第26話 TPO
時を遡ること、冒険協会昇級試験開始時。
試験には試験に相応しい服装がある。唐突に、アウンは「
人はそれを、虫の知らせ、と呼ぶ。
アウンは試験開始の鐘が鳴ると、誰よりも早く羽綿玉の生息地に乗り込んだ。蜃気楼を使用しての移動なのだから、一番乗りして当然である。開発者を青ざめさせるずるっぷりだった。
真珠砂漠の谷底にある風食洞。その奥に広がる雲花畑。
「くっくっくっ……」
最凶旧魅が一歩近づくごとに、無風にもかかわらず雲花畑が波打った。どよめきが形を成したかのようだった。押し寄せる威圧感に耐えきれなかったのだろう、いくつかの雲花もどきは目玉を現して白黒させている。
ふかふかした苔筵の上に、アウンは金魚鉢を置いた。冒険者でさえ片手で片づける彼が、わざわざ金魚鉢を置いたことに、コタロウは小首を傾げた。
「すぐに終わらせますので、そこで見物していてください」
「きゅる」
アウンの長い指先が、各々、緻密な拍子を刻み、精巧な軌跡を描く。
描き出される、巧妙な幾何学模様。
重なり合う、複雑怪奇な印。
長い文字列が浮かび上がり、旋回して輪が形成される。やがてそれは、一つの立呪紋を形作った。
アウンが片手を掲げ、指を鳴らす。
――ぱちん。
直後、歪みの波紋が光の波濤と化して宙を奔った。
結界が構築されたのだ。
異界最強の狩人は、内懐から糸の束を二つ取り出した。糸は糸でも、釣糸のような気がする。魚身を襲う悪寒から思うに、きっとそうだろう。イワシは確信した。この騒めく鱗の感覚、間違いない。
ぎりぎりと引き伸ばし、釣糸の強度を確かめるアウン。そして、右手に一つ、左手に一つ、軽く握り、構えた。
破茶碗の割れ目が、にたり、と笑う。
両腕がしなやかに振り上げられた。無数の
直後、天網を引きずり落とさんとばかりに、腕が鋭く振り下ろされた。
刹那の芸術からの一転。
釣糸が、大気を切り裂き、雲花に躍りかかる。飛び散る、白い花、緑の茎。天蚕糸と風が摩擦音を奏でるたびに、綿毛が空へと四散した。
疾風となって薙ぎ払う、右手の天蚕糸。
慌てて飛び立つ羽綿玉。すかさず――。
迅雷となって襲いかかる、左手の天蚕糸。
ものの一分も経てば、天蚕糸で雁字搦めになった羽綿玉が、地に山を作っていた。
羽綿玉は蜻蛉に似た二対四枚の羽を持つ。擬態する際には、細く長く透明なその羽をくるくると丸めて綿毛の中に隠す。だが、蜻蛉のものとは違い、その実態は研ぎ澄まされた氷刃である。幼魅でも戦う
戦闘ともなればこの羽が活躍する、はずなのだが、最凶旧魅が相手ではその暇もなかった。どの羽綿玉もぼろぼろの態で、べそをかきながら絆創膏を貼りつけている。その絆創膏はどこから持ってきたのか、と聞いてはいけない。
金魚鉢の中で、イワシは胸鰭で頬を挟んだ。今なら、かの有名な絵画「叫び」の中に嵌まり込めるかもしれない。いや、耳を塞いでいるわけではないが。確か、あれは果てしない叫びに耳を塞ぐ人の絵だったと思うので。
血と炎に染まった空、青黒い影に呑まれた町――そんな気分だ。いやいや、どこかの空が血まみれになるとか、どこかの町が暗い影に覆われるとか、予期しているなんてことはない。イワシは誰にともなく弁明した。
雲花畑は今や、稲刈り後の田んぼのように、苔むした地面をさらしていた。点々と残された切り株が、哀愁を漂わせる。季節は芽吹きの春のはずだが、物悲しい秋の気配に包まれてしまったかのようだ。
「大漁ですね。獲り残しもありません」
初志貫徹。釣糸という名の網で、羽綿玉を一網打尽にしてしまった。
アウンは天蚕糸の片端を金魚鉢の縁に括りつけた後、両目を三日月形に細めて釣果に告げた。
「飛ばないのであれば、引きずります」
羽綿玉は一斉に飛び上がった。わずかながら、金魚鉢が宙に浮き、水が小波を立てた。さながら、風船の群れでできた気球である。
「さて、これで餌の準備が整いました」
イワシを戦慄が襲った。身の毛が弥立つ、もとい、身の鱗が逆立つ。
「では、始めましょうか」
アウンは襟を正すと、内懐から白い帽子を取り出し、破茶碗にずっぽりと被せた。マントと同じく、柔らかな綿で織られた帽子を。
「――冒険者狩りを」
「ぎょっ!」
コタロウの脳裏を、アウンにより語られたTPOのテロップが流れる。試験には試験に相応しい服装がある。ただしそれは、「試験時に、真珠漏刻遺跡で、羽綿玉を狩る」ためのものではなく、「試験時に、真珠漏刻遺跡で、冒険者を狩る」ためのものだったのだ。
アウンの目的が冒険者狩りにあったことを、コタロウはまざまざと思い出した。冒険者をたくさん狩る、これこそが最凶旧魅の人生の指針なのだ。
戦闘狂は、やはり戦闘狂だった。
それが姿を現した時、戦慄が激震となって受験者たちの体を揺さ振った。そして、痛感した。マホロバの運営部に、冒険ゲーム物の常識や定例は通用しない、と。同時刻、驚愕が稲妻となって運営部の心臓を貫いていたのだが、受験者たちは知る由もない。
命数の尽きた受験者は、今わの際に至り、試験内容を思い返した。確かに記載されていた、「真珠漏刻遺跡の幼魅、羽綿玉を狩れ」と。当然だが、子には親がいる。そして、親は子を守るものだ。
標的の幼魅には、凶猛で凶暴で凶悪な
「そんな馬鹿な!」
と、舞台上ではプレイヤーが手の打ちようのない一撃死に叫び、
「そんな阿呆な!」
と、舞台裏では運営部が全く見覚えのない成魅に叫んだ。
プレイヤーの当惑ぶりも酷かったが、それ以上に運営部の混乱ぶりは酷いものだった。羽綿玉の成魅は確かに存在する。存在するが、断じて人型ではない。はっと我に返ると、すぐさま操作卓に飛びつき、指を走らせた。全力疾走である。
運営部が戦死者の列に並ぶのも、時間の問題かもしれない。死因は心労だろう。
一撃死に見舞われ、倒れ伏す受験者たちの中には、とある三人組の小悪党の姿もあった。本来の目的を忘れて遊び惚けていたところへ、本来の標的が現れて叩き潰されるという、がっかりな死に様である。天災は忘れた頃にやって来るものなのだ。
「レベル一で魔王と戦わせるとか、ないないない!」
「檜の棒で竜神に挑ませるとか、ありえないでしょ!」
「初回が最終回だったとか、ねぇっぺよ!」
辞世の句もまた、なんとも残念なものであった。
幼魅の群れを引き連れた成魅もどきは、金魚鉢片手に、居合わせた受験者を余さずぶっ飛ばすと、さらなる餌食を求めてその場を後にした。
足跡を受験者の骸骨で飾り立てながら。
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