そのイワシが黒幕です

九九鬼夜行

第一部 お一人様デスゲームのすすめ

序章 黒幕の誕生

第1話 イワシか、マグロか、それとも……

 鉄扉の覗き窓は、椅子の上に乗って背伸びをすれば、ぎりぎり届く高さだ。少年は窓から覗き込んで、昼間でも薄暗い通路の様子を窺った。天井から染み出る雨水で、壁も床も錆が浮いている。


 通路の壁にもたれかかる「友達」。座り込んだまま冷たくなって、そこにいる。


 小山の影がその奥に見える。


 ――山積みにされた、骸の影だ。


 鉄扉の向こう側で、じりりじりりと鳴く「虫」の声を聞いたのが、つい今し方。焦げついたような、耳障りな音だが、しょっちゅう聞こえてくるので慣れてしまった。ただ、今日の声音はいつもとは少し違うように感じられて、外の様子を窺ったのだが、特におかしな点はない。


 煙や塵で汚れた窓は、服の袖で拭ってもたいして綺麗にはならない。曇って見えにくいのだが、鉄扉は勝手に開けてはいけないと言われている。


 部屋の外はモンスターの世界だ。


 少年は「お母さん」とここに隠れ住んでいる。


 聞き違いだろうか。少年は小首を傾げながらも、椅子を引きずって元の位置に戻した。そうかもしれない。今日もいつもと変わらず、モンスターらしき姿は見えなかったのだから。


 ここは廃墟の一角らしい。放棄された何某かの施設の一室。「お母さん」が手を加えて暮らせるようにしてくれた部屋だ。いくつもある大きな水槽では、水草を育てている。少年の日課は水草の観察日記を書くことだった。残念ながら、魚はいない。飼うなら、イワシ、いやいや、マグロがいい。こっちの方が大っきくて、食い出がありそうだ。


 少年は本棚から図鑑を引っ張り出すと、重いそれをえっちらおっちら運び、水槽の横手に置かれた机の上に乗せた。この時間、「お母さん」は奥の部屋で仕事をしている。邪魔をしてはいけないから、一人でできることは一人でやる。


 今日の分の観察日記を書くために、水草を観察しようと水槽を見た、その時。異変に気づいた。


 水面が揺れている?


 ほんのわずかだが、小さな波が絶えず立っている。水槽のガラス面に手の平をぺたりとくっつければ、小刻みな振動が伝わってきた。


 大きな音が全身を揺さ振ったのは、その直後だった。頭のすぐ上に雷が落ちたかのような、今までに聞いたことがない轟音だった。


 少年はびっくりして、その場に尻餅をついた。天井からぱらぱらと破片が降ってきて、反射的に両腕で頭をかばう。どっ、どっ、と鼓動が耳のすぐ傍でする。何が起きたのか、わからなかった。


 混乱する中、「お母さん」の言葉を思い出す。外の世界はモンスターで溢れ返っているのだ。もしかしたら、そのモンスターたちがここへ襲いかかってきたのかもしれない。不安が心臓を鷲づかみにする。涙目になりながら、その場でうずくまった。


 慌ただしい足音が聞こえてきて、少年は顔を上げた。部屋の奥から「お母さん」が走ってくる。常にない荒っぽさで少年を抱き上げると、扉脇の制御盤に駆け寄り、手を叩きつけた。


 制御盤の画面に、光が絵を描く。かちり、と鉄扉の鍵が開いた。


 少年は背を叩かれて、「お母さん」の首にしっかりと手を回して抱きついた。昔は自動で開閉する魔法の扉だったそうだが、今はその魔法も力を失ってしまったらしい。「お母さん」が左右の扉の境目に指をねじ込み、力を込めて押し開いた。こんなに重そうな扉を開けられる「お母さん」なら、モンスターと戦っても勝てるかもしれない。ちょっとだけほっとして、自分の軟弱な筋肉とは違う、強くて硬くて頼もしい鋼の肉体をぎゅうぎゅうと抱き締めた。


 部屋の外に出た。モンスターの縄張りに。ここから先は少年の知らない領域だ。


 鉄扉の人一人分の隙間から、今日まで暮らしていた部屋が覗く。椅子に、机に、観察日記。この場所にはもう戻って来られない気がした。少年は「お母さん」の肩越しに小さく手を振って、別れを告げた。


 迷路のような通路を足早に進んでいく。


 前方から流れてくる風の中に、嗅ぎ慣れない異臭を感じ取った。腐食が進んだ金属の臭いに混じって、何かが焼け焦げたような臭いがする。これがモンスターの臭いなのだろうか。部屋の外に出たことがない少年には、どれもこれもおかしく思えて、何が異常なのか、判断がつかなかった。


 その時、通路の行く手から、物音がした。


「お母さん」が足を止めた。


 小さな物音だった。砂利が地面を擦った時のような。


 ――足音だ!


 高ぶった神経が五感を鋭く尖らせていなければ、きっと気づけなかっただろう。だが、確かにこちらへ向かって近づいて来ている。じっくりと油断なく、獲物の隙を探るかのような足音が。それも、おそらく複数。


「お母さん」が少年を見た。そして、通路の一角に目を向けた。「友達」の体の一部が、無造作に積み上げられている。静かに、だが、素早く、そこへ駆け寄った。


 その陰に、少年を押し込めた。


 嫌な予感がして、少年は「お母さん」に手を伸ばした。「お母さん」が少年の手を痛いほどに強くつかむ。だが、抱き上げてはくれなかった。その手を少年の耳まで運んで、しっかりと押さえさせる。一度、少年の頭を撫でると、「友達」の冷たい体で覆い隠した。


 それが動いている「お母さん」を見た最後だった。


 積み重ねられた腕や足の隙間からは、向かい側の壁しか見えない。何も見えなかった。それでも、目は誰かに操られでもしているかのように見開いていった。音が瞑ることを許さなかった。


 叫び声や唸り声に重なる咆哮。連続する金属音。耳を押さえていても、鼓膜を貫いていく。


 しばらくして、音は鳴り止んだ。だが、少年の体はぎゅっと固まったままだった。


 モンスターの気配が消えない。


「お母さん」が戻ってこない。


 モンスターの話し声がする。


「お母さん」が帰ってこない。


 姿を見せない「お母さん」が心配になって、少年はこわばった体を奮い立たせた。「友達」の体を少しだけどけて、通路の先を覗いた。


 モンスターたちの背中が見えた。立っている者もいれば、屈んでいる者もいる。何かを取り囲んで、観察しているようだった。手に大振りのナイフを握っている者までいる。どろりとしたものがナイフを染め、刃を伝って流れ落ちていく。


 モンスターの一人が立ち上がった時、その陰に「お母さん」を見つけた。倒れている。壁に打ちつけられたのかもしれない。左足が折れ曲がり、右手が千切れ飛んでいた。


 体中の血管が大きく脈打った。衝動が少年の体を殴り飛ばした。


 陰から飛び出し、転げそうになりながら走った。その勢いのまま、少年はありったけの体当たりで、モンスターを突き飛ばした。


「うおっと!」

「お? おお?」

「なっ、何?」

「はっ、えっ、はっ?」

「おいおい、待ってくれよ、まじか、これ」


 モンスターが吠え立ててくる。


「「「「こども!?」」」」


 息を合わせた咆哮に、体が震える。それでも、少年は歯を食いしばりながら、頑張って耐えた。傍に「お母さん」がいると思えば耐えられた。「お母さん」を背に隠して、モンスターを睨み返す。


「この周辺で遭難事故があったなんて聞いてねぇぞ。報告忘れか」

「痩せているね。昨日今日の遭難じゃないと思うよ」


 リーダーらしき、毛色の違うモンスターが、手を振って配下の仲間に指示を出す。


「本部に連絡を入れろ」

「了解」


 指示されたモンスターが、二の腕の無線機に向かって口を開く。


「要救助者を発見! 至急、救急ヘリの要請を願います!」

「この子の親が近くにいるかもしれない。周辺を捜索する必要があるな……」


 じりじりと近づいて来るモンスター。なんとかして「お母さん」から引き離さなくては。少年は、目一杯、腕を振り回した。


「ちびすけ、落ち着けって。腕が取れちまうぞ」

「どうどう、どうどう」

「パニックになっているのかも」


 モンスターが動きを止めた。その隙に猛打を浴びせる。


「え、パニック? あ、パニック! パ、パニック!?」

「ちびっこ、僕らはその、せ、正義の味方だよ。助けに来たから、もう大丈夫!」

「そ、そうそう、兄ちゃんたちは地球防衛戦隊ロボルンジャーの隊員なんだぞ。みんなのヒーローが来たからには、もう安心だ!」

「てめぇらがパニクってんじゃねぇよ。しかも、何、吹いてやがる」

「お前、もぐりか。ロボルンジャーは子供に大人気なんだぞ。泣く子も笑っちゃうんだからな」


 モンスターはしつこかった。追い払っても追い払っても、すぐにまた近寄ってきた。少年は肩で息をしながら、何度もモンスターの足を噛んで叩いて蹴った。


 ――その時。


 背後で、がしゃん、と崩れ落ちる金属音がした。少年は振り返った。「お母さん」の体から抜け落ちた部品が、床を転がって、足の指に当たって、止まった。


 かたん、と。


 小さなそれが気づかせた。「お母さん」は治らないかもしれない、と。


 足元の部品に飛びつく。少し目を動かせば、他にも見つけた。もっと顔を動かせば、あっちにもこっちにも転がっていた。


 少年は床に散らばる「お母さん」の部品をかき集めた。「お母さん」のお腹に空いた穴から流れ出た、どろどろとしたもので真っ黒になりながら、かき集めた。目元が燃えるように熱くなって、悲しみが溢れ出した。


「うぁ、ああぁ、あああぁあぁああああぁ――!」


 かき集めた「お母さん」の一部を抱えて、泣いた。






 戦闘兵器である「お母さん」は廃棄処分しなければならない。義理の兄となった男は、そう告げた。少年は廃棄されないが、「お母さん」は廃棄される。その境界が、少年にはよく呑み込めなかった。だが、それを口にしたところで何も変わらないことは感じ取っていた。


「お母さん」は帰ってこない。「お母さん」は人類の敵だったから、帰ってこない。


 男は少年の手の平にねじを乗せた。


「お母さん」のねじだ。ねじだけだった。






 あれから一〇年の月日が流れ――。


 ひょんな出会いから、ロボット王国の王様ロボドレックス(チャボヒバTV、毎週日曜日、朝八時放送「地球防衛戦隊ロボルンジャー」の宿敵)の家来となった少年は、明後日の方角にとんでもなく努力した結果――。


 リアル冒険ゲームの舞台「マホロバ」を作り上げ――。


 なぜか、マホロバ界の神イワシとして君臨していた。





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