第17話 新都市伝説「白無垢の女」
浅瀬と化した林道を、金魚鉢の車窓から眺める。これはこれで乙な道中ではなかろうか、と乗客のイワシが思い始めた矢先のこと。
ふと、行く手の路傍に立つ鳥居らしきものの存在に気づいた。朱色の塗りは剥げ落ち、何本もの蔦が絡みついて、遠目には朽ち木のようにしか見えない。詣でる者がいなくなり、忘れ去られていったのだろう。
コタロウはアウンに足を止めさせ、廃れた鳥居の向こうを覗き込んだ。ひび割れ、苔むした石畳が続く先、薄らと漂う霧の中に垣間見たものは、古ぼけた
ぞっとした。
「ぎょっ!」
すすり泣いているのか、わずかに震えている背中は、半透明だった。真っ直ぐに伸びた髪は長く、白無垢に黒い滝を作り出している。しゃがみ込んでいるために、それは地面まで流れ落ち、女の足元で波紋を描いていた。不気味なせせらぎは、彼女の口から零れる涙声だ。
冷気がひたひたと迫り来る。
魚身を竦ませたイワシへ、アウンがさらに寒気立つ恐怖の真実を告げた。
「あれは冒険者ですね」
ぞぞっとした。
「ぎょぎょっ!」
幽霊の正体は、霊人族の冒険者、つまりはプレイヤーらしい。足のない怪異は怖いが、足のある怪異はもっと怖い。
自然界の破壊者たる人間が、小魚の心情を慮るはずもなく、また、裏ボスたる最凶旧魅が、冒険者を恐れるはずもない。アウンは破茶碗の割れ目に弧を描かせると、物音一つ立てずに白無垢の女へ近づいた。
和装を土台に洋装を取り入れた婚礼衣装は、だが、非対称な趣向がこの世界独特の味わいを醸し出している。一呼吸して落ち着いてから女を見れば、正統派と表現したくなるような佳人であった。半透明だが。
白無垢の霊人は、後背で観察する被食者と捕食者の存在に気づくことなく、誰かと話し込んでいる。彼女の陰で相手の姿が隠れていたようだ。
「わたくし、今日こそは幼馴染の恋人から求婚の言葉を贈ってもらえると、物凄く気張っておりましたの。そのために頑張って
「がう」
「この婚礼衣装を作り上げるため、いくつも依頼を受けましたわ。山へ火竜を刈りにも行きましたし、川へ水竜を洗濯しにも行きました。防具屋に弟子入りもしましたわね」
「がう」
彼女の話し相手は魅坊だった。禍魅族
襟巻竜はこの小社を住処としているためなのか、神主らしき装束を身にまとっていた。魅卵でありながら、随分とまあ人臭い。
「情緒ある場所で求婚されたいと思い、幻想的なこちらへ参りましたの。仕事柄、遠方へ出かけることは難しいので。わたくし、公僕ですのよ」
「がう」
「国民に奉仕する者として、職務に誇りを持っておりますわ。誇りを持っておりますの。誇りをもって……」
「がう?」
つと、女は胸元からハンカチを取り出して、噛んだ。くぐもり声が布地の織目からぎりぎりと押し出される。
「恋人がわたくしの手を取って、恥ずかしげに口を開いた、まさにその時! ええ、待ちに待ったその時でしたわ! 携帯電話の呼び出し音が甘美な場を引き裂きましたの。そう、まるで狙い澄ましたかのように!」
「がう!」
「職場からでしたわ。緊急事態かもしれない以上、電話を取らないなんて選択肢は、わたくしの中にありません。取りましたわ、ええ、取りましたとも!」
幸い、すぐさま出勤しなくてはならないような話ではなかった。だが、案の定と言うべきか、彼女と恋人は仕事のことで喧嘩になったらしい。よくある話と言えば、よくある話ではある。
その後の展開も、どこかで聞き覚えのある流れだった。
「僕と仕事、どっちが大切なんだ!」と、声を荒げる彼。
「仕事に決まってんだろうが!」と、拳を見舞う彼女。
「母さんにも叩かれたことなんて――いや、叩かれたことはあるけど、さすがに握り拳は本気でないよ!」と、頬を押さえる彼。
寸劇のような掛け合いである。幼馴染だからこその息の合いようか。
「わたくし、振られてしまいましたわ」
「がうう」
「慰めをありがとうございます。頭を撫でられるなんて何年ぶりかしら」
「がうう」
「ふふ、おかげさまで鬱々としていた気も真っ青に晴れましたわ。わたくし、決めました。初恋は実らないものですもの、新しい恋を探しに旅立ちます!」
「がうう?」
思いきりがよいと言うか、諦めが早いと言うか。ハンカチを噛んで口惜しがったほどの未練は、いったいどこへ行ってしまったのやら。
「魅卵さま、話し相手になってくださって、ありがとうございます。本当に感謝しておりますのよ。ふふ、噂は真実でしたわ。『マホロバの魅坊に人生相談すると道が開ける』と」
イワシの口がぱかっと開き、気泡が金魚鉢の中を泳いでいった。その噂の出所は十中八九、ツクモ社保守部NPC班に違いない。彼らは対人関係に疲れると、NPCに愚痴を零しだすのだ。NPCの中で人間の言葉を操れる者など、アウンの他には存在しないのだが。
霊人は立ち上がり、そして、振り返った。
「きゃっ!」
背後に気配なく立たれては、悲鳴の一つも出るだろう、とコタロウも思う。
霊人は元より、襟巻竜も今の今までその存在を全く感知できずにいたらしい。霊人の陰から飛び出した襟巻竜は、まず、異界の敵に気づいて泡を食い、次いで、異界の神にも気づいて泡を吹いた。竜頭をふらつかせて、今にも気絶しそうである。
霊人は鼓動が跳ね回る胸を手で押さえた。
「この胸のどきどきは――恋?」
NPCたる襟巻竜ですら、「そんな馬鹿な」と顔に書いて霊人を見た。それは驚きから来る動悸であって、一目惚れのときめきではない。
「恋に敗れた女たる者、新たな出逢いを前にして、惚けている暇などありませんわ」
霊人は己に気合をかけると、アウンの真正面に立った。そして、自己紹介すら素っ飛ばして、出し抜けの告白をした。
「わたくしとお付き合いください」
「断ります」
にべもない。
一拍の間すら置かない即行の返答に、霊人は再びハンカチを噛み締めた。
「理由をお聞きしても?」
「弱い者に興味はありません」
「強き女をお求めなんですのね」
「強くなくては食指が動きませんね」
コタロウは、プレイヤーの顔を見、NPCの顔を見、これはもしやと胸鰭で頭をかいた。アウンの返答は、冒険者を狩る捕食者としてのものだろう。霊人の告白がいわゆる「愛の告白」であったこと自体、おそらく解析できてはいまい。まあ、恋愛の機微をAIに学習させたとしても、返答の内容はたいして変わらないだろうが。
霊人はめげなかった。
「ナカツ都へ行かれるのでしょう? 是非、わたくしもご一緒させてください」
「がうがう!」
もしかすると、幼馴染に振られてからここまで、彼女はずっと
襟巻竜が霊人の自滅的行為に等しい言動に吠えた。彼にしてみれば、死地へ旅立つつもりか、と吠えずにはいられなかったのだろう。
人族には見抜けずとも、魅卵が魅を見紛うはずもない。最凶旧魅を目前にして、襟巻竜は冷汗を飛ばしつつも襟巻を広げて威嚇した。途轍もなく格上の相手に対して、まことあっぱれな気概だった。
アウンが何者かわかっていない霊人は、相手に向けて広げた襟巻を
イワシは胸鰭で金魚鉢のガラス壁を叩き、先へ進むようアウンを急かした。と、丁度その時。小社の裏手、一段と深く立ち込めた霧を割って、人が現れた。
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