第一章 〇と一の錬金術師(脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属オタク種)
第2話 追い込み漁
評論には評論家たちの期待が、歴史には歴史家たちの希望が、往々にして混ざるもの。偉人の志は気高く、英雄の企図は壮大でなくてはならない。信じたいものを信じる、それが、世の常、人の常。目に映るものが実像であっても、目に映すものは虚像なのだ。
言わば、思い込みの筆と勘違いの墨で描かれた、これは「〇と一の錬金術師」の物語。
耳元の通信機から溢れた混乱と驚愕の叫びは、間を置かず雑音の波に飲み込まれた。通信機が備えつけられた眼鏡の耳当てを指で押さえ、男は吐き出すように呼びかけた。
「ヘリオ! 応答しろ、ヘリオ! リソス、ベリル、答えろ、答えるんだ! 誰でもいい、答えてくれ!」
通信の妨害は、敵の存在を如実に語っていた。
「くそっ、生き残りは俺だけか!」
眼鏡レンズに映し出されていたはずの衛星測位情報は乱れ、電波探知機も上手く作動せずにいる。ほどなくして、妨害電波の侵食により、映像は完全に途絶えた。
呼吸を荒々しく繰り返しながら、男は鋼鉄製の壁に背中を打ちつけた。肉を伝わる金属の冷たさ程度では、男に冷静さを取り戻させることはできなかった。べとつく汗は潮風のせいだけではない。
男は、これといって上げる特徴のない一般的な釣師の服装をしていた。防寒防水仕様の衣服、海釣りで欠かせない救命胴衣、滑り止めの効いた手袋に長靴、頭部を保護する帽子にサングラスと。ただし、ありふれているのは外見のみである。その実体は、最先端の科学技術が作り上げた最新鋭の戦闘服だった。軍用に開発された防刃防弾技術が使用され、着衣の各所には武器も仕込まれている。
いつの間にか、耳元の通信機から返る雑音は、一定の拍を刻む何某かの短音へと変化していた。それは、追手の足音のようであり、秒読みの針音のようでもあった。
鼓膜を打ち叩く脈動も、胸部を殴りつける拍動も、治まるどころか早鐘となって打ち鳴らされる。自身の内から起こる音すら、男を追い詰めてくるようだった。男は顔からサングラスを毟り取ると、地面に叩きつけた。焦燥に染まる瞳孔が、跳ね転がって闇の中に消えるサングラスへ向けられることはなかった。
埠頭に並ぶ貨物倉庫の陰で、男は詳細な港湾図を思い起こして、逃走経路を必死に探した。もはや自分しかいないのだ。この国で手に入れた情報を、何としても自分が本国へ持ち帰らねばならない。小型船舶を奪取して沖合まで出れば、仲間がいる。最悪、記録媒体だけでも近海にいる潜水艇の仲間へ渡るようにしなければ……。
今日までの工作活動を、水の泡としないために。
灯台の回転灯が足元を照らし出すたび、サーチライトに追われた過去が男の脳裏を掠め、思いに反して集中力を削ぎ落としていく。
作戦計画の綻びはどこにあったのか。音なき声が自身に問う。
とある島国の田舎町へ潜入するよう命じられた時、自分も同班の仲間たちも、不安など一切感じていなかった。敵国の中央官庁や軍事基地への潜入任務に比べれば、平和ぼけしたスパイ天国へのそれなど、何ほどのことがあろうか。死地があるとは思えず、危地も考えられない、ぬるい任務だとすら思っていた。
――標的が「〇と一の錬金術師」であろうとも。
思い違いも甚だしい。自身の愚かさにめまいがする。
異名に「〇と一の錬金術師」と称されるほどの人間が、国立研究機関の主任の椅子を蹴った、その行為を軽く見るべきではなかった。地位に付随する雑多な研究外の手間を嫌ったなど、表向きの理由でしかなかったのだ。
今にして、男は理解する。あの研究機関の役員は我が国に買収されている。仮に標的が研究主任に就いていたなら、彼が有する機密情報も簡単に入手できていたであろう。役員による情報漏洩の事実をつかんでいたからこそ、奴は研究機関からの招きを断ったのだ!
ふと、疑問が胸の内に沸き起こった。役員の買収が早くから気づかれていたなら、今日まで野放しにされていたことになる。あえて野放しにした、その意味は。
「まさか、事の始めから全て仕組まれ――」
高い電子音が頭蓋骨を揺さ振り、男は反射的に音の聞こえた方角へ顔を向けた。追手の位置を知るために仕掛けておいた鳴子の一つが作動したのだと、彼は瞬時に理解した。
鳴子と言っても、小型の対人検知器を搭載させた警報装置である。骨伝導を利用して警報を受信する型のもので、自分以外には聞こえない。追手がどんな手練れであれ、そう容易くその存在に気づけはしないだろう。
事が露顕して追われた場合の備えだった。万が一、億が一の、使用される日など来ない備えだと思っていた。味方が念のため港湾に仕掛けておいたもの。それを周到すぎると笑ったのは誰だったか。自嘲に顔が歪む。
超音波で人を検知する鳴子は、どうやら妨害電波の影響を受けずに済んだらしい。天に見放されたわけではない。運はまだこちらに向いている。音に背を向け、壁際を駆け出す。
再び、鳴子が響く。一度目の音より近い。距離を詰められている。焦るな。死角の多い道を選べ。
鳴子が響くたび、音の方角を確認しながら、男は脳内に描く逃走経路を修正して進んだ。当初の計画とは異なるが、向かう先にも小型船舶用の停泊所がある。機動力のある船舶があればいいが、高望みか。とにかく、沖合まで出られればいい。
そして、仲間に伝えなければ。
標的として狙い定めていた男が、標的ではなかったことを。
「〇と一の錬金術師」に影武者がいたことを。
――影武者が我々を誘き出すための囮であったことを!
我が国は錬金術師の謀計にまんまと嵌められてしまった。あの男は錬金術師ではなかった。だが、その事実を知る人間は、今や自分一人しかいない。ここで伝え損なえば、味方が偽者を錬金術師と思い込まされたままになってしまう。仲間の工作員を擬餌に食いつく間抜けになどさせてなるものか。
威嚇する獣のように、男は歯を剥き出した。敵の影がないか、血走った目を周囲に走らせる。行ける、まだ行ける。平和ぼけした国の追手など振り切ってみせる。
何度目かの鳴子が響いた。男は硬直した。鳴子の音が、男の体から動きを奪ったのだ。
何が生じたのか、男には理解できなかった。いや、事象自体は単純なものだ。鳴子が鳴った、ただそれだけである。
問題は、行く手から音が聞こえたことだ。
それも、すぐ傍から。
建物の暗がりから、人影が現れた。その手は、何かを弄んでいる。
相手の手が握る物の正体に気づいて、男は呻かずにはいられなかった。
「釣師なら知ってるよな? 追い込み漁って奴を」
咄嗟に、男は反転して逃げようとした。しかしそれも、三歩で止まった。後方にも追手の姿があったのだ。
敵の包囲網に自身が追い込まれていたことを、男はようやく理解した。
「踊らされていた、だ、と……」
遅きに失する理解だった。
「ゲームオーバーだ」
場を支配する人間の言葉が、男を絶望の淵に叩き落とした。
「楽しかったぜ? お疲れさん」
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