6.平穏な日常(下)
スーパーで買物を終え、家に帰り着く頃には、既に日が暮れていた。
鎌倉ヶ丘にも街灯――というか防犯灯が沢山設置されている。けれども、斜面の上にへばりつくように建っていて、更には木々が目隠しをしている黒木家には、その明かりは届かない。
木々の間を縫うように伸びる階段の辺りは、必然真っ暗闇に近くなる。上り下りするのに懐中電灯は必須アイテムだった。
美遊に後ろから懐中電灯で照らしてもらいながら、買い物袋を両手に階段をエッサホイサと上がっていく。一人の時は首から下げるタイプのライトを使っていて、視界が悪いせいでよく
「独りじゃないって、いいな」なんてことを思いながら、階段を上がっていった。
***
今晩のご飯は、美遊のリクエストでカレーにした。
それも「辛口」が良いのだという。小学生の頃には精々「中辛」が限界だったはずだったけど……大丈夫だろうか?
美遊も手伝うと言ってくれたけれども、今週は勉強に集中してほしいと説得して引き下がらせた。
黒木家のカレーは、実に沢山の野菜を煮込むところから始まる。
すりおろしたピーマン、細かく切った茄子、キャベツ、セロリ、トマト等など。それらを大きな鍋でトロトロになるまで煮込む。
その傍らで、みじん切りした玉ねぎを飴色になるまで丁寧に炒めて、頃合いになったら鍋に投入。更に三十分ほど煮込む。
丁寧にアクを取ったら、今度はマッシャーでとろけきっていない野菜をつぶしていく。そこから更に煮込み、アクを取っていく。
次に、ニンジンやじゃがいも等のおなじみの野菜を一口サイズに切り、軽く炒めた後に、半分を鍋に投入。残り半分は取っておく。
野菜を炒めた油でシチュー用の牛肉を炒め、こちらは全部鍋に入れてしまう。そのまま更にコトコト煮込む。取ってあったニンジンとじゃがいもの残りも、あわせて鍋に投入。
肉がとろけてきたら、満を持してカレールウの出番だ。市販の何でもないルウを使うけれども、味を調えるのに色んなスパイスを使うのも黒木家流だ。コショウ、カエンペッパー、オールスパイス、ナツメグ、シナモン、クローブ……その他色々。スーパーで売っているようなスパイスは概ね常備してある。
味を整えたら、後は予熱でじっくりと味を落ち着かせる。
更に、今日は豪華なことに、ステーキ肉を別口で焼いて付け合せにする。一口サイズに切ったものをご飯に乗せて、その上からカレーをかけるのだ。
これは祖父が好きだった食べ方で……やはり美遊からのリクエストだった。
***
『いただきます』
食卓に二人の声が響く。
目の前には食欲をそそる香りを放つカレーライス。付け合せはレタスをベースにしたサラダと、もちろん福神漬だ。
「ああ、美味しそう……」
うっとりとした表情を浮かべながら、カレーを口に運ぶ美遊。リクエスト通り「辛口」にしたけれど、大丈夫だろうか?
――等と心配しながら見ていると。
「辛っ! せーちゃん、辛いわ!」
「わわっ!? やっぱり辛すぎたか!? ほら美遊、辛い時は牛乳を飲むんだ!」
予め用意していた牛乳をグラスに注ぎ、美遊に差し出す。唐辛子の辛さは、水では中和しにくい。こういう時は牛乳が一番なのだ。
けれども――。
「ううん、大丈夫……。辛いけど……とっても美味しいわ! うん、美味しい……」
牛乳には目もくれず、美遊は辛口カレーを口に運び続けた。
目の端に涙を溜めているのは、辛さのせいなのか。それとも――。
そしてそのまま、美遊は一皿目のカレーを綺麗に平らげてしまった。
「ああ、本当に美味しかったわ……。せーちゃん、おかわりしてもいい?」
「もちろんいいけど……美遊、大丈夫なのか? 相当辛そうに見えたけど」
「大丈夫よ。辛いものを久しぶりに食べたから、ちょっとびっくりしただけ……。あちらには、スパイスが無かったから……。うん、やっぱりカレーは美味しいわ!」
言いながら美遊は立ち上がり、カレーのおかわりに向かった。
「あちら」というのは、言わずもがな「異世界」のことだろう。なるほど、スパイスが無かったのなら、辛味というものと縁遠い食生活になるかもしれない。
――というか、そもそもまともな食事をとれていたのだろうか?
ここ数日、美遊の様子を見ていて気付いたのだが……彼女は食事の時が一番嬉しそうにしているのだ。何を食べても「美味しい」と感動しているように見えた。
(美味しいものを沢山食べさせてあげないとな)
僕の中にまた一つ、新たな目標が生まれた。
***
夕食の後は、二人揃ってテレビを見るのが、既に日課になりつつあった。
美遊が現代の文化や言葉を覚えるのに、テレビはうってつけだったのだ。……まあ、民放はバラエティばかりなので、主に
「未だに横長の画面には慣れないわね……」
「僕も最初は違和感あったけど、しばらくしたら慣れるさ」
三十年前には、まだワイドテレビ自体が(一部を除いて)存在しなかった。映画なんかは元々横長だったけど、テレビの画面は今ほど横長ではなかったのだ。
「ブラウン管が無くなって、テレビの殆どが液晶になったというのも、まだ信じられないわ。私の知ってる液晶画面って、白黒だったもの。あと、携帯ゲーム機とか。……本当に三十年も進んでしまったのね」
しみじみと呟く美遊の視線の先には、どこかの大統領の演説と、爆撃されるどこかの街の光景が映し出されている。
……僕らが子供の頃にもテレビから流れていた光景だ。これだけ観ると、時代が進んだようには見えない。
けれども確実に、僕らの時間は流れてしまっているのだ――。
***
「じゃあ、おやすみ美遊。あまり根を詰めないようにね?」
「おやすみなさい、せーちゃん。せーちゃんも、体を冷やさないようにしてね?」
「もうオジさんなんだから」と余計な一言を付け加えてから、美遊がドアを閉める。
美遊は今の時間から勉強を続けるらしい。読み書きが不自由なのが、どうにも悔しかったようだ。
「美遊こそ、風邪ひくなよ?」
既に閉じられたドアに向かって、ひとりごちる。
結局その晩、美遊の部屋のドアから漏れる明かりは、十二時近くまで消えることはなかった――。
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