6.異変

 ユーキは予定通り三日程で退院し、すぐに職場復帰した。

 その週には、延期になっていた美遊のテストと面談も行われた。

 美遊は、頭に包帯を巻いたままのユーキの姿に心痛めている様子だった。


 流石にあの課長も、あんな事が起こった後だからか、ちょっかいをかけては来なかった。教育部の廊下で僕らとバッタリ出会っても、逃げるように立ち去ったくらいだ。

 けれども、それがいつまで続くか分かったもんじゃない。


 ――そんな不安を抱えながら、更に一週間が過ぎ、一月最終週の面談の日がやってきた。


「やあ、おはよう二人共! 清々しい朝だね……まるで三日ぶりのお通じが滞りなく済んだ時のようなさっぱり感だ!」

「お前のその言葉で清々しい朝が台無しになったんだが……」


 ユーキの調子はすっかり元通りになっていた。けれども、その頭にはまだ包帯が巻かれたままだ。

 既に抜糸は済んだらしいけど、傷口の周囲の頭髪が短く刈られてしまっているので、それを隠す為らしい。

 ……元々ベリーショートだったとは言え、女性の髪を刈らざるを得ない事態を招いたあの課長に、再びむかっ腹が立ってきた。


 ――さて、その課長だが、今日も姿が見えない。まだユーキへの接触を自重しているのか、それとも。


「ユーキ、その後……どうだ?」


 あえて主語をぼかして尋ねてみる。するとユーキは爽やかそのものの笑顔を更に輝かせながら、意外な答えを返してきた。


「あはは、それがね清十郎。傑作……というと不謹慎なんだけど、課長の奴は昨日から

「……なんだって?」


 ――課長が入院した?

 何故だろう。なんだかとても、不穏な雰囲気を感じてしまう。


「昨日の午後だったかな。いつものように私の名前を呼びながらイチャモンを付けに来たんだけど、運悪く履いていたサンダルがすっぽ抜けてね。そのままスッテンコロリンと後ろ向きに倒れて、後頭部を床に強打したんだ。いやいや、あまりにも見事なコケっぷりだったから、一瞬何が起こったのか分からないくらいだったよ!」

「えと……それで、意識とかは?」

「ん? ああ、あのしぶとい課長が、そのくらいでどうにかなるもんか。結構出血して私と同じくらいに縫ったらしいけど、ピンピンしてるよ。まあ、それでも今週末は病院で安静にするはずだけどね」


 課長が自分と同じような目に遭ったのが余程痛快なのか、ユーキは朗らかに「ハッハッハ!」と笑っている。

 ――けれども、僕はちっとも笑えなかった。何故ならば――何故ならば、傍らにいる美遊が、蠱惑的こわくてきな悪魔のように妖艶な笑みを浮かべていたのだ。

 とてもユーキに倣って笑っている、と言ったような表情じゃない。どちらかと言えば、悪巧みが成功してしめしめと微笑んでいる悪女のようなそれだった。


「美遊……君、まさか……」

「ん? なぁに? せーちゃん」

「まさか……?」


 僕のその問いかけに、会議室の中が一気に静まり返った。

 高笑いしていたユーキも、「呪った」という物騒な文言に思わず眉をひそめている。

 それに対し、美遊は――。


「ええ、ちょこっと」


 なんでもないことのように、課長を呪った事実を認めた。


   ***


「ええと……じゃあ、課長の怪我の原因は、美遊がその『呪い』をかけたからだって言うのかい?」


 訝しがりつつ尋ねるユーキに対し、美遊は「うん、そうよ?」と悪びれもせず笑顔で答えた。

 ――背筋に寒気が走る。


 確かに、課長がユーキに対してやったことには僕も腹が立っている。何かしら痛い目に遭ってほしいという気持ちもあった。

 けれども、当のユーキが「穏便に済ます」と決意しているのだから、その意志を尊重しようと、美遊とも約束したはずなのに……。


「美遊、この前約束したことを忘れたのかい? ユーキが穏便に済ますと言ったんだから、僕らもそれを尊重しようって」

「いやね、せーちゃん。忘れてなんかいないわ」

「じゃあ、なんで……」


 美遊の考えていることが理解出来ず、渋面のまま問いかける。


「ええ、だからユーキちゃんが入院した件については私も我慢することにしたの。でも、を我慢する気はないわよ?」

「えと……どういうことだい?」


 美遊の言っている意味が分からず、思わず尋ねる。傍らのユーキも、美遊の言わんとしていることが分からないようで、首を傾げている。


「課長さんにかけたのはね、一種の呪詛返じゅそがえしなの。誰かに悪意を向けようとした場合、それが全部自分に返ってくる呪いよ。『因果応報』は『他人にやったこと』が自分にも返ってくる呪いだけど、こちらは『やろうとしたこと』が返ってくる呪い。

 あの人が怪我をしたというのなら、きっとまたユーキちゃんに酷いことをしようとしていた、ということよ……ざまあみろ、だわ」


 ニッコリと、天使のような笑顔を浮かべながらえげつない言葉を口にする美遊の姿に、ユーキと共に思わず震え上がる。

 ……あの課長が懲りもせずに、またユーキに悪さを働こうとしていたことも驚きだ。けれど、美遊がそれを予見して事前に「呪い」をかけていたことも驚きだった。もしや、先週廊下でバッタリ出会った時に、素早く仕込んでいたのだろうか?


「あー、美遊? その……君は私のことを守ろうとしてくれたんだろうし、実際に私は難を逃れたみたいだけど……それでも、もっと穏便な手はなかったのかい? あんなのでも私の上司だ。しょっちゅう怪我をされたら、多少は……うん、ほんの少しだけど仕事に支障が出る」


 ユーキにしては珍しく、奥歯に物が挟まったような言い回しで、優しく美遊を諭す。

 けれども美遊は、「何を言っているのユーキちゃん?」みたいな表情を浮かべて、首を傾げている。どうやら、僕とユーキが戸惑っている理由が全く分かっていないらしい。


「美遊……確認なんだけど、課長さんにかけた呪いというのは、『やろうとしたこと』が跳ね返ってくるものなんだよね?」

「ええ、そうよ?」

「その……それは例えば、『やろうとしたけど、実際にやったら失敗していた』ようなことも含まれるんじゃないのか?」

「ええ。実際にその目論見が成功するかどうかは関係ないわ。あくまでも『やろうとする』という意思自体が呪いの発動条件になっているわ」

「ああ……やっぱり……」


 美遊の言葉に納得しつつユーキの方へ目を向けると、彼女も僕の言わんとする所が分かったのか、小さく頷いていた。


 美遊が課長にかけた呪いは、「やろうと思う」だけで発動するらしい。

 つまり、、我が身に降りかかってしまう呪い、ということだ。


 例えば、課長がユーキの靴に何か転ぶような細工をしたとする。けれども、ユーキがその細工に事前に気付けば、彼女は転ぶことがない。つまり、課長の悪さは未遂で終わる。

 しかし美遊の呪いでは、課長は靴に細工をしようとした時点で呪いの効果を受けることになる。だ。


「いいかい美遊。課長が何か悪さを仕掛けてきたって、私だってそんなに馬鹿じゃないし油断もしてない。身の回りのものに細工されたって、事前に気付いてやるさ。……うん、だから課長の悪さは殆ど未遂に終わると思うよ? でも、その未遂に終わるはずだったものまでもが、当の課長の身に降りかかるというのは……怖い話だ。

 起こしたことには責任を取るべきだけど、起きてもいないことに対してまで責任を負わせるべきではないよ」


 つとめて優しく諭すユーキ。

 けれども美遊はやはりキョトンとした表情のままで、とんでもないことを言い始めた。


「えっ? でも課長さんはユーキちゃんを傷付ける可能性があるのでしょう? つまりはなのよ? ……


 ――美遊の心に巣食う「異世界」という名の呪いは、僕らが考えていた以上に深刻なものだった。


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