第二章 正義の味方の弟は家庭の味方(種族は鮨種)
第8話 世紀末のテロ事件
一九八〇年代、ヒノキ国のゲーム業界は技術躍進を遂げる。世界の頂点まで登り詰め、我が世の春を謳歌した――一九九〇年代半ばまでは。他国の一歩先を行く高い技術力をもって、万国の先頭を脇目も振らずにひた走っていた彼らは、しかし、突如その前途を襲った地割れに足を引きずり込まれ、深い谷の底へと呑み込まれることとなる。
世紀末予言が人の口々に上り始めた、その年。世界を震撼させるテロ事件が起きた。
それは電子ゲームを利用して行われた、過去に類を見ない、大規模な国際洗脳犯罪であった。当時、電子ゲームは、国境を越え、人種を越え、国際社会を席巻する勢いで、利用者数を爆発的に増加させていた。洗脳の影響は、世界全土に波及した。
ある種の電磁波を脳に照射することで、人間の感情や行動を制御する。これは、世界大戦時、続く東西大陸冷戦時、いくつかの国家により研究がなされていた課題の一つである。心理学、脳生理学、精神医学、神経外科学、人類生態学……様々な分野から優秀な研究者が集められ、国家主導の下、非人道的な人体実験が秘密裏に繰り返された。
誰に気づかせることもなく、他者を洗脳することはできるのか。国家の問いに対する研究者たちの答えは、「可能」だった。
研究に携わった学者の一人は、当時、日記にこう書き残している。
「麻薬で人間を洗脳する時代は昨日までで、今日からは電磁波で人間を洗脳する時代だ」
冷戦終結後、研究の関係者や人体実験の被験者などの告白から、大手新聞社の記者により非人道的行為の数々が暴露された。世論の厳しい批判を浴び、洗脳を目的とした研究は世の中から姿を消した――かに見えた。
大衆の目を欺き、場を変え、姿を変え、研究は続けられていたのだ。
チドオ・テラクは、世界大戦末期、西大陸の小国に生まれ、軍靴の音を子守唄に育った。終戦時には両親兄弟もすでに亡く、親戚筋に当たる隣国の軍人家庭に戦災孤児として引き取られた。そこで才能を見出され、高い学力と強い意志を周囲に示し、長じて国防研究所に入った。
世界から戦争をなくす。それが戦争に家族を奪われた彼の信念だった。国家の後押しもあり、彼は科学の方面から世界平和の実現を目指した。
彼は電磁波が人間の感情に与える影響に着目した。人類から行き過ぎた闘争心を取り上げることができれば、種の自滅すら引き起こしかねない馬鹿げた戦争など行われないのではないか。彼はそう考えた。
世界大戦が終結しても、依然として国際間の緊張状態は続いていた。東大陸諸国と西大陸諸国の大洋を挟んだ睨み合いは、一向に収まる気配を見せなかった。俗に言う東西大陸冷戦である。
危うい社会情勢に心を痛めつつも、研究に邁進するチドオだったが、次第に彼の心は焦りといらだちに蝕まれるようになった。世界の情勢が悪化しつつある一方で、満足の行く研究結果を出すことができずにいたためだ。次の戦争は核戦争になる。それを止めるためにも、成果を上げなくてはならない。政治犯や思想犯を被験者とした、身体と生命の危険を顧みない人体実験に、彼は気違い染みた勤勉さで取り組むようになっていった。
そこに狂気が混ざり込むようになったのは、いつの頃からだったのか。すでに、世界平和は人命軽視の免罪符と化していた。
幸いなことに、崖っ縁に立たされながらも、世界各国の踏ん張りにより、東西大陸冷戦は終結し、核戦争は回避された。
チドオが行った研究の被験者数は、三桁に上っていた。それとて記録に残されていた範囲での人数である。研究所外で個人的に実験を行っていたという話もあり、被験者の実数はさらに多いものであっただろう。
戦時の人権問題が取沙汰されるようになると、チドオもまた研究の中で非人道的行為を行ったとして厳しい追及を受けた。だが、軍部管轄下の研究だったことで、彼が法で裁かれることはなかった。ただし、諸々の問題の責任を取らされる形で、彼は研究所を追われた。
チドオは自身の研究が正義の行使に繋がると信じて疑わなかった。研究を続けなければならない。しかしながら、彼の名と顔は研究内容の恐ろしさと共に、国内はおろか近隣国にまで広まっていた。研究できる場所を求め、目をつけたものが、とある宗教団体だった。信者となった彼は、教団の
西大陸東端の島国、ヒノキ国へ。
ヒノキ国に渡来したチドオは、まず教団内部に強い地盤を築くことから始めた。彼の才能は研究以外の方面でも遺憾なく発揮された。教団内部の問題を片づけ、言葉巧みに信者を増やし、病身の教主を籠絡した。彼が教団の実権を掌握するためにかけた日数は、わずか二年。特に若い信者から熱狂的に支持される指導者として、次代の教主と目されるほどに確かな立場を勝ち得た。しかし、それも彼にとっては、あくまで事前工作でしかなかった。
彼の研究が再び始まった。科学の力でもたらす「世界平和」のための研究が。
チドオは信者を被験者とした人体実験で手応えを得ると、今度は多感な年代の人間を標的に据えた。彼が取った手法は、教団の広報活動を用いたものだった。それも時代に即した電子ゲームをもって。
電子機器が目覚ましい発展を遂げる世の中である。子供が電子ゲームで育つ環境を利用しない手はなかった。彼の下には学位や技術力を持つ信者も多く、教団の潤沢な資金を使い、電子ゲームの製作は順調に進んだ。
その内容は、世界各国の神話や伝説を題材にした、子供も楽しめる冒険ゲームであった。世界宗教の成り立ちや偉人の足跡、歴史、戦いなど、特定の宗教や宗派に囚われない、浅く広く噛み砕かれた物語は、完成し無料で配信されると、宗教学の導入に丁度いいとして話題になるほどであった。
そこに狂気が潜んでいるとも知らず。
電子ゲームの無料配信は、当時はまだほとんど存在せず、世界の先駆けと言ってよかった。その点でも話題性は十分あり、世界中で爆発的に受信者数、否、感染者数を増やした。
電子ゲームは電気通信で情報をやり取りする。電波に信号を乗せて送るのだが、その波に瞬間的な断続を刻み込み、ある特定のリズムを作り上げた時、受けた人間が催眠状態になることを、チドオは自身の研究で発見していた。彼にはそのリズムが神の福音に思えた。福音がもたらす状態下で暗示を繰り返すと、恐ろしくなるほど期待通りに、思想や価値観、主義主張を改めさせることができたのだ。
チドオは自身が神の使徒なのだと思い込んだ。自分は間違っていなかった!
異変に気づいたのは、国際警察機構のとある捜査官だった。各国から出向している捜査官たちの話を聞く内に、彼は各地で不自然な自殺者が続発している現状を知った。不審に感じて調べてみれば、自殺の状況がよく似ていることに気づいた。未成年者による一家無理心中、という状況が。
すぐさま、彼は各国の捜査官を集めた。事件の情報を共有し、捜査を続けていくと、一つの電子ゲームの存在が浮かび上がってきた。それは彼らが初めて体験する、電子ゲームを利用した国際洗脳犯罪であった。
とりわけ、ヒノキ国民は大きな衝撃を受けた。すぐ傍で、世界を震撼させる犯罪が行われていたのだ。誰もが報道を注視した。ヒノキ警察が犯罪拠点である教団本部を取り囲む中、不意に建物から勢いよく火の手が上がった――それが一連の事件の終局であった。チドオ・テラクを含め、信者の七割近くが焼死した。彼らが自らの意志で自殺を選んだのか否かは、誰にも判断がつかなかった。
事件は解決したが、世界に残した爪痕は大きかった。教団は言うまでもなく、教団本部が置かれていたヒノキ国に対しても、犯罪を見過ごしていたとして手厳しい非難が集中した。ヒノキ叩きは多くの国に連鎖し、世界中でヒノキ製品に対する不買運動が広がった。この背景にはヒノキ経済の躍進をよく思わない国の誘動があったとも言われる。
特に大きな打撃を受けたのが、ゲーム業界である。
これ以降、半世紀近くもの間、電子ゲームの開発は翳り続ける。事件後、同様の犯罪が起こらないように通信方式が見直されたが、地に落ちた信用はそう容易く取り戻せるものではなかった。
リアル冒険ゲーム「マホロバ」という一大開発事業は、まさしくゲーム業界に射し込んだ一条の光だった。
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