第16話 クラウス、再びローザに会う
ローザに、自分のありのままの姿をみせ、生い立ちについても包み隠さず話すことにした。そのせいで、ぎくしゃくして気まずい雰囲気になってしまい、もう自分に嫌気がさして、二度と会おうとは言ってこないと思っていた。あきらめ半分に、クラウスの方から連絡してみると、再び会おうという返事が来た。つかみどころのない女性だなと思ったが、今度は趣向を変えて街へ行くことにした。街もクラウスが物売りをして歩いたなじみのある場所だし、華やかな雰囲気に浸れるかもしれない。
二人は馬車に乗って街まで行き、家並みが続くあたりで降りて歩いてみることにした。
「ローザ、ここも僕にとっては思い出の場所だ。牧場で牛乳をもらい街へ売りに来た」
「苦労の種は尽きませんね」
「そのころの苦労話ならいくらでもあります。何もかも食べていくためには、仕方なかったんです。今の生活からは考えられません」
ニコラから、昔の苦労話などお嬢様にはしてもわからないと言われていたことを、この時思い出した。またやってしまった。何と言われるだろうか。
「今のクラウス様があるのは、ブリーゲル男爵様のお陰なのですね」
「全くその通りです。住んでいた家を追い出され行く当てのなかった僕たち兄妹を快く受け入れてくれたのです。しかも養子にしてくれるなんて並大抵の事ではできません。ほら、この辺りもよく牛乳を売り歩いた場所です」
「ブリーゲル様は本当に心の広い方。今ではこんなに逞しくなられて、さぞかしクラウス様の事をご自慢に思っていらっしゃるでしょうね」
「そんな、僕など……まだまだ何もできないひよっこです。わからないことだらけです」
「まあ、ご謙遜されて……」
ローザは立ち止まり、熱いまなざしでクラウスを見つめた。
往来で立ち止まりクラウスもローザの方に向き直った。その時馬車が向こうからスピードを上げてこちらに向かっていた。ところがそれには全く気がつかなかったのか、三~四歳ぐらいの少女が何かに気を取られ、さっと道に飛び出し横切り始めた。
「あっ、可愛い子犬!」
少女は道路の反対側にいる子犬に気を取られて、どんどん歩いて行く。馬車は急にスピードを緩めることが出来ず、あと数メーター程のところまで近づいた。
「ダメだ!」
クラウスが叫んだ。その声で母親がようやく少女が道を渡り始めていることに気がついた。しかし足がすくんで動くことができない。
再び、クラウスが声を上げた。
「ああ、ニコラ! 渡っちゃだめだ!」
言うよりも早く、道路へ飛び出し少女を抱え上げ、反対側の地面へ思いきり突っ込み伏せた。その瞬間、馬車が目の前を通過していった。母親は叫び声をあげていた。
「ああ! エミリアっ、エミリアーー! 誰か助けて――!」
馬車はようやく止まり母親の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「エミリア! エミリア!」
母親は少女が馬車の車輪に跳ね飛ばされたのかと思い、名前を呼び続けた。馬車が通り過ぎた時、再び反対側を見ると、そこには少女とクラウスが倒れ込んでいた。誰もが動きを止めた。最悪の事態を予測し、すぐには動き出すことが出来なかった。
道行く人々の視線を受け、静かにクラウスは起き上り、少女に手を差し伸べた。
「さあ、この手につかまって起きて! 僕が抱き上げたから、挽かれはしなかったでしょう」
まるで、お姫様をエスコートする騎士の様だった。
あれ、なぜだ! なぜ俺は見ず知らずの少女を二コラと叫んでしまったんだろう。彼女の顔をよく見ると、ただ二コラに瓜二つだったのだ。
ああ、何たる失態。これで、ローザを傷つけてしまった。よりによって妹の名前を呼ぶなんて。ローザの顔を見ると、失望で歪んでいた。娘のエミリアの無事を確認した母親は、急いで駆け寄り抱きしめた。
「もう、お母さんのそばを離れてはだめよ! 馬車に挽かれたら大怪我をしてしまうのよ。運が悪ければ死んでしまうこともある。気を付けて! ああ、危険を冒してまで娘を助けてくださり、ありがとうございます! お怪我はございませんか?」
クラウスの方に向き直り訊いた。クラウスは手を広げ何ともなかったというように、ポーズを取った。母親は安心して娘の手をしっかりと握り歩き去った。
俺は力が抜けたようにふらふらとローザのそばへ寄ったが、彼女はまるで他人を見るような目つきで俺を見ていた。
「助かって……良かった。危ないところだった」
「あなたも、あんな危険なことをして。挽かれて、大怪我をするか、運が悪ければ死んでしまったかもしれないのに!」
ああ、それで茫然としていたのか。
「……しかも、今ニコラと叫んでいたわ! やはりあなたは……」
途中まで言いかけてローザはやめた。
ああ。俺にも何を言おうとしているのかが分かった。ニコラにそっくりなあの子を助けようと、自分の命も顧みず飛び込んでしまった。
ローザは俺の顔をキッと睨みつけた。
「咄嗟に浮かぶのは、妹の事なんですか! 私と一緒にいるのに!」
クラウスは、ローザの強い言い方にたじろいだが、すぐに反論することが出来なかった。
「そんなわけでは……」
「そうじゃないですか!」
こんな強い口調で言われるとは思わなかった。これもローザの一面だ。
「御免」
ああ、謝るところじゃなかった。なんて馬鹿なんだろう。
「もう帰りましょう」
二人は馬車に乗り家路を急いだ。馬車の中ではほとんど口を利かず、いつの間にか家の前に着いていた。
「もう、会いたくないですか?」
クラウスが訊いた。
「いいえ、またぜひお会いしましょう。私、きっと妹さんの事を忘れさせて見せます!」
それだけ言うと、屋敷の中へ消えていった。
ハーっ、全く大失敗だった。あの少女の顔は二コラにそっくりだったのだ。それとも俺はいつもあいつの事ばかり考えているのだろうか。この結婚がうまくいかなかったら、養い親のブリーゲル男爵夫妻はさぞかしがっかりするだろう。
帰り道は一人馬車の中で意気消沈していた。
ニコラはクラウスがデートに出かけて行ったあと一人家で考え込んでいた。このままクラウスが結婚しローザがこの家に来たら、自分のことを一番には考えてくれなくなるだろう。そんなことは当たり前なのだとわかっていても悲しくなる。ブリーゲル夫妻もそのつもりで自分の結婚相手を探している。ああ、なぜ二人は兄弟になってしまったんだろう。十六歳の今になって後悔を禁じ得ない。クラウスに、養子になるかどうか聞かれた時に何の迷いもなく返事をしてしまった自分の気持ちが悔やまれる。兄の結婚を前に、自分はどうすべきなのだろうか。
家の前に馬車が止まり、中から兄クラウスが降りてきた。気になって階下(した)降りて行く。
「クラウス、デートは楽しかった?」
「……まあ、それほどでも」
照れているだけ、それとも何かあったのだろうか。
「楽しくなかったの? 浮かない顔をしてるね」
「なかなか女性と付き合うのは俺には難しい」
「何かあったの?」
「そういうわけでは……」
大ありだったが、こんなこと二コラには言えない。
「そのうちクラウスの良さに気がつくわ。こんないい男性(ひと)はいないもの」
ああ、ニコラはそう思っていてくれるんだな。でも、そんな気持ちはそろそろ断ち切らなきゃいけないんだ。
「そうだよな。俺の良さにそのうち気づくだろう。お前もいい人が見つかるといいな」
突き放したような言い方をして、クラウスは一人自室にこもった。今日は二コラをからかう気にはならなかった。
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