形成した。
***
いままで何もなかった進路のすぐ手前に突如現れた氷山。
いくら旋回性能に優れたガレーといえど、いまは全力航走中。
転舵も減速も間に合わない。
そう咄嗟に判断した艦長は漕ぎ手座に向かって叫ぶ。
「総員、衝撃に備えよっ!」
力一杯漕いでいたルージレンは勢いがついている。
まっすぐ氷山へ……
ゴガガガガッ!!
バキバキッ……!!
直後、艦体に走る激震。
突撃は当たり勝てれば相手に大打撃だが、負ければその勢いが全て我が身に返ってくる。
自慢の一本角は氷山を粉砕できなかった。
氷山の勝利だった。
あとは体当たりの掟通り、負けたガレーに自らの勢いが襲いかかる。
艦体はつんのめり、竜骨にヒビが入った。
衝角は氷山に突き刺さったまま折れ、勢いに乗っている艦体は氷山に乗り上げてしまった。
先端鋭い氷山は艦底を突き破り、艦首から艦尾に向かって引き裂く。
その穴から清水のように渾々と海水が湧き出てくると、漕ぎ手座は大騒ぎになった。
「水だぁーっ!」
「防水急げーっ!」
漕ぎ手たちの悲鳴が全区画から聞こえてくる。
被害報告を受けずとも、浸水箇所が艦全体を縦断していることは明らか。
艦長は航行不能を悟った。
「総員、退艦っ! 退艦急げっ!」
退艦命令を受けた全乗員は甲板に上がり、ボートを固定している綱に斧を振り下ろす。
ゆっくり下ろしている暇はなかった。
限られた時間内での懸命な退艦作業。
しかし、艦長はそこに加わらない。
彼は月明かりを頼りに、ランタンを灯していた。
まもなく彼の周りがボゥッと照らされると、右手に持って艦尾へ走った。
ガレーはすでに大きく傾き、床板もあちこち跳ね上がっている。
その中を懸命に走り、なんとか艦尾の欄干まで辿り着いた。
欄干の向こうは暗い海。
さらにその先にはコアフィーラがいる。
艦長は右手のランタンを一度高くかざしてからクルッと大きく円を描くと、僚艦も円をすぐに返してきた。
——近い。
反則のような操船で躱された後、猛烈に追い上げてきたようだった。
このままでは僚艦も同じ運命を辿る。
急いで信号を送った。
「氷山ニ注意セヨ」
僚艦からはすぐに了解が返ってきた。
続いて送る。
「敵ハ唯ノ小船ニアラズ。リーベルノ魔法艦ナリ」
再び了解。
「我、航行不能。敵ノ魔法攻撃ニ注意セヨ」
「我、貴艦ヲ救助ス」
「心遣イ、感謝スル。サレド我ニ構ワズ、貴艦ノ任務ヲ全ウサレタシ」
すぐには返信が返ってこない。
了解は少し経ってから返ってきた。
必要なことを全て伝えた艦長は交信終了の合図を送り、ランタンを消した。
「艦長で最後です! さあ、早くっ!」
艦の傾斜が止まらず、沈没まであと僅かだったが、艦長として総員退艦を確認しなければならない。
見ればガレーを囲むようにボートが点々と浮かんでおり、粗方、退艦したように思える。
だが、取り残されている者がいるかもしれない。
必死に腕を引っ張ってくる副官を振り切って、艦長は甲板のハッチを開けた。
「うっ……!」
と、思わず呻く。
ハッチを開くと下り階段があるのだが、あと三段程を残して水没していた……
「ご覧の通り、もし誰かいたとしても手遅れです! 急いでください!」
副官は強引に艦長を夜の海に突き落とし、追いかけるように自身も飛び込んだ。
二人は沈没に巻き込まれないよう、必死に泳いで近くのボートに拾われた。
ルージレンは全員が離れるのを待っていたかのように艦首から没していき、逆立ちするように艦尾が持ち上がっていく。
しかしヒビが入っている竜骨に、重たい艦尾を支えられるほどの強度はなかった。
乗員たちの見守る中で艦体は二つに折れ、一度持ち上げられた艦尾部分は支えを失って水面に落下した。
その衝撃は激しい水飛沫と大波を生み出し、まだ付近にいたボートを襲う。
ガレーに正対していたボートは耐えられたが、横向きだったボートは大波に飲まれて転覆してしまった。
再び夜の海に放り出された乗員たち。
パニックに陥った者が手近のボートに縋り付いてさらなる転覆を誘発していた。
なんとかその者たちを拾い上げて陸まで漕がなければならないが、どのボートもすでに限界だった。
あと一人でも乗せたらバランスを失って転覆するものばかり。
艦長も副官もできることは何もなかった。
そこへ追いついた僚艦が通りかかる。
沈んだ味方の仇を討つべく、全力航走——ではなかった。
櫂を遭難者にぶつけないよう、注意しながら微速前進で近付き、ボートの群れの付近に停船した。
ボートを下ろし、投げ出された乗員たちを次々と拾い上げていく。
信号の後、コアフィーラの艦長は直ちに追撃を断念していた。
沿岸警備隊の任務は不審船の取り締まりと撃沈だが、もう一つ重要な任務がある。
それは人命救助だ。
貴艦の任務を全うしろ、と言われたのでそうすることに決めたのだった。
信号によれば、相手はまだ何を隠し持っているかわからない新鋭艦。
無策のまま追いかけても同じ目に遭わされるだろう。
二隻共撃沈となれば、大勢の兵士たちが夜の海に投げ出される。
そのとき誰が救助に来てくれるのか?
それに、魔法艦の行き先は見当がついている。
東に向かっていたようなので、おそらくリーベルを目指しているのだろうが、そこはもうあの船の母港ではない。
駐留している帝国海軍に捕らえられるだろう。
海に漂う味方を見捨ててまで、いますぐ追いかけなければならない相手ではなかった。
救助活動は手際よく進んだ。
点呼を取ると全員揃っており、一人の行方不明者も出なかったのは幸いだった。
最後に艦長と副官が引き上げられ、彼らの任務は終了した。
振り返ると、魔力で生み出された氷山はすでに消え、魔法艦もいつの間にか離脱していた。
横に平行移動し、逆風に向かって順走する。
悪ふざけのような操船で散々に弄ばれた上、気がつくと影も形もなくなっていた。
まるで幽霊船のような相手だった。
「どう、報告したものか……」
「ありのままを正直に……伝えたら司令が怒るな」
この困惑をどう言葉に表せば司令に伝わるか。
思案に暮れる二人の艦長は甲板に立ち尽くしたまま、幽霊船が消えた海をいつまでも眺めていた。
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