第30話 偽試験官 vs 正試験官2

 翼綿玉の力強い羽ばたきに、風が逆巻く。真珠の煌めきが飛散した。


 さしものアウンもこれには踏み堪えねばならなかった。長靴が真珠砂に食い込む。滑りやすい砂地だったこともあり、徐々に足の位置がずり下がっていった。


 吹き荒れる突風に、破茶碗は激しく揺れ、外套の裾は大きくうねる。金魚鉢の水面は荒く波打ち、繋がれた羽綿玉は振り回された。


 比較的影響が少ない場所であろう、金魚鉢の中にいたイワシは、それでも水草に絡まっていた。運動音痴とは実に恐ろしい。理想を現実にするマホロバですら、理想が現実に叩きのめされている。


 巻き起こした風を大きな両翼で受け、翼綿玉は空へと舞い上がった。なるほど、重力の支配下にある以上、上方からの攻撃が有利となり、下方からの攻撃は不利となる。翼綿玉は飛べる者だが、人間は飛べぬ者だ、なおさら飛ばぬ道理はない。


 翼綿玉の巨体から繰り出される攻撃は広範囲に及ぶ。野生の本能で危険を感知したのか、あらゆる種類の魅たちが逃げ出していく。相撲鶏はばたばた、雪塊転はごろごろ、真平御綿はひらひら、怠人掌でさえとろとろと。砂地の穴から顔を覗かせていた砂漠蚯蚓メメズは、頭に被っていた綿毛のかつらを振り落として砂中に引っ込み、甲羅干しを堪能していた巾着蟹キンチャクガニは、鋏に挟んでいた綿毛のぽんぽんを放り出して水中に潜り込んだ。


 不死の太陽群が荒々しい炎色の祝福を注ぐ下で、翼綿玉が隙を窺うように旋回する。銀色に輝く真珠砂漠の波上を駆けるように移動していく影は、それ自体が独立した生き物のようである。時折、風が音を立てて渦を巻いた。


 コタロウは上方に向けていた顔を横手に向け変えた。いまだに絡みつく水草をほどくことができず、海苔巻のような姿になってしまっているのだが、それに関しては諦めた。短所よりも長所に目を向けるべきだと思う。じっとアウンを見つめて小首を傾げた後、コタロウは巻きつく水草の間から胸鰭をぐりぐりと押し出し、金魚鉢のガラス壁をこんこんと叩いた。金魚鉢を抱えたまま一向に下ろす気配がないので、アウンに催促したのだ。


 破茶碗の割れ目が海苔巻もどきを見た。


「おや、巻き鮨を目指すのですか? 握り鮨も捨てがたいところですが」


 魚頭を素早く横に振ってから、再度、コタロウは金魚鉢のガラス壁を胸鰭で叩いた。


「こんこん!」

「ああ、どうして金魚鉢を下ろさないのかと? 下ろす必要がないからですよ」

「こんこん?」

「くっくっ、ご安心を。金魚鉢の一〇や二〇抱えたところで、私の包丁捌きが鈍ることはありません。それに、不利な条件で戦うのもまた一興でしょう」

「こここここここここここん」


 ガラスの澄んだ音が連なりになって響き渡る。一つの長音にも聞こえるほどに、コタロウは一所懸命に連打した。アウンは大丈夫でも、コタロウも大丈夫とは限らない。ただでさえ、何事にも動じそうにない兄を愕然とさせたほどの運動音痴なのだ。イワシの必死の訴えを、しかし、アウンは笑殺した。


 イワシの口がぱかっと開いた。


「ぎょっ!」


 それは理不尽な人間に対する抗議の叫び――ではなかった。アウンの肩越しに見えた危機に対する警告の叫びだ。


 にわかに現れた青空の星火。それは急速に迫る氷刃の切っ先であった。


 アウンの身ごなしは、躍動的な動きでありながらも、一切の無駄が削ぎ落とされていた。上空から連射された氷刃が、落雷のように鋭く、豪雨のように激しく、地に突き刺さっていく。そのことごとくを、アウンは金魚鉢を片手に紙一重で躱していった。反り、伏せ、回り、跳び、屈み、転がり起きる。ずば抜けた軽捷さであり、並外れた俊敏ぶりだった。


 金魚鉢の内部はさながら遊園地の縮図と化した。前後左右上下と振り回され、イワシの口からぶくぶくと気泡が溢れ出る。金魚鉢はかなり頑丈な作りだったらしく、持ち主の手荒な扱いにも持ちこたえたが、金魚鉢のまで頑丈な作りをしているわけではない。


 一分と経たぬ間に、鋭利なガラス片が人の背丈よりも高い壁と化して無秩序に立ち並ぶ、そんな大地へと真珠砂漠は姿を変えていた。空から観戦する者がいたならば、アウンを中心にして透明な巨大迷路が広がっているように見えたかもしれない。


 敵の行動半径を押さえ込んだと断ずるや、翼綿玉は即座に急転回し急滑降してアウンに接近した。飛来の勢いをそのままに、翼綿玉の尻尾がアウンのいる辺りを氷刃の壁ごと一挙に薙ぎ払った。氷刃が砕け散り、空へ舞い狂う。風が輝いたかのよう。


 アウンは避けることもできずに吹き飛ばされた。


 ――かと思いきや、翼綿玉の後背すぐ傍に立っていた。


 翼綿玉の尻尾が直撃する寸前、アウンは内懐からフォークを四本取り出し、氷刃の壁に投げ放ち突き刺すと、即席の足場に変えて空高く跳んだのである。それでも足りていない高さを出すために、宙で下半身を持ち上げて縦方向に一回転する。躍る破茶碗の高台こうだい擦れ擦れを掠め去る翼綿玉の尻尾。終始、アウンに焦りの色はない。最強の名に恥じぬ挙動の冴えだ。


 そうであっても、さすがに無傷とはいかなかった。空に飛散した氷刃の薄片が、彼の皮膚に切り傷を与えていた。破茶碗の割れ目が弧を描いた。戦意が気炎となって割れ目から溢れ出す。


 翼綿玉が地上に降りた今、接近戦の好機をアウンが見逃すはずはない。すかさず、足に体重を乗せ、半回転の力を加えて、破壊力に富んだ強烈な蹴りを、抉るように翼綿玉の胴部へ叩き込んだ。瞬間、翼綿玉は胴部を凹ませ、数十メートルほど吹っ飛び、もんどりを打って転がった。巨体が跳ね落ちるたび、その衝撃で真珠砂が噴き上がった。


 翼綿玉は地に倒れて目を回している。


 アウンは内懐から二本の銛をつかみ取った。刃から石突まで金属で出来た銛で、柄に紋様が刻み込まれている。どう考えても内懐に入る長さではないのだが、彼のそこは四次元空間なので、どんな長柄でもしまえるらしい。


 二本の銛は、石突に括りつけられた縄で繋げられていた。


 銀色がかった岩盤が剥き出した崖に向け、銛の一本を振り抜くように投擲する。どれほどの強靱な膂力で放たれたのか、銛は柄の半ばまで崖にめり込んでいた。縄の尾が風に揺れる。


 翼綿玉が身じろぎ、意識を取り戻した。焦燥に追い立てられるようにして、きょろきょろと忙しなく周囲を見回す。そして、自身を狩ろうとしている捕食者の動きに気づいた。


 アウンもまた、翼綿玉が気づいたことを察知していた。振り返りざま、彼は銛のもう一本を翼綿玉に向けて投擲した。直線を描く軌道には寸分の歪みもない。翼綿玉が飛び立つ寸前、その尻尾に深々と突き刺さった。


 翼綿玉が痛みにべそをかいた。どこかで見た光景である。


 人型の脅威から脱するため、翼綿玉はよろめきながらも両翼をばたつかせて飛び上がった。尻尾と崖の間で、縄がぴんと張る。上空に逃げようとするが、尻尾を繋がれて逃げきれない。


 そんな翼綿玉の背後から、最凶の捕食者が迫りつつあった。


 アウンは宙を走る縄に右手をかけると、しなやかな動作でその上に飛び乗った。左手に金魚鉢を抱えたまま、縄の上を駆け出す。翼綿玉が暴れるたび、縄もたわむのだが、彼の足運びに危うい様子は微塵もない。


 途中、アウンが内懐から引き抜いた物は、大振りの鮪包丁。


 縄の端まで来ると、アウンは金魚鉢を放り上げ、包丁を振るった。斬撃が衝撃波をまとい、翼綿玉の両翼を切り裂く。振り上げ、振り下ろし、振り払い、落ちてきた金魚鉢をつかみ取る。


 氷刃の羽毛は乾いた音を立てながら、亀裂を走らせ剥落した。真珠の輝きに氷片の輝きが重なり、真珠砂漠はなお一層の煌めきを放った。


 断末魔の絶叫が真珠漏刻遺跡にこだまする。


 地に落ちた翼綿玉へ、とどめの一撃。


 巨大な綿玉の天辺に包丁を突き刺して立つアウンの雄姿は、さながら英雄譚の一場面のようであった。たとえ片手に金魚鉢を抱えていようとも。


 金魚鉢はその水位を大きく下げていた。かろうじてイワシが骨魚と化していないことを確認すると、アウンは金魚鉢に回復薬をどぶどぶと注ぎ込んだ。選び取った回復薬が赤色だったのは、過失なのか故意なのか。瀕死の状態から息を吹き返したイワシは、いつの間にか金魚鉢の水が赤みを帯びていることに気づいて、心臓を飛び跳ねさせた。とうとう切り身にされてしまったかと、胸鰭でぺたぺたと魚身に触れて回る。


「くっくっ、驚かせてしまいましたか。金魚鉢の水が赤く染まっていますが、君の血が流れ出たわけではありませんよ。海水ではなく回復薬を継ぎ足したためです。その色は回復薬の色ですよ」

「きゅる?」

「回復薬の色は複数ありますよ。因みに、私が薬を作ると、なぜかいつも血色になりましてね、なぜか」

「ぎょっ!」


 アウンの調薬能力について、イワシは深く考えないことに決めた。月並だが、世の中には知らない方が幸せなこともあるのだ。


 しばらくすると、金魚鉢の水は赤みが抜けて透明に戻った。実害がないとしても、赤い水の中で暮らしたいとは思わないので、安堵した。コタロウはほっと息を吐いた。丸い泡が水の中を昇っていく。泡が水面に達して割れた、その直後である。


 ――真珠漏刻遺跡の旧魅を倒した!

 ――称号「綿毛狩り名人」を得た!


 目に見えぬ大きな手の平が、魚身をきゅっと握り締めた。イワシをの危機が襲う。ごぼごぼと大小様々な気泡が、イワシの口から吐き出された。締め鯖に代わる新名物として、マホロバで売り出されるようになる日も近いかもしれない。


 倒したのはアウンであってコタロウではないのだが、どうやら二人で一つの冒険団として判断されたらしい。つい数時間前にイワシを襲った喜劇の早すぎる再来、否、再々来である。これでは、学習能力がない、と言われても否定できないだろう。やらかしすぎのイワシは決意した。何としてでも、再三で止め、再四が来ないようにしなくては、と。


 ――真珠漏刻遺跡の旧魅が撃破されました。

 ――これより真珠漏刻遺跡の旧魅がレベル解放されます。


 本日三度目のレベル解放である。しかもレベル解放された三者ともに、元より現時点の冒険者では太刀打ちできない高能力値の魅なのだから、始末に負えない。開発者は胸鰭でイワシ頭を抱えた。


 暗雲が垂れ込めているのは、イワシの頭上だけではなかった。羽綿玉もまた、どんよりとした雨雲を背負っている。哀れ、親の翼綿玉は最凶の捕食者に狩られてしまった。弱肉強食の掟とは、かくも厳しいものなのだ。


 翼綿玉の張った結界がほどけていく。儚くも美しい光景を見守っていると、破茶碗が思案顔を描いてぼそりと呟いた。


「そういえば、昇級試験には時間制限がありましたね」

「ぎょっ!」


 そうだ、そうだった、試験には時間制限があったのだ。輪をかけて青くなった青魚は、アウンを急き立てた。勝利宣言などしている場合ではなかった。指定された時間までに羽綿玉を連れて遺跡から脱出しておかないと不合格になってしまう。鬼となって追いかけてくる翼綿玉がいないので、邪魔が入ることなく出られるはず――。


「くっくっ、どうやら翼綿玉を狩ってもすんなりとは出られないようですよ?」





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