第4話 誘拐犯 → ???

 二一世紀の折り返し地点まで、時に遮断機の下りた踏切で足踏みし、時に急勾配の雪山で足を取られながらも、なんとか襷を繋げて後一走りという所までやって来た、その年の二月末。路肩に居座らんとする残雪を、春風が箒で掃いていく昼下りのことである。


 ユウクジラ大陸の東端にある島国ヒノキの、とある住宅地の片隅を、ゆっくりとした歩調で進む少年がいた。


 堅固な石塀が立ち並ぶ道は、古くも美しい。歴史と伝統の積み重なる町並を大切に思う住民の努力で、この地域には純和風の家屋がいまだ数多く残っていた。武道の大家が門弟らと共に根を下ろしてできた町、というおこりに馳せる想いも大きかったのかもしれない。町の名を、ヒムカシ町という。


 少年の背丈は小柄で、一見すると小学生かと思うところだが、中学生らしい。近隣の中学校の制服を着ている。彼の成長期は少しばかり道草を食ってからやって来そうだ。まだまだ幼さの残る顔立ちだったが、それを打ち消してなお余りある異彩が、彼には存在した。


 何事にも動じぬであろう、何事にも揺るがぬであろう、気格が。


 悠然と大空に目を澄ませたかと思えば、泰然と大地に目を据える。冷徹な煌めきを内包した底知れぬ双眸は、一条の光が射し込む凪の深淵の如き印象を人に与えるかもしれない。


 時折、足を止めて沈思するのだが、何を考えているのか、外からは窺い知ることができない。思考を他者に容易く悟らせるような軽みとは無縁らしい。感情の起伏が表に出がたいたちとしても、一〇代半ばとはとても思えぬ静謐さがそこにはあった。


「あのわっぱで間違いねぇな」


 石塀の陰に立ち、気配を潜ませる。男が一人、女が一人。


 穏やかな色のスーツを身にまとい、柔らかく色を入れたサングラスを顔にかけている。それらの下に目立たぬよう紛らかすものは、厚い筋肉に覆われた体つきと彫りの深い顔立ちだ。国際化が急速に進む昨今、外国人の姿はさほど珍しいものではない。時折、通行人が擦れ違うも、彼らに不審を抱いた様子はなかった。いわんや、スーツの裏に隠された麻酔剤や武器、眼鏡に組み込まれた望遠機能等、穏当とは言いがたい物具の存在になど、気づけようはずもない。


「あの坊やが標的の息子か」


 吊り上がった狐目の女が呟くと、角張った顎の男がそれに答えた。


「ああ、そうだな。だがよ、見るからに尋常な童じゃねぇぞ」

「この国でよく見る無知で馬鹿な坊やなら楽だったんだが。平凡な義父母の下で育ったんだろうに、実父に似るか」

「蛙の子は蛙ってこったな。ただの子供だと思ってかかったら、痛い目を見るのはこっちだろうぜ」

「それでもようやく洗い出せた、標的に繋がる糸だ。つかみ損ねるわけにはいかない」


 抑えようにも抑えきれず、焦燥感が口調に滲み出てしまう。狐女は思わず舌打ちした。相方を窺えば、顎男の表情も似たようなもので、硬い。


 二人は少年を監視していた。じりじりと焼きつく焦心に、おのずと口数が多くなる。


「まさか平和ぼけしたこの国で、諜報にてこずる日が来るとはな」

「おまけに、標的の影武者まで現れやがる」


 顎男の口元が苦虫を噛み潰したように歪む。標的の影武者、コードネーム「レッド」なる男。してやられた過去が、握り締めた手の爪先を肉に食い込ませた。


 冷静とは言いがたい情況を自覚して、狐女はゆっくりと息を吐くと、相棒の肩を軽く叩いた。


「肩の力を抜け」

「お、おう、そうだな」

「私も人のことを言えないがな」


 無駄な強張りは任務の失敗を招くだろう。我ら結社が標的とする相手は、容易ならざる者なのだから。


「……『〇と一の錬金術師』か」


 ある科学雑誌の見出しにあった文句を、狐女は口にした。称讃の吐息が語尾に続く。


「〇と一の錬金術師」「科学の申し子」「現代の青狸」――これらは全て、一人の天才科学者を指した呼び名だった。昨年度の「ヒノキ国が誇る職人百選」の頂点を飾った人物でもある。国際的な賞たる世界貢献賞エライデしょうの候補者に、なぜヒノキ政府は彼を推薦しないのかと、海外から文句が集中したことさえあった。


 近年に入ってから、ヒノキ国の名が世界各国の報道機関でよく取沙汰されるようになった。しかも、それがおおよそ好意的な内容であったことに、当初はの最期のあがきかと鼻で笑ったものだ。それほど、落ち目であったはずのヒノキ国の変化は、劇的なものだった。


「ヒノキ人は職人民族」

「世界の先陣を斬る侍魂」

「脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属オタク種」


 およそ三〇年前、俗に先進国と呼ばれる諸国の中で、ヒノキ国は技術開発の伸び率において最下位に転落した。否、等級づけの対象国に新興国も含まれていれば、彼らにも追い抜かれていただろう。


 重く伸しかかる負債、終わりの見えない不況、際限なく減り続ける雇用人口。政治も経済も、国家も国民も、精神も身体も、老化の一途を辿る国家、それがヒノキ国だった。


 当時のヒノキ国を象徴する例証に、現在でもしばしば話題に上る噂がある。いわく、時の政府は総理大臣をくじ引きで決めた、と。無論、ヒノキ政府は事実無根と否定している。しかしながら、この時、噂を信じたヒノキ人は全く信じなかったヒノキ人よりも多かったのだ。当の国民が己の選んだ代表者に深刻な不信を抱いていたという、滑稽な実情を如実に物語っている。議会の最中に居眠りをする与党、討論の途中で野次を飛ばす野党。仮想敵国であるヒノキ国を腐敗させるために、結社の工作員が裏面で暗躍したとはいえ、彼らヒノキ政治家の堕落した姿には彼女もよく嗤わせてもらったものだ。


 水が高きから低きへ流れるように、人はかたきからやすきへ流れるものである。苦労や責務を背負いたい者はそういない。現状に慨嘆するヒノキ人は少なからずいたであろう。だがその一方で、他力本願、責任転嫁、政治的無関心、事なかれ主義、それら倦怠的事象が斑模様を描く社会の中、ヒノキ国は自らの足で立たんと行動を起こす者に事欠いていた。あるいは、これこそ責任者が全国民という不特定多数であるがゆえに曖昧な国民主権の欠陥だったのか。


 分厚い黒雲は長らくヒノキ人の頭上に垂れこめた。


 しかしながら、五年前、一人の科学者の登場が、停滞する状況を切り裂く一条の光となった。ヒノキ政府によって厳重な情報統制が行われることとなる、正体不明の天才科学者である。


 たった一人の出現が状況を一変させた――まるで往時の英雄譚にある一節といった台詞だが、「時代が望んだ理想」を「英雄」と呼ぶならば、「〇と一の錬金術師」は確かにその体現者だったのだろう。


 これを成し得た背景には、彼の持つ特異的な側面の存在があった。研究結果を多方面で活かさせる応用力と発想力にずば抜けて富んでいたことと、実用化まで円滑に運ばせるだけの人脈と交渉力を持っていたことだ。特に後者は、ヒノキ国の科学者には珍しい質だろう。たった二人集まっただけで対立を起こす、それが人間である。一億人集まれば、否応なしに利害は衝突する。しかし、折衝が十二分にできるヒノキ人など、どれほどいるか。


 言葉に表してしまえばたったの二点だが、それらが他者へもたらした影響は、国勢を変えるほどに大きかった。彼の台頭を皮切りに、ヒノキ国のあらゆる分野において、零落した技術力の底上げが始まったのだ。


 人を突き動かすものは、「義」でも「欲」でも「法」でもなく、「人」ということなのか。


 彼が貢献した分野は、実に幅広い。情報、工業、宇宙、資源、環境、食糧、医療、文化、歴史……。日常生活においてであっても、彼の業績を耳にする機会は少なくない。


 賢者の石とも異名される植物品種改良用触媒「生ける触媒」。品種改良された海草を用いて構築された漁場「新式海洋牧場みきば」と、その海草から生まれた新燃料「藻油もゆ」。都市再生計画に組み込まれた緑化建材「コケンクリート」及び「コケヌファルト」。新しく提唱された学説「遠感理論」と、その基盤となる植物「世々葛よよかずら」。遠感理論を基に作り出された、聾唖を始めとした障害の感覚補助機器「第六感機びびっと」。遺棄された人工衛星を始め、様々な宇宙塵の回収を人に代わって行う擬似人格体「擬躯ぎく」。衛星による現在地測位と弾数監理の機能を搭載した低殺傷性警銃「放電銃ぴりっと」。枚挙にいとまがない。


 そして、研究者や技術者といった業界関係者のみならず、世界の大衆にまで彼の名を知らしめた、娯楽分野での活躍も忘れるわけにはいかない。当初、ヒノキ国を拠点とすることから「絶東の錬金術師」と呼ばれていた彼が、これより後、「〇と一の錬金術師」と称されるようになった一件。電子ゲームの新境地「リアルゲーム」である。


 パソコンを用いた遊戯、電子ゲーム。その登場から半世紀以上を経て、今年、ついに電子ゲームの新しい可能性が大衆の前に形となって現れた。


 リアル冒険ゲームの舞台である演戯場のロゴマークは、遊戯ゆげの読みと温泉国ヒノキをかけて、温泉を示す地図記号のもじりとなっている。ヒノキ人の遊び心といったところか。ゆげ印は今やヒノキ国だけでなく世界中に知られたマークだ。


 不意に、通りを見張っていた顎男が、仰け反るようにして後ずさりした。振り返ったその顔は青い。唾液を飲み込む音が、いやに響いた気がした。


「お、おい、あの童、こっちを見てねぇか?」

「馬鹿な! いくらなんでも偶然だろう?」


 顎男の狼狽ぶりに口元を引き攣らせながら、狐女は通りを歩いているはずの少年へと慎重に視線を向けた。そして、目が合った。硬質の輝きを放つ少年の双眸が、わずかに眇められて不快を示す。


 全身の筋肉が氷結し、一挙に冷汗が噴き出した。


 ふと、通行人の姿が消えていることに気づく。まさか、と思った。まさか、人気ひとけのない場所に誘い込まれた?


 狐女を襲った驚愕は、次の瞬間、さらに大きく膨れ上がった。少年の口の動きを読んでしまったがために。


「――が、二か」


 尾行の人数ばかりか、までもが相手に知られている!


 もはや一刻の猶予もならなかった。何としても少年を捕らえ、結社の情報をどこから得たのか聞き出さねばならない。行方の知れない標的を釣り出すために、なるべく無傷で捕獲するようにと命じられてはいたが、この子供相手に手加減できる余裕などない。要は、頭さえ無事であればいいのだ。


 相手の四肢を砕く。二人は視線で会話を交わすと、伸縮式警棒に似た金属棒をスーツの内側から取り出し、長く引き伸ばした。


 目標まで距離にして約二〇メートル。大きく息を吸い、腹に力を込めると、石塀の陰から弾丸の如く飛び出した。がたいのいい大人の全力疾走に、小石が跳ね、泥が弾けた。


 一〇メートルを切った時、突如、後方を走っていた顎男が、腹の底から絞り上げられた呻きを発した。猛獣の断末魔にも似たその声は、一瞬、狐女を自失させた。絡まりそうになる足をどうにかこうにか踏ん張って止め、振り返る。


 と、その時、視界の下隅を何かの影が奔った。


 ほぼ同時に、激烈な苦痛が腹部を襲い、続けざま、強烈な衝撃が脳味噌を揺らした。呼気が無音の絶叫と化して体外に吐き出される。狐女は酸欠の金魚のように口を開閉させ、気絶した。


 何が起きたのか、最後まで理解できぬまま。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る