第14話 準主人公、遅れ(すぎ)て登場
あたかも霧が晴れるかのように、視界が広がった。さらに、聴覚が海鳥の声を、嗅覚が潮の匂いを、味覚が仄かな塩辛さを、触覚が波の流れを、勘覚が虫の知らせを捉えた。
どこまでも続く空、どこまでも続く海、そして、どこにもない陸。
「?」
通常であれば、マホロバ秘密基地から始まるはずなのだが。茫然自失の態で、コタロウはしばらく海の上で突っ立った。
ひとまず、地図を開いて確認しよう。狼狽えた末に、コタロウは初心に返った。地図は大百科事典にある。大百科事典を取り出すためには、初めに、腕輪型の冒険支援装具「
転輪を操作しようと腕を持ち上げて、空白三拍、コタロウは青銀色の胸鰭をぱたぱたと動かした。傍らを
「!」
コタロウはイワシだった。魚偏に弱いと書くイワシだ。背部は青銀色、腹部は白銀色、細身がまぶしい。漁獲量第一位、能力値最下位。安い、旨い、弱い。刺身、目刺、練物、油漬。正義の味方の弟は、家庭の味方になったらしい。
プレイヤーがなる六種の人族に、当然ながらイワシは含まれていない。あえて言うなら、イワシは
挙句の果て、胸鰭に転輪が装着されていない。これではゲームを終了させることも、マホロバからログアウトすることもできない。時間切れで強制終了となるのを待つか、と考えたコタロウだったが、すぐに考え直さなければならないことに気づいた。作業効率の点から、接続制限時間を無制限に変更していたのだ。
笑劇、もとい、衝撃の事実に、冷凍イワシの完成である。
マホロバ開発者の名にかけて、イワシ化するようなバグを見落とすなどしない。ならば、と考えた時、一昨年ヒットしたホラー映画が思い浮かんだ。もしや、これが、これこそが。氷漬けの表情筋を総動員して、イワシは顔面に書き出した。
――噂の都市伝説「お一人様デスゲーム」か!
またの名を、ロンリーゲーム。イワシ頭の弊害か、とんだ閃きが少年の脳裏で花を咲かせた。
少なくとも強制終了に関してはコタロウの自業自得であるのだが、その事実を棚にひょいと上げて、彼は微妙に名義変更された都市伝説の内容を反芻した。
コタロウが聞いた噂によると、制限時間内にゲームをクリアすることができれば生還できるのだとか。制限時間は現界にある肉体の衰弱死まで。人間が水分を一切摂取せずに生存できる日数は、おおよそ三日と言われている。頑張って攻略せねば、と解凍イワシは体表の霜を振い落とした。
遥か遠くの積乱雲は天を衝くほどに高く、その内に抱く塔の影を薄らと滲ませる。どこから流れてきたのか、波間に揺れる桜の花弁を見て、コタロウは思った。とりあえず、陸に上がろう。
異界でただ一尾だろう、泳げないイワシは、干潟を胸鰭で這って歩く
そんな珍妙きてれつな存在が目立っていないはずもない。災厄の影が少年に近づきつつあった。
それは唐突に起こった。
コタロウの頭上の虚空が、融けるように歪んだ。熱気が渦を巻き、陽炎が立ち昇る。次の瞬間、幾重もの光輪を迸らせて、蜃気楼が爆発的に広がった。小さなイワシを容易く呑み込んで。
逢魔が時の赤く暗く重く焼けた雲煙の向こうから、遠雷が轟き渡る。そこは数多の高層ビルに支配された場所だった。現界の大都市を映したかのようでありながら、しかし
ひしゃげた橋の鉄筋がひび割れた道路の上をのたうち回り、時折、今にも倒壊しそうなほどに傾いた建造物からガラス片が崩れ落ちる。かつて天を摩したであろう廃墟の谷間を、虹色に輝きながら漂う靄の一筋が、酷く不自然で妖しい。足下で枯れた花が乾いた音を立てた。曇る空、淀む風、涸れる地。死の音と死の色が息苦しさを覚えるほどに圧しかかる。立ち並ぶ巨大な墓石群を見ているかのようだ。
そう、ここは摩天楼の遺跡である。
解凍済みだったはずのイワシに、再び冷たい霜が降りた。彼はこの場所をよく知っていた。開発者として、
マホロバの全領域がプレイヤーに攻略された時、初めてその姿を現す裏の領域――だったはずなのだが。
幸か不幸か、コタロウは現在地を理解した。ここは蜃気楼域の初期位置に設定した封鎖海域なのだろう。本来であれば、条件が達成されない限り、プレイヤーはこの海域まで到達できない仕組みになっている。しかしながら珍妙な新種のイワシが現れたことで、蜃気楼を司るNPCも動き出してしまったらしい。
蜃気楼域の摩天楼遺跡に在る生命体は、ただ一つ、遺跡の主のみ。隠された裏界のラスボス、略して裏ボス。異界最強、もとい、最凶の存在である。
遺跡を支配する魅の王を、特に
均整の取れた長躯は無駄なく引き締まり、揺るぎのない筋骨は力に溢れている。そこに脆弱さは欠片もなく、研磨された剽悍さを浮き彫りにする。数式から導き出された美感に姿形を持たせれば、この人間になるであろう。無機質の美しさである。それゆえに、異質であった。
武官の儀礼服に近未来の武装を施したかのような装束は、鋭利な妖刀を飾り立てるに相応しい、時代色の歪なものだ。
ただ、被り物をしているために、面貌ははっきりしない。ツクモ社の商標である
アウンは飢餓感に満ちた戦闘狂である。摩天楼遺跡に最初の攻略者が現れた直後から、異界中のあらゆる領域に蜃気楼を侵食させて出現する、特殊放浪型の旧魅でもあった。ゲーム依存症対策も兼ねて、高レベルプレイヤーと八時間超過プレイヤーを集中的に狩るよう設定されたNPCなのだが、なにゆえか、弱小イワシに興味津々のようだった。
アウンはイワシの前にしゃがむと、内懐から何かを取り出した。右手に現れたるは箸、左手に現れたるは小皿と醤油瓶。目口を象る破茶碗の割れ目が、感情に合わせて表情を形作る。新種のイワシか、生きがよくて旨そうだ、と。
旨そう? 何が? イワシが? ……まるかじりの危機!
反射的に、コタロウは腹鰭で立ち上がると、胸鰭で握り拳を作り、構えた。
「きゅっ」
「おやおや」
ファイティングポーズを取ったものの、ゲリラ豪雨に襲われたイワシのように、流れ出る冷汗で頭から尾までずぶ濡れになる。デスゲームの初戦が裏ボス。二時間映画の開始五分で主人公を殺すような暴挙が許されていいのか。残り一時間五五分をどうするつもりなのか、と映画監督に問い質したい。そもそも、裏ボスは裏と名づいている以上、本編に登場しては駄目だろう。続編に見送ってくれないだろうか。
パック詰めにされてスーパーに並ぶイワシの目が思い浮かぶ。今、自分の目玉もあんな風になっている気がする。
いやいや、マホロバ開発者たる者、自分が作り上げたゲームでネタになるなど許されない。諦めの悪さが勝利の鍵。時すでにおスシ、と言わせてなるものか。
生鮮食料品の反抗に目を丸めた人間は、だが次第に口角を吊り上げていった。にたり、と破茶碗の割れ目が笑む。闘争本能が熱を帯び始めたらしい。火がつくのも時間の問題だろう。
「イワシの分際で面白いですね、君は」
紫電一閃、箸が風を切った。
イワシは胸鰭で頭を抱え込むようにして丸めると、すかさず腹鰭で地を蹴って前方へ跳躍した。手裏剣と化した箸は、一本目が背鰭を、二本目が尾鰭を、掠めるようにして通り過ぎ、後方の地面に突き刺さった。勢い余ってでんぐり返ったイワシだったが、目刺とならずに済んだのだから上出来だろう。
いかに生粋の運動音痴といえども、コタロウは超一流オタクの開発者である。戦闘に入る寸前の予備動作から、攻撃の型、間合、速度、連係、その他、諸々の予測をつけることくらい朝飯前だ。腐ってもタイ、いやいや、腐ってもイワシ。
そうであっても避けるだけで一杯一杯になっているところが、コタロウのコタロウたる所以だが。
「くっくっ、実に面白い!」
アウンは左手の小皿と醤油瓶を投げ捨てると、仰天の収納力を持つらしい内懐から二本の包丁を抜き出し、くるりと一回転させて両手に構えた。
何が何でもイワシを食う気らしい。
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