第15話 イワシ、神になる

 このままでは美味しいにされてしまう。捕食者の食欲に戦慄しながらも、被食者は胸鰭と腹鰭と背鰭と臀鰭と尾鰭を総動員して、腹這いのまま駆け出した。


 稲妻の如く地に降る包丁を、右へ左へと僅差で回避し、股座をくぐり抜ける。相手の死角に入った、まさにその時、コタロウは背鰭からとげを引き抜いた。窮鼠が猫を噛むなら、窮イワシだって人を刺すのだ。


 御煮虎魚オニオコゼから旨鰯へ友情の証として贈られた、という逸話の毒刺である。最弱のイワシが持つ貧弱な武器。しかしそれは、対峙する両者の防御力、その差が大きければ大きいほど、攻撃力が膨れ上がるという、恐ろしい武器でもあった。なお、毒の名前は「革命毒」だ。


 先の予定になるが、「食材の革命」と題された突発大規模集団戦が企画されている。これは、料理の世界が躍進を遂げるわけではなく、正しく戦争である。食材が冒険者に、鮨種が人種に、弱者が強者に、今日まで食い物にされてきた恨みつらみを晴らさんと、各地で一斉に反乱を起こすのだ。人が皆、イワシの餌食と化す。その際、勝敗の鍵となるものが、この毒刺である。装備する対象が最弱のイワシだけに、低レベルの冒険者にとってもそこそこ強力で、高レベルの冒険者に至っては未曾有の脅威となるだろう。


 防御力の差が攻撃力となる。では、表界最弱のイワシが裏界最強の旧魅を相手取った時、何が起きるか。


 破茶碗が振り返る。捕食者と被食者、人間と小魚、アウンとコタロウ。互いの視線が激突した。


 アウンが左手の包丁を凄まじい速さで繰り出し、コタロウが左手の毒刺を全身で躍り上がって突き出す。一瞬の擦れ違い。一方は虚空を裂き、もう一方は標的を捕らえた。


 紙一重の攻防を制したのは、コタロウだった。油断大敵、アウンがしゃがんだままだったことが、イワシに好機をもたらした。毒刺が人間の急所である喉元に直撃し、その直後、アウンの命数が尽きるどころか弾け飛んだ。


 アウンは呻きを発して、その手から包丁を滑り落とした。震える片手で首元を押さえ、もう一方の片手で地面に手を突く。着地に失敗したイワシは、路上でぴちぴちと跳ねていた。


「馬鹿な、一撃死など……」


 アウンが驚愕の事実に戦慄わななく。イワシ相手に即死しては、どんな人間でもそうなるだろう。


 衝撃に打ち震える人間の傍らで、革命を成し遂げた食材は、しかしながら勝利の雄叫びを上げることもなく、短い鰭を一所懸命にばたつかせていた。何度か跳ねている内に、舗装の劣化で生じた路面の亀裂に嵌まり込んでしまったのだ。アウンに負けず劣らず、コタロウも身動きが取れない現状に戦慄いていた。


「…………」

「…………」


 イワシへ目を向ける人間。人間へ目を向けるイワシ。


「…………」

「…………」


 人間から目を逸らすイワシ。イワシへ向けた目を細める人間。


 無言の激しい応酬の後、人間はイワシの鰭を摘まみ上げて、亀裂や凹凸の少ない路上に下ろした。人間の肩の震えが、指先から鰭に伝わり、イワシの身まで届いたが、さてこれはどんな感情から来る震えだろうか。


 仕切り直しとばかりに、再度、アウンは地面に手を突いた。どうやら小魚の醜態を見なかったことにしてくれるらしい。コタロウもまた、無様な過去をなかったことにして、きりりとしたイワシ顔で起き上がった。さも今、死闘に決着をつけたかのように、額の汗を胸鰭でふきふきと拭う。


 異界の果て、雲煙を割って射し込む斜陽が、勝者と敗者を照らし出す。終焉の時、歪んだ表情の破茶碗が、鱗煌めくイワシへ言葉をかけた。


「私を倒す者が、現れるとは……思いませんで…した…ね……」


 胸鰭の動きが止まる。どこか覚えのあるアウンの台詞に、コタロウは小首を傾げた。


「君は、神か」

「ぎょっ!」


 イワシが動転と狼狽の叫びを上げた。体色の青みが濃さを増す。


 その時、告知が流れた。


 ――摩天楼遺跡の旧魅を倒した!

 ――称号「魚拓オタク神」を得た!


 音声が伝えると同時に、虚画面が宙に現れて文字を映し出す。


 今度はイワシが地面にくずおれた。左右の胸鰭を地に突いて項垂れる。「神」の称号は、唯一無二の称号であり、最難関最高峰の称号である。プレイヤーを差し置いて、開発者が獲得してどうすると言うのか。ばれたらクレームが殺到するだろう。運営部から闇討ちにされてしまう。


 デスゲームから生還できても死にそうだ。イワシは黄昏たそがれた。


 神の名前が「魚拓」であることも、何だか意味深に思われてくる。神の名称も職業などと同じく、生き様判定により自動的に命名されるのだが、生き様判定を司るAIはどうしてこの名前を選んだのか、考えるだに恐ろしい。


 追い討ちをかけるように、告知は続く。


 ――摩天楼遺跡の旧魅が撃破されました。

 ――これより摩天楼遺跡の旧魅がレベル解放されます。


 コタロウは文字通り陸揚げされたイワシと化した。時折、ぴくぴくと震えるが、地面に倒れたまま動かない。その内、干物が出来上がるかもしれない。


 旧魅には「レベル開鎖」と呼ばれる機能が設けられている。ある条件が満たされると、旧魅もプレイヤーと同様に成長し始めるのである。強化と言い換えてもよい。


 何をもって攻略と見なすかに差はあれど、プレイヤーに攻略された旧魅は、「レベル封印」から「レベル解放」へ状態が変化する。レベル解放となった旧魅は、冒険者を狩り、経験値を増やし、レベルを上げ、能力値を高め、成長していくのだ。その過程で、進化や変異を生ずる者もいれば、世代を交代する種もあるだろう。旧魅がプレイヤーを狩った際に取得できる経験値は、プレイヤーのそれに比べれば微々たるものでしかないが、それでも塵も積れば山となる。前回が簡単に撃破できたからといって油断すると、思わぬ落とし穴に嵌まるということもありえよう。


 マホロバが発売されて、まだ一〇ヶ月。それにもかかわらず、最凶旧魅がレベル解放されてしまったのである。どれほど早くとも、攻略されるまでにはおおよそ二年はかかると見ていた。いったいこの先、プレイヤーの誰がアウンに勝てるというのか。


 マホロバ終了の告知が、コタロウの耳元で響き渡る。今は幻聴だが、現実となる日もそう遠い話ではない、かもしれない。


 そういえば、とコタロウは恐ろしい事実に気づいてしまった。最終幕の旧魅に勝利したにもかかわらず、お一人様デスゲームがクリアにならない。これはもしや、最初からストーリーを順序通りに進めていかないといけない?


 うんうん唸るコタロウだったが、ひょいと掬い上げられて、頭を起こした。ぽちゃんと水中に落とされて、鰭をばたつかせ、ぐるりと周囲を見回して、状況を理解する。どうやら、早くも復活したアウンが金魚鉢に入れてくれたらしい。しっかり水草まで準備されている。いくらなんでも飼う気ではあるまい、と信じたい。


「きゅる?」

「ここから表の世界まで泳ぐのは大変ですよ、小魚の鰭ではなおの事。私が運んでさしあげましょう。丁度、あちらへ渡ろうと思っていたところですしね」

「ぎょっ!」

「くっくっ、喜んでいただけて幸いです。私の蜃気楼を使えば、どこであろうとすぐに到着できますよ」


 魅の大半は冒険者と同じく徒歩で移動するが、アウンの場合は異なる。とはいえ、現実に蜃気楼で瞬間移動するわけではない。


 マホロバの地下には、擬核の移動に用いられる線路が、網の目のように敷かれていた。その移動速度は新幹線よりもずっと速い。この地下網を使って瞬く間に移動する魅が特殊放浪型であり、アウンなのだ。


「私も久方ぶりに表の世界の獲物が狩りたくなりましてね。ご一緒できて嬉しいですよ」


 ――アウンが子分になった?


 告知に疑問符がつくなど、コタロウですら初めて見た。魅は魅でも、子分になる習性を持っているのは魅卵だけのはずなのだが、これいかに。告知を司るAIさえも戸惑っている。


 全力で首を横に振るコタロウが見えていないはずもないのだが、アウンはぬけぬけとイワシの入った金魚鉢を抱えて歩き出した。しまいには金魚鉢の中でぐるぐる回りだした小魚の様子に、彼の笑みは一段と深まったようだった。


「楽しみですね、


 蜃気楼の主が手を横ざまに払うと、陽炎が立ち昇り、虚空がうねり歪んだ。最強の旧魅は最弱の神を連れて蜃気楼の中へ姿を消した。





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