第20話 イワシの後悔漬け、完成

 闇よりなお深い夜のとばりが下りる。珊瑚晶で形成された大地の盃、そこに浮かぶ水晶花の花弁がほどけ始め、星屑と化して中空に舞い上がっていった。天で渦を巻く銀河は、飲み込まれそうなほどの量感をもって、地上の者を圧倒する。地平線に架かる虹の橋は、巨大な惑星の輪郭がその正体で、時の彼方より届いた光の反射が作り出したものだった。


 湿原の周囲を巡っていた風が、大きく流れを変えた。刹那、人を追い抜いていき、髪や衣服の裾を前方へなびかせた。銀盤を舞うかのように、目に見えぬ風の精霊が大盃の水面を滑り、その足下に波紋を描いていく。波は高さを増し、時に飛沫を散らし、そして、中心へと押し寄せた。水柱が湧き起こり、躍動し、噴き上がる。


 水の柱が天を翔る。翼が生え、四肢が生え、徐々にそれは水の形状を変えていく。思いのまま滑るように飛び回った後、コタロウたちの目前で悠然と降り立った。


 イワシは胸鰭で両目を覆った。


 珊瑚晶域、祇酒盃さかずき遺跡。それがこの領域の名称であり、紛れもなくであった。戦闘狂のアウンが本題と称するわけだ。


 なぜ、こんな場所に来てしまったのか、否、来ることができてしまったのか。コタロウは現実逃避も兼ねて、祇酒盃遺跡の開放条件を思い返した。場合によっては、早急に改修しなければならない。手が打てる範囲の改修で済めばいいな。アウンの一件をと棚上げした開発者は、心の底からそう祈った。


 祇酒盃遺跡の開放条件は三つある。


 一、禍魅族の竜に属する魅坊を、祇酒盃大社下社の神主に据えること。


 自分はやっていない、と往生際の悪い犯人が言い出しそうな台詞を、コタロウは心の中で口にした。下社にまつわる「打ち捨てられた小社」の謎解きを進めたどこかの冒険者と、禍魅族襟巻竜属の魅卵を子分にした冒険協会会長が悪いのだ、と。少年の脳裏に、取調室で刑事に追及を受ける自身の姿が、じわりじわりと浮かび上がる。開発者と書いて真犯人と読む日は近い。


 二、「人類滅亡」に関わる異界最大の謎を、一つ以上解き明かしていること。


 異界最大の謎なのだから、ストーリーの大詰めで解き明かされるように設計してある。日々の点検も怠っていない、とコタロウは誰へともなく弁明する。ただ、アウンが謎の答えだったのだ、と。どうしようもない。


 三、レベル九九の限界を超えた「超越者」が、仲間に一人以上いること。


 プレイヤーもNPCも、レベルは九九が最大である。どれほど経験値を稼ごうと、レベルが一〇〇に達することはない。ただし、とある試練を乗り越えると、レベルの限界が取り払われる。試練は運営が管理しているので、現時点では試練を受ける資格すら誰にも与えられてはいない。だがしかし、裏ボスは初期設定が超越者だった。そうだったのだ。開発者は嘆いた。誰だ、最凶旧魅は番外編の敵だから攻略できなくても問題ない、とか言って、事の始めから超越者にした奴は。自分か。


 再び、イワシは胸鰭で両目を覆った。あまりの不味さに目も当てられない。


 アウンと対峙するは、酒の竜。


 祇酒盃遺跡の旧魅、竜祇タツ。またの名を――表界のラスボス。


 今やコタロウの気分は、まな板の上に載せられたイワシだ。裏ボス、に次ぐ、表ボス、である。少年の脳裏でマホロバ終了の六文字がぴかぴかと点滅する。事ここに至ると言うべきか、万事休すと言うべきか。


「神さま、の準備を」


 が指し示す物を、イワシは直感的に悟った。アウンの言に含みがあるのは、おそらく自身の死因に納得できないとそれとなく示しているのだろう。さもありなん。裏ボスの死因が刺では、冒険者とて誰も納得できないだろう。


「イワシの刺で死んだ魅が私一人など許しがたい」

「…………」

「なので、ここで仲間を増やしておきましょう」

「…………」


 イワシは無言で毒刺を構えた。


 竜祇が咆哮する。開発者にとって甚だ不本意ながら、決戦の幕が切って落とされた。


 直後、アウンがイワシを竜祇に向けて投擲した。情緒もへったくれもない、問答無用の一投である。イワシが甘燕アマツバメも真っ青になる速さで夜空を切り裂く。その様、流星の如し。


 毒刺は御煮虎魚から旨鰯への贈り物だが、旨鰯の戦友は御煮虎魚だけではない。針千本ハリセンボンだって戦場で肩を並べた友魚である。


 針千本の攻撃は、名前の通り、針を千本飛ばすものだ。一度目は一〇〇本、二度目は二〇〇本、三度目は三〇〇本と、針の本数は攻撃の回数を重ねるごとに二倍三倍と膨れ上がる。最後の四度目では、四〇〇本の針に状態異常の効果を付加して攻撃する。猛毒、呪詛、沈黙、混乱など、ありとあらゆる状態異常が敵に襲いかかる。かわいい見目に反して、恐ろしい魚である。そうして、一〇〇〇本全ての針を使い切ると、河豚フグと化してその場から逃げ出すのだ。


 そんな友魚の針千本から、旨鰯は「刺千本の舞」を伝授されていた。


 ――必殺・刺千本!


 イワシはしゃにむに毒刺を振り回した。無様だろうが、要は当たればいいのだ。針千本を絶望させそうな舞になろうとも。


 ぷすり、と毒刺が竜祇に刺さった。勝因は、イワシの舞の上手さ、ではなく、アウンの投擲の上手さ、だったのだろう。


 その途端、祇酒盃遺跡の旧魅の命数が弾け飛んだ。いつか見た光景である。二度と破られることはないだろう、戦闘時間の短さだ。これを知れば、冒険者は泣くだろう。祇酒盃遺跡の旧魅を憐れんで。


 衝撃に吹き飛ばされたイワシだったが、今回はアウンに空中でつかみ取ってもらえたので、地上まで墜落せずに済んだ。地面の凹みに嵌って身動きが取れなくなるような経験は、一度だけでいい。


 竜祇が酒の体を崩しながら、瀑声ばくせいを轟かせて盃の大地に倒れ伏す。飛沫の冷たさを頬に感じながら、コタロウたちは表ボスの最期を見守った。夜天に散らばっていた星屑が、竜祇の周囲を巡るようにゆっくりと流れていく。


 管弦楽器が静かに曲を奏で始める。悠遠の彼方を偲ばせる調べだ。音楽に詳しいわけではないコタロウも、この曲はよく流れていたこともあって知っていた。作曲者の力作なのだとも聞いている。それもそのはず。


 エンディング曲なのだから。


 これが映画であれば、今頃はスタッフロールがスクリーンに流れていることだろう。旋律が壮大な高まりを見せる中、開発者は思った。スタッフの一覧から自分の名前が消されるかもしれない、と。


 ――祇酒盃遺跡の旧魅を倒した!

 ――称号「魚拓オタク祇」を得た!


 またしても「魚拓」の宣告である。これはもう、暗にマホロバの管理AIから「魚拓にするぞ、てめぇ」と予告されているのかもしれない。竜祇の謎を一切解くことなく、竜祇のストーリーを一切見ることなく、幕開けかと思ったら幕引きだったとなれば、AIといえども文句の一つも言いたくなるだろう。


 ――祇酒盃遺跡の旧魅が撃破されました。

 ――これより祇酒盃遺跡の旧魅がレベル解放されます。


 開発者はイワシの干物にされる未来を幻視した。


「くっくっ、これで子分が増えましたね」


 ――竜祇が子分になった?


 竜祇が首をもたげて、物言いたげな様子でこちらを見つめてくる。裏ボスの手前、口に出せないのだろうが、子分とはどういうことかと問い質したいのだろう。コタロウは胸を撫で下ろした。アウンの習性がおかしくなっているだけで、他の魅は問題ないようだ。子分になる習性も、子分を増やそうとする習性も、アウンはどこで覚えてきたのやら。


「わああ! わああ! 旧魅の撃破、おめでとうございます!」


 興奮冷めやらぬ面持ちで、モブノスケが駆け寄ってくる。その腕に抱えているものは、目を回した襟巻竜だ。大鳥居をくぐった時点で用済みとばかりに、アウンに放り投げられてしまった襟巻竜だったのだが、どうやら回収してくれていたらしい。


「お兄さん、攻略の第一線に立つ人だったんですね」


 違います、攻略第一線に立つ人です。コタロウは胸中で呟いた。感極まって涙目になっている獣人少年には教えられない真相である。世の中、知らない方が幸せなことはたくさんある。


「僕もいつかお兄さんみたいに第一線で活躍してみせます!」


 アウンを目標に掲げるのは、あらゆる意味で歓迎できない。止めたいところだが、イワシがどれほど口をぱくぱくさせても、モブノスケには伝わらなかった。


「そうですか、頑張りなさい」

「はい、頑張ります!」


 イワシは胸鰭で胸腹部を摩った。痛むのは、胸だろうか、胃だろうか。


 これ以上一緒に行動すると、ぼろがぼろぼろと出そうだったので、コタロウたちはモブノスケと下社で別れることにした。襟巻竜に引き留められたモブノスケは、しばらく下社でまったり過ごすとのことだった。


 アウンが右手に金魚鉢を、左手に重箱と茣蓙を抱え上げる。霊人の荷物を預かり、コタロウたちは下社を後にした。


 目指すは、ナカツ都の冒険協会ナカツ本部である。兄タロウからの手紙を受け取るためだ。デスゲーム化にラスボス攻略と続いたせいで忘れてしまっていたが、そういえば兄より友人の観光案内を頼まれていた。そのことを思い出した時、イワシ頭に豆電球がぴこんと点灯した。あの兄の友人であれば、デスゲームの解き方を見出してくれるかもしれない。表裏のラスボスを攻略したにもかかわらず、クリアにならないので困っていたのだ。ストーリーを一から辿っていては、とても三日では終えられない。このままでは干されるまでもなく干物になってしまう。兄の友人に会うため、まずは手紙を確認しなければ。


 人目につかない場所まで来ると、コタロウは開発者の特権を使ってNPCを呼び出そうとした。重箱と茣蓙をマホロバの管理棟に届けてもらうためだ。しかしそこで、アウンが待ったをかけた。


「わざわざ呼び出さずとも、子分を使えばいいでしょう」


 子分とはアウンのことだろうか? コタロウが小首を傾げていると、アウンが奇妙な仕草をした。宙をつかみ取り、その手をイワシの目前にずいと差し出したのだ。


 アウンの左手が、にょろりと動く何かをつかんでいる。透明で見えづらい、水のような何か。唖然となって、イワシの口がぽっかりと開いた。


 大分小さいなりだが、竜祇である。


『……子分になった覚えはないのだが』

『この荷物をマホロバの管理棟まで運ぶよう』


 特殊な機械語で交わされるAI同士の会話は、さしものコタロウも理解できなかったが、アウンの立場が強いことだけは感じ取れた。


 アウンがマホロバの魅をことごとく子分に加えるつもりだったらどうしよう。イワシの親分は未来を思って恐れおののいた。





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