第5話

そもそも私がどうして『ロリータ』の感想文を書こうとしたのか、それは、再読後にロリータと検索してみたら次のような記事を見つけたからです。


『ロリータ』はすばらしい文芸小説かもしれない。だが、ナボコフがあまりにも優れた作家であったために、ハンバートの視点での「大人の男を誘惑する少女」のイメージが事実のように浸透してしまった。


https://www.newsweekjapan.jp/amp/watanabe/2018/10/post-52.php?page=2


『小説『ロリータ』のモデルとなった、実在した少女の悲劇』 というタイトルの通り、ナボコフの『ロリータ』にはモデルがいて、そのモデルとなった少女の人生に思いを馳せよという内容です。


「けれども、多くの男性が性的なファンタジーの対象として読んだ「ロリータ」の影には、人生を無残に破壊された実在の少女がいたのだ。」


とあるように、筆者の問題意識は重要なものであることには違いまりません。いわゆるロリコン的な表現は、児童の人権問題と関わる。他人を侵害する性描写は、人道的な見地から批判されても仕方がない。しかし。『ロリータ』は男性が性的なファンタジーの対象として読むようには書かれていない。何より、『ロリータ』から人生を破壊された少女(ロリータ)がいることを読めていなければならない。


ロリコン男性の性的なファンタジーの小説にとどまらない証拠として497ページと504ページの記述を紹介します。


497「彼女(注:ロリータ)は言葉を探した。私は頭の中でその言葉を見つけてやった(「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたはあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」)」


これはロリータの思考をハンバートが補っているのであるけれど、ここだけでも、ハンバートはロリータの人生をめちゃめちゃにしたことに自覚的であることがわかる。ポルノのような都合のいい性的なファンタジーではまずあり得ない記述ではないだろうか。


そして504ページ。少し省略して引用します。

「私が彼女につけた汚らわしい情欲の傷をロリータはどんなことがあっても忘れないという単純な人間的事実を、私は超越できなかった。無限に長い目で見れば、ドロレス・ヘイズ(注:ロリータ)という名の北米の少女が狂人によって少女時代を奪われたところでこれぽっちも問題にならないと私に証明してくれないかぎり、私にはこの惨めな状態の治療法として、言語芸術という憂鬱できわめて局所的な緩和剤しか思いつかない」


拘留中の男は、ついぞロリータから愛されたいのに愛されなかった事実を正当化できなかった。『ロリータ』はそこまでは読み取らなければならない。何故なら、本文に書いているのだから。

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