第3話 マホロバの栞
そこは熱のない色に覆われた無機質な空間だった。壁の一面をスクリーンとするのみで、他三面には装飾一つ存在しない。抑えられた照明が、薄暗がりに幽かな光の帯を垂らし、時折、ダイヤモンドダストのように冷たく煌めいた。
壁面スクリーンが映し出しているものは、狩る者と狩られる者の死闘。
それを眺める男が一人。
スーツ姿の男である。遊び心が窺えるスリーピースの紳士服は、その繊細な装飾まで見えたが、顔は物陰にかかってよくわからない。室内の中央に置かれた椅子に座り、ゆったりと足を組み、肘掛けに肘をもたせかけるようにして、流れる映像を悠然と見つめている。
画面の向こうでは、激しい戦闘が繰り広げられていた。両目を炯々と光らせた獰猛な狼のように、狩人は狙いをつけた獲物へ疾駆する。長靴が鋭く地を蹴り、血の混じる泥が散る。突き込まれる凶刃を躱しざま、その手首をつかみ取り、引き寄せ、相手の脇腹を殴りつける。痛烈な打撃に耐えきれず、獲物は前のめりとなった。その側頭部へ、すかさず回し蹴りを叩き込み、重量を物ともせずに獲物を吹っ飛ばす。
狩人は画面のこちらに向けて、勝利の拳を掲げて見せた。
観客席の男が右手を翳すと、映像が切り替わった。凍原が、火山が、砂丘が、湿地が、海谷が、幻想的な風景の数々が映し出されては消えていく。
男が椅子から立ち上がる。
片腕を軽く伸ばし、一つ、指を鳴らせば、虚の空間に小さな発光体がいくつも現れた。色鮮やかな光暈をまとう姿が美しい。それは夜天を流れる星のように、室内を縦横に駆け巡り、光り輝く軌跡で、虚空に幾何学的な紋様を描き上げる。
ある紋は時計回りに、ある紋は反時計回りに、また、ある紋は急速に、ある紋は緩慢に、ぜんまい仕掛けの歯車となって動き出す。十重二十重に層を成す紋様がさらに重なり合い、中央に一つの大きな絵を形作った、その瞬間。
閃く光に、視界が白く塗り潰された。
――マホロバ、開幕まで後二〇日。
――魅せろ、世界にその生き様を。
「あっ! これ、マホロバの宣伝だ!」
「ああ、今、話題の。結構、ニュースでも取り上げられているな」
「そりゃあ、ゲーム業界が総力を挙げて取り組む一大開発事業だからな。しかも、陣頭指揮を執っている人物が『〇と一の錬金術師』だ。特報枠でもおかしくないさ」
圧倒的な量感、神秘的な情景。思わず惹きつけられる映像美に、画面が黒く消えた後も、観客の口は閉じられることがない。歳末の忙しなさが唇に移ったかのようだ。
扇形をした黄金色の葉が、広場を舞台に北風とワルツを踊っている。歩道脇に植えられた銀杏並木からやって来たらしい。
外出先から戻ってくる途中だった後輩社員は、頭上のスクリーンに釘付けとなっていた視線を隣へ移した。冬服だが、厚手の外套はまだ着ていない。時折吹く寒風に腕を摩りながら、女同士の気安い態度で、先輩社員にあることを聞いてみる。前々から気になっていたのだ。
「映ってた男の人って、やっぱり錬金術師さんでしょうか?」
年下の同僚に疑問を投げかけられて、年上の同僚二人は顔を見交わした。
「そういや、噂になってるわよね。あたしはそう思うわ。だって、顔を映さないじゃない? 錬金術師って、マスメディアに顔を出さないことで有名じゃん。絶対にそうだって」
「そうかしら? 私は俳優だと思うけれど。ほら、何年か前に、
「所作で人物を判断できるとか、姐さん、いったい何者よ?」
「時代劇について語らせたら、私の右に出る者はそういないわね」
「ふ、ふん、あたしだって、少女漫画の話題なら負けないわよ。なんてったって、少女漫画の中の人って言われるくらいですし? おほほ、わたくし、
「自分で『ご令嬢』だなんて言ってしまうあなたのこと、ぽっと出の成金のようで、親しみを覚えるわ。好きよ、そういうの、私。少女漫画の主人公を蹴落とそうと暗躍する敵役によくいるわよね、そういう子」
「それじゃ脇役じゃないのさ。あたしに相応しいのは主役よ、主役!」
いつの間にやら、話題が錬金術師から互いの趣味へと逸れてしまっている。本筋に戻そうと口を開けたところで、はたと後輩は無言のまま動きを止めた。先輩二人の会話の中に、記憶に引っかかるものを感じたのだ。おもむろに指先をこめかみへ運ぶと、名のある探偵の如く、真剣な表情で考え込む。
彼女の脳裏で、ぱっと電球が点灯した。次いで、彼女もぱっと晴れやかに笑った。問題に答えようと意気込む小学生のように、年上の二人に向けて真っ直ぐ手を挙げる。
「はい! はい! その殺陣で話題になった俳優さんって、昔、日曜の朝八時から放送されてた特撮番組で、主役を張ってた俳優さんのことですよね?」
「確か、そういう話も聞いた覚えがあるわ」
「ですよね! 歴代の中で、あの戦隊物が一番好きだったんですよねぇ。今の戦隊物ももちろんとっても面白いんですが、あれも再放送してくれないかなぁ。あ、でも、あの主役の俳優さん、もうそれなりにお歳を重ねていらっしゃるはずなので、映像の男性では若すぎるんじゃないかと。やっぱり錬金術師さん本人じゃないでしょうか!」
「見てるんだ、戦隊物」
「見てるのね、戦隊物」
「見ちゃってます、今でも毎週欠かさず」
澄明な青空に、なんとも平和な会話がはらりと舞い散っていった。
遡ること、台風が梅雨の背を押した六月某日。
島国ヒノキで、一本の電子ゲームがひっそりと発売された。題名には「マホロバの栞」の文字。
遺跡探検を主体としたそれは、画面を介したオンライン型冒険ゲームとしては、さして目新しい物ではなかった。ただでさえ、ゲーム業界全体の低迷が続いている状況だ。無名の制作会社だったこともあり、初月の売れ行きは良好とはお世辞にも言いがたいものであった。
しかし、二ヶ月、三ヶ月、と経過するごとに、その様相は変化していった。じわじわとながらも着実に売り上げを伸ばしていったのである。どこのゲーム企業も業績不振に喘ぐ中で、それは降って湧いたかのような成果だった。自由度、世界像、芸術性、物語と登場人物、それらを支える
二次元に作られた虚構とは思えない生き生きとした現実感に、そして、そうでありながらも夢と希望が虹色の不思議を織り成す非現実感に、プレイヤーは心を揺さ振られ、惹き込まれていった。
世間の話題を攫うに相応しい質の高さであったことは疑いようもない。その一方で、「マホロバの栞」は購入者に首を傾げさせてもいた。電子ゲームに関係ない物が同梱されていたためだ。
付録のように添えられた、用途不明な切符。
行き先は――マホロバ?
購入者からの質問に対して、制作会社の回答は「なくさないようお持ちください」の一言。
その正体が明かされたのは、切符の噂が出尽くした頃のことだった。
電子ゲーム「マホロバの栞」の発売開始から半年後、制作会社による記者発表が大々的に行われた。会場に詰めかけた記者たちは、ゲーム業界の有名どころが顔を揃えていることに目の色を変えた。打ち寄せる波のように、騒めきは次第に大きくなっていった。
「おい、あそこにいるのは
「あっちは合戦ゲームの雄、福ノ金次郎社だ」
「格闘ゲームの
満を持して臨む。そう雄弁に物語るだけのものが、ゲーム各社の姿勢にはあった。
何かが起ころうとしている。皮膚が粟立つような予感を、記者たちはいち早く嗅ぎ取った。
壇上に人が現れ、騒めきの波が彼方へ引く。記者の誰もが息を殺して、壇上の発表者をじっと見つめた。
「この切符は、理想の地に向かう皆さんへ、我々からの
その発表は、大衆を驚かせ、騒がせ、沸かせるものとなった。
「――理想に挑む
舞台は幕を開ける。
マホロバ。
それは理想郷を意味する古語であり、一本の電子ゲームの題名であると同時に、ヒノキ国で新たに誕生したリアル冒険ゲームの舞台名でもある。
一九九〇年代初頭に着工されたのだが、しかしその後の深刻な経済不況により、開発計画は事半ばにして白紙撤回され、そのまま見捨てられてしまったのだ。
巨額の負債を抱え、長らく荒野をさらすこととなった人工浮島に、ある人物から一大観光地として再建する計画が持ち込まれたのは、開発放棄から四半世紀余りも経った年のことである。犬猿の仲であった大臣と官僚が、この時ばかりは手に手を取り合って踊り狂ったという。
カウ浮島は全一三島から成る群島で、総敷地面積は一〇〇平方キロメートルを優に超える。マホロバはその内の七島で、その広さたるや、首都の主要都市を環状に結ぶヒノキ鉄道
テーマパークと一口に言っても様々な種類が存在するが、電子情報世界を現実世界に投影させて生み出された空想世界は、マホロバをマホロバとしてならしめた。遊園地とも劇場とも言いがたいその独自性により、「
一九七〇年代後半よりパソコンを使った電子ゲームが普及し、社会現象となるほどに大流行したが、二次元の遊びであったこれを三次元に昇華させたものがリアルゲームであり、マホロバは世界初となるリアル冒険ゲームのための舞台であった。
最先端の脳内投影技術を用いることで、人、物、ありとあらゆる対象に映像を重ね合わせて、マホロバの夢境は構築される。例えば現代の機能的な街並は、どこか古代と近代が入り交じる幻想的な異文明のそれへと転じ、例えば整地された芝原の地は、揺蕩う海面から射し込む光の筋に照らし出された珊瑚礁のそれへと変じ、例えば青く澄んだ晴天の空は、暗雲が渦を巻き雷火を迸らせる墨染のそれへと化し、そうして主人公を夢の紡ぐ物語に
現実の世界――現界に対して、そこはまさしく異なる世界――異界だった。
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