第12話 生かさず殺さず
タロ家は朝食の支度で慌ただしかった。父ウスが座卓を拭き、母カネヨが作った料理を、息子のコタロウが座卓まで運ぶ。ご飯の湯気と豚汁の匂いが、畳敷の居間に広がった。
テレビでは、産業スパイによる企業秘密の不正入手について報じている。どこかの企業がサイバー攻撃の被害に遭ったらしい。どこだろうか、と思ったところで、母がチャンネルを変えた。辛気臭いニュースを見ながらの食事は、カネヨが嫌うものの一つだ。
今日のおかずは、仄かな酸味が食欲をかき立てるイワシの梅干煮、甘くふっくらと柔らかい玉子焼、鰹だしの風味が豊かなほうれん草のお浸し、唐辛子の辛味を利かせた金平根菜、の四品。
食事の準備が整うと、三人は正座して手を合わせた。
「「「いただきます」」」
休日ということで比較的ゆっくりと食べている父の横で、一所懸命にもぐもぐと口を動かしている息子。ウスは箸を止めると、隣のコタロウに尋ねた。
「何か予定でもあるのかい?」
欲張りすぎた一口に少し焦りながら、コタロウはもぐもぐと答えた。
「マホロバの改訂作業がある。今日一泊して、明日帰る」
「お泊りでお仕事なのかい? 父さんはコタロウくんが過労で倒れないか心配だよ。色んな人から頼りにされているのは知っているけど、頑張りすぎてはいけないよ?」
夫の言葉が気に入らないとばかりに、カネヨが箸で茶碗の縁を叩き鳴らした。行儀が悪いから真似はするな。と、彼女自身が言うのだから天邪鬼である。
「あたしは育ちが悪いから反面教師にしな」
それが彼女の教育方針であり、息子二人もそう言い聞かされてきた。長男タロウが立派に育っているものだから、思うところがあるご近所さんも口を出しづらいそうだ。ある時、散歩中のコタロウを捕まえて、お茶を振る舞いながら、町の御意見番がそんな話をしていた。
「カネヨさんもコタロウくんが心配だろう?」
「何を言ってんのさ、この程度で。まったく、過保護な父親だね。コタロウ、あんたは
「大黒柱は僕じゃないのかい?」
妻に黙殺され、夫は肩を落とした。ただでさえ影が薄いのに、意気消沈のあまり、輪をかけて薄くなる。しょんぼりと背を丸める様子は、吹けば飛ぶ、というより、吹けば消える煙のようだった。
名は
カネヨは少女時代を金銭で苦労して過ごしたらしく、自他共に認める守銭奴だった。がめつさには定評があり、息子を指して「金の卵を生んだ」と高らかに自画自讃するような、一癖も二癖もある性格をしている。町の御意見番いわく、友人となるには勇気が必要らしい。そんな母と非常に仲がいいタンポポの母親は、実は勇者なのかもしれない。タンポポが猛者なのも、勇者の血筋だからかも。コタロウはちょっと期待している。
因みに、カネヨの真名は「兼代」であって、決して「金よ」ではない。
「ごちそうさま。行ってきます」
「おそまつさま。恩は半返しでもいいけど、仇は倍返しにしてやれ。利息の計算を忘れるんじゃないわよ」
「行ってらっしゃい。お菓子をあげるって言われても、知らない人について行っては駄目だよ。気をつけてね」
食事が終わると早速、コタロウはコチ宗家にある
当初、国立の研究施設を借りる話も出ていたのだが、兄タロウの反対とコチ宗主の勧誘で、コチ宗家の敷地内にいつの間にやら建てられていた研究施設を使わせてもらうことになった。
コチ宗家はこの辺り一帯の大地主であり、所有する土地には山も川も神社もタロ家も含まれている。研究所を三つ四つ建てたところで、札束でお釣りが来る広大ぶりであった。
鎮守の杜に敷かれた石段を上り、朱色の鳥居をくぐると、優美な枝垂桜の植わる境内に出た。その後方には、悠久の神が鎮座する神体山に対して跪くかのように、荘厳な拝殿が粛然と静黙して存在する。常世と現世を分かつ境界がある、と見る者を納得させてしまう不思議な雰囲気がそこにはあった。
神体山にぺこりと頭を下げてから、コタロウは境内を左に進み、千本桜の並木道へ入った。この季節、そこは桜花のトンネルである。
淡く柔らかな彩りの花弁が風に舞い、頬を掠めるように通り過ぎていく。桜色に染められた視界が開けた時、少年は空を仰ぎ見た。彼の研究所はそこにあった。
ふっと、陽炎のように視界が揺らぐ。
――光学迷彩の
虚幕は実体のないカーテンのようなもので、外部から内部を覆い隠している。内部と言っても、隠しているものは研究所そのものではない。研究所の敷地内に生える大樹である。
虚幕の内側へ一歩足を踏み入れた途端、大樹の偉観が少年の視界を覆い尽くさんばかりに広がった。研究所から突き出るように、高く大きくそびえ立つ。虚幕で遮られていなければ、遠目からでも十分に見て取れたであろう、威容だった。
コタロウが研究所に到着した頃、同じ敷地内にある道場では、父のコチ・マツと娘のコチ・タンポポが早朝の修練を終えようとしていた。
磨かれた板敷の上で、武道着を着た二人は、相対するように座して一礼を交わした。宗主と次代宗主の威儀正しい立居振舞は、観客がこの場にいれば感嘆の溜め息を零したことだろう。
厳格さが滲み出る声音で、マツは次代宗主の娘に説いた。
「今日はコタロウくんが研究所に来る日だ。先日の一件、彼が自ら火の粉を払ったそうだが、彼を狙う不埒者がまた現れぬとも限らぬ。敷地内の警備体制を強化しておいたとはいえ、油断をしてはならぬぞ。マホロバのシステムにクラッキングを仕掛けるような愚か者も出ていると聞く。幸い、どれも防衛用のAIが始末をつけたそうだが」
そのAIとは友達になれそうだ。と、タンポポは頷きながら思った。
「お前も心して事に当たるのだ。女であっても、
マツにとって、コタロウはすでに娘婿らしい。春一番も驚く気の早さだとは思うものの、タンポポは少年にぞっこんなので、守護することに否やはない。婿に来てもらえるよう、努力も重ねるつもりだ。
先日の二人組が単なる変質者ではなかった、という話を父親から聞かされて以来、タンポポは鍛練に余念がなかった。先日の一件を反省し、まずは「生かさず殺さず」口を割らせようと技術を磨いている。
恋は盲目とか、恋は曲者とか、昔から恋する人間の恐ろしさを謳う表現は多いが、タンポポも例に漏れず盲目な曲者だった。少年が少女を庇うように前へ出た時、彼女の脳内は一面の花畑と化した。花弁が春風に乗って円舞を繰り広げる。手を繋いだ時には、七色に輝く虹が架かった。自身の手で悪人どもを完膚なきまでに叩き潰した事実など、記憶の此方から銀河の彼方へと放り投げていた。潔いほど幼馴染以外の人間など眼中にない。
タンポポは宗主に向け、こくこくと繰り返し頷き、ぎゅっぎゅっと手を握り締めた。
「それにしても、お前ほどの手練れを庇ってみせるとは。周囲に悟らせず修練を積んでいたということか。我が古武道の源流を感じさせるな。あの兄にしてこの弟ありか。うむ、一度手合わせを願ってみるかな」
父の発言に、娘はぴたりと動きを止めた。恋の花を咲かせるタンポポも、さすがにコタロウが運動を苦手としていることは知っている。今さらながら先日の一件、客観的ではなく主観的な、簡略的というより脱略的な、報告になってしまっていたかもしれない。宗主と対峙した幼馴染が、黄泉平坂をころころと転げ落ちてしまう。そんな様が思い浮かんで、少女は父の邪魔をすることに決めた。
「マツくん、タンポポちゃん、修練お疲れ様でした。コタロウくんが研究所に見えたようだから、タンポポちゃん、後でお飲物とおやつをさし入れておあげなさい」
道場の出入口から、タンポポの母、コチ・フジが二人に声をかけた。春らしい山吹色の和服がよく似合う、包容するような雰囲気をまとった婦人である。おっとりとした気性で、その所作はゆったりとしながらも美しい。
そわそわしだした娘を送り出すと、フジは微笑の色合いを変えて、宗主に報告した。
「春になって早速、杜の罠に獲物がかかりましたわ。鼬よりも大きいのだけど熊よりも不味そうな獣が何匹か。どうやらタンポポちゃんを狙っていたようね」
「ふん、コタロウくんに軽くいなされて、今度はタンポポを人質にしようと考えたか。東風流宗家も随分と舐められたものだ。子兎の
「獲物はどう料理したら美味しくなりますかしら?」
「やめておけ。毒もありそうだが、何より腐っていよう、性根がな」
「あらあら、残念ね」
鎮守の杜で戦闘服の大人たちが狩猟に勤しむ一方、東風研究所では戦隊服の少年が趣味に励んでいた。
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