第2話 サキとジール

 落ち葉のように羽根が積もったセントラルタワーの屋上で、サキは一人で震えていた。

 鉄格子をつかむ手は凍りつき、感覚を失っている。

 透き通る琥珀色の瞳は南の水平線を映したまま揺らぎもしなかった。


「行かないのか?」


 ふいに声をかけられ、サキは驚いて後ろを振り向いた。

 そこには鳥人には珍しい長身の少年が立っている。しかし、もっと目を引くのは、翼が黒く、そのうえ不格好に短くなっていることだった。

 サキは顔をしかめた。


「もう、みんな行っちゃったぞ」


 黒い翼の少年はサキの足下にやってきた。そして、鉄格子をつかむと、もう何も見えない南の水平線を見つめ、「行かないのか?」と再び聞いた。


「勝手だろ」


 サキは格子から飛び降りると、南の空に背を向けた。


「なんで行かなかったんだよ?」

「お前には関係ないだろ」


 サキはいらただしげに答えた。


「お前は鳥人だろう?」


 サキはきっと少年をにらみつけ、

「そう言うお前はどうなんだよ、ジール」

 と吐き捨てるように言った。


 ジールは雨雲のような灰色の瞳でサキを見た。その不安定な色に、サキは反射的に目をそらしてしまう。


「もちろん、俺だって鳥人だ」


 ジールは自虐的に言う。

 彼の翼は影のように黒い。

 ジールは今年十五歳になる。それをサキは知っていた。長い身体と黒い翼のせいで空を飛ぶことができないことも、この街の鳥人なら誰もが知っていることだった。


「逃げるのか?」

「なんだよ、逃げるって」

「もしかして、怖いんじゃないのか?」


 サキははっとして、またジールをにらみつけた。


「違う」

「じゃあ、なんで行かないんだよ?」

「お前には関係ない」


 ジールは何かを考えるように瞳をふせると、数秒おいてから灰色の瞳でサキをとらえた。光と闇が混同しているかのような瞳は、ふいに心の隙間を盗み見られそうで緊張してしまう。それが、彼に弱みを握られているみたいなので、サキはその瞳の色が気に入らなかった。


「じゃあ、ずっとここで暮らしていくつもりなのか?」


 サキは答えない。


「南に行けない鳥人の末路を、お前だって知らないわけじゃないだろ?」


 無愛想を保っていたサキの顔がさっと青くなった。

 ジールは視線を地上へと向ける。

 地上では、豆粒みたいな人間たちがたくさん集まっている様子が見える。愚痴を言い合いながら必死で羽根を掃除している姿が目に浮かぶようだった。


「鳥人はただでさえ人間たちに疎まれているんだぞ? そのうえ、家畜や奴隷のように使われても平気なのか? お前はきれいな白い翼を二枚もっているから、愛玩用にしてもらえるかもしれないけど」

「バカなこと言うのはやめろよ」


 サキは軽蔑的な視線をむける。


「でも、俺たちはいずれ理性を失うんだぞ」


 ジールははるか地上を見下ろしながら言った。その陰鬱な瞳は感情が読みとりづらく、それが余計に不気味な感じを与えていた。

 サキは言葉をのんだ。

 飛ぶことのできない鳥人がいないわけではない。ジールのように生まれつきのものだったり、事故や病気で飛べなくなる鳥人もまれにいる。しかし、南に行けない鳥人は人間のように暮らしていかなければならないが、彼らは、人間で言う成人の年を過ぎると人としての理性を失ってしまうのだという。まず、言葉を、次に表情を、そして本能を残して、すべてを失ってしまう。それは、南に行くことができなかったことの弊害なのか、鳥人本来の生態なのかは分かっていない。


 しかし、それよりも恐怖なのは、大陸で理性を失った鳥人たちは、人間にペットのように飼われて捨てられるのだという。

 そんな光景をサキは実際に見たことはない。そんなものは都市伝説にすぎない。けれど、嘘と言い切ることができないのは、人間に対する不信感のせいかもしれない。


「僕は違う。僕はただ、今は、行きたくなかっただけだ」

「行きたくない? 本能に逆らって?」


 サキは一瞬だけ押し黙った。


「僕はお前とは違う。お前のような異端と一緒にするな」


 ジールは真剣な顔つきでサキを見た。青白い頬がいつもより青ざめていた。

 サキははっとした。しかし、遅かった。


「お前がそれを言うのか?」


 見下ろすジールの瞳は濁っている。水晶のように澄んだ鳥人の瞳とはずいぶん違う。サキは秘密が隠されているような暗い瞳に恐怖を覚え、また目をそらした。


「……僕は、お前たちとは違うんだ」


 苦虫を噛み潰したような声に、ジールは笑った。


「セナが聞いたらなんて言うんだろうな」


 サキは無意識に手を振り上げていた。しかし、ジールに手首をつかまれると、悲鳴を上げて我に返った。


「セナはもっと喧嘩が上手かったぞ」

「うるさい」


 サキはじたばたとするが、一回り大きいジールの前には、なんの抵抗にもなっていなかった。


「離せよ!」


 サキは顔を真っ赤にして叫んだ。

 ジールが笑いながら手を離すと、サキの手首は赤く腫れていた。それを忌々しげにさすりながら、彼は怒るように翼を逆立てた。


「なんだ、動くのか」

「なんだって?」

「飛べないんじゃなかったのか?」


 ジールはにやにやとサキの翼をながめていた。


「飛びたくないだけだって言ってるだろ」


 サキの顔はリンゴのように赤くなっていた。瞳と同じ琥珀色の髪はさわさわと音を立て、怒りのために輝いている。


「むきになるなよ」


 ジールは青白い顔で涼しげに言った。


「お前はセナと違って短気なんだな」

「セナの名前を気安く呼ぶな」

「なんで?」

「それはお前が」


 と言いかけて、サキはまた苦虫を噛み潰したような顔をすると、

「僕は、お前が大嫌いだからだ」

 と言い直した。


「知ってるよ。みんな俺のことが嫌いだからな」

「なら、僕に話しかけるな」

「セナには恩があるんだよ」

「なんで、お前とセナが?」

「知りたいか?」

「知りたくない」


 ジールは笑った。


「とにかく、兄貴に心配をかけたくないなら、南に行けよ。本能に逆らうほどの意志の強さには関心してやってもいいが、いいことなんてひとつもないんだぞ」

「よけいなお世話だ。僕の勝手だって言ってるのが、聞こえないのか?」

「サキ」


 ジールは冷静な表情になった。嵐が来る前の鬱蒼とした黒雲のような目で、サキを見下ろした。

 サキは怒りをそがれて、後ずさった。足下に散らばる羽毛は、朽ちた花びらのように茶ばんで萎れていた。

 ジールの黒い羽根は抜け落ちたあとどうなるのだろう、とサキはふと思った。カラスのように黒光りした翼は、不吉な予言を記憶から呼び覚ますような怪しげな色を帯びている。


「やっぱり、飛ぶのが怖いんじゃないのか? それなら――」

「違う!」


 その鋭い否定に、ジールも驚いたようだった。


「違う。飛びたくないだけだ」


 サキの透き通る瞳が揺れていた。


「そうか」

 ジールは言う。


「サキ、よく考えろ。本能に逆らうな。鳥人だと思うなら」


 そう言って、ジールは去っていった。

 取り残されたサキは冷たい風にさらされていた。縮こまった翼は風除けにもならなかった。ただ、昇りはじめた朝日に美しく輝くだけだった。

 朽ちた羽根が風にさらわれ地上へと落ちていく。人間たちはまだ羽根の後始末に追われている。今日一日は街の掃除で終わるだろう。

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