7.優秀すぎる彼女
穏やかな日常は、でも目まぐるしい勢いで過ぎていき……いよいよ美遊にとって、最初の「テスト」の日がやってきた。
人間、年齢を重ねると時間の流れを速く感じるようになっていくらしいけど……その話でいくと、僕と美遊の体感時間にも、大きな差があることになる。
同じ世界に生きて同じ家で暮らしていても、同じ時の流れは共有出来ていないなんて、どこか寂しい気がする――。
黒木家の本日の朝食は、パン。軽めに焼いたトーストにバターを適量塗って、更にお好みのジャムを塗って紅茶と共にいただく。
付け合せは軽めのサラダとスクランブルエッグだ。和食よりもお手軽で、すぐにエネルギーになる。
「はぁ~、やっぱり日本の白くてふわふわしたパンは美味しいわぁ~。お紅茶もいい香り……」
いつもの如く、心の底から「美味しい」を表現したような笑顔を浮かべながら、もぐもぐと朝食を平らげていく美遊。
スーパーの安売りパンでこんなに感動してもらえるのなら、市内の高級ベーカーリーのこだわり食パンを出したら、美遊はどんな表情を見せてくれるだろうか? なんて益体もないことを考えてしまった。
朝食を済ませて少し落ち着いたら、いざ出発。目指すはユーキの職場である、鎌倉市教育部だ。
教育部のある建物は駅近くにあるので、必然、僕と美遊は車で出かけることになる。
鎌倉駅前には駐車場が幾つかあるけれども、全体的に数が少なく、どれも手狭だ。おまけに朝から夕方まで、市街地の道路は非常に混雑するので、駅前へ出るのに自家用車ではなく路線バスを利用する人も多い。
けれども今回は、ユーキが駐車場を確保しておいてくれる手はずになっているので、心配ないはずだ……多分。
***
「やあ、来たね」
受付を済ませた僕たちを、ユーキが出迎えた。相変わらず男物っぽく見えるスーツに身を包んでいる。職場でもこうなのか……。
「美遊、勉強は捗ったかい? もし、あまり調子が良くないようなら今日は面談だけで済ませても――」
「――いいえ。ユーキちゃんが用意したテストを、きちんと受けるわ。大丈夫」
ユーキも美遊を凹ませたい訳じゃない。そういった気持ちから出た気遣いの言葉だったのだろうが、美遊はあえてそれを断ってみせた。
……そう言えば、美遊は昔から、ちょっと負けず嫌いな女の子だった。
「オッケー。じゃあ、こちらの部屋へ。清十郎ももちろん付き添うよね?」
ユーキの問いかけに、僕は静かに頷いてみせた。法律上はどうあれ、今の僕は美遊にとっての実質的な保護者なのだ。彼女の努力の結果を、きちんと見届けなければならない。
通されたのは、小さな小さな会議室だった。人が五人もいれば窮屈になりそうな部屋に、会議机とパイプ椅子が幾つか置かれている。
なんというか、ぎゅうぎゅう詰め感がある。
「さて、今日実施するのは、小五までの勉強内容を抜粋した簡易テストだ。今回は、国語と算数だけに絞ってある。……美遊は読み書きも少し不自由になっていると聞いていたからね、あくまでも、今現在の君の状態を把握する為の試験だと思ってほしい。
これを、午前中いっぱいで出来るところまで解いてもらいたい。――何か質問は?」
「……いいえ、大丈夫です」
キリッとした表情で答えた美遊の姿に何か感じ入ったのか、ユーキは何やらウンウンと頷くと、手にしていた数枚のプリントを美遊と僕とに差し出した。
どうやら、僕もテスト内容に目を通せ、ということらしい。
美遊はと言えば、先日揃えた少々ファンシーな筆記用具一式をカバンから取り出し、既に臨戦体制だった。
「準備はいいみたいだね……。よし、それじゃあ早速始めてくれ」
ユーキの合図で、遂にテストが始まった――。
***
――そして二時間ほどが経った頃、会議室には何とも難しそうな顔をしたユーキの姿があった。
その手には美遊が回答を書き込んだテスト用紙。もしや、テストの結果が思っていたよりも悪かったのだろうか?
「……どう、かな?」
ユーキが最後のプリントに目を通し終わるのを待ってから、美遊が尋ねる。
果たして、結果は――。
「参った……これは参ったね……全問正解だよ」
「――ああ、良かった。一応は自信があったけど、ユーキちゃん難しそうな顔をしてるんだもの。何か間違えていたかと思ったわ」
ユーキの言葉に、ほっと息をつく美遊。その表情は先程までの緊張感はどこへやら、いつもの笑顔に戻っていた。
僕はと言えば、「美遊は読み書きも不自由な状態から、随分と頑張ったのだな」等と呑気な感想を抱いていたのだけれども……次のユーキの言葉で、そんな気持ちは全て吹き飛ぶことになった。
「しかし驚いた。このテストにはこっそり六年生以降で習う内容も混ぜていたんだけど、それも全問正解だ。……美遊、もしかして私が渡したテキストを、全部消化したのかい?」
ユーキは何を言っているのだろうか? 「五年生までの内容」と言っていたテストに、六年生以降で習う内容も含まれていただって?
しかも、それを美遊が全問正解した? 渡されたテキストを全部消化した? あのテキスト類は、とても一週間弱で終わるような内容じゃなかったと思うんだが。
けれども――。
「――ええ。一通り読んで覚えたわ」
美遊はあっさりと、事も無げにユーキの言葉を肯定してみせた。
***
「私、実はね? 一度でも見たり聞いたりしたものを記憶することが出来るの」
『……はい?』
美遊の意外な告白に、僕とユーキの間抜けな声がハモった。
彼女は今、なんと言った? 一度見たり聞いたりしたものを、記憶できるって? ……それはもしや、噂に聞く「完全記憶能力」というやつだろうか?
「と言っても、完璧に、というわけじゃないの。十見聞きしたら、九は覚えられるくらい?」
「いや、それでも凄いよ! まさか美遊にそんな特技があったなんて……。もしかして、昔からそうだったのかい?」
自分で尋ねながらも、僕は少々違和感を覚えていた。
小学生の時の美遊は、勉強はそこそこ出来る方だったけど、際立って成績が良かったわけじゃない。そんな凄い特技があったのなら、もっと良い成績をとっていたはずだった。
「ううん。……これはね、あちらでの生活で自然と身に付いたものなの。言葉とか、呪術の知識とか……死ぬ気で覚えないと、本当に死んじゃうから。うん、必死でやってたら、なんか出来るようになっちゃったの」
「――っ」
少し照れるような表情を浮かべながら「種明かし」をする美遊だったけど、僕は思わず絶句していた。
……「死ぬ気で覚えないと本当に死ぬ」ような日常を、美遊は強いられていたのだ。断片的には聞いていたけれども、「異世界」での生活は本当に死と隣り合わせだったらしい。
その過酷な環境のおかげで「完全記憶能力」のような才能が開花したとしても、とても喜べるものじゃなかっただろう。
ユーキの様子を窺うと、彼女は今までに見たことのないような沈痛な表情を浮かべていた。
彼女は、美遊のカウンセリングの担当者でもある。「異世界」とそこでの美遊の暮らしについて、僕以上の情報を得ていてもおかしくはない。
彼女も美遊が強いられていたであろう、あちらでの生活を思って、言葉を失っているらしかった――。
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