初恋の人の初恋の相手がこの私?

 敷きっ放しの布団に寝転がって天井を眺める。これと言った趣味のない独身男の日曜日は寝るより他にすることがない。


「まさか優霧が葵の娘だったとはな。どうりで似ているはずだ」


 どんなに振り払おうとしても昨日の出来事が浮かんでくる。消滅したはずの過去の恋愛との再会は、始まったばかりの現在の恋愛を消滅させてしまった。


「優霧には悪いことをしたな」


 今回の件で一番気の毒なのは優霧だ。私の誤った選択のせいで彼女にはツライ思いをさせてしまった。それだけが唯一の心残りだ。


「早く新しい恋人が見つかるといいのだが」

「ちょっと光君、いるんでしょ。開けなさい!」


 いきなり玄関からけたたましい声が聞こえてきた。慌てて部屋を出て玄関の扉を解錠し開ける。葵が立っていた。


「なによ、やっぱりいるんじゃない。居留守なんか使ってどういうつもり」


 居留守を使った覚えはない。いや、待てよ、そうか。


「ああすまない。実は3日ほど前からインターホンが壊れているんだ。来週には業者が来て直してくれることになっている」

「言い訳ならもっと上手な理由を考えなさい。入らせてもらうわよ」


 葵は問答無用で私を押し退けると、靴を脱いで上がり込んだ。昨日の上品な御夫人からは想像できない態度と言葉遣いだ。


「待てよ。理由を教えてくれよ。君は何がしたいんだ」

「優霧、出て来なさい。ここにいるのはわかっているのよ。これ以上お母さんを困らせないで」


 私の存在を完全に無視して家の中を歩き回る。なんとなく状況が飲み込めてきたのでそのまま放置する。探しても見つかるはずがない。ここに優霧はいない。


「おかしいわね。どこに隠れているのかしら」


 風呂場、押入れ、床下収納庫、最後には冷蔵庫の中まで探して自分の娘がいないことを確認した葵は、非礼を詫びようともせず玄関へ向かった。


「待てよ、今度はどこへ行くんだ」

「警察よ。絶対に見つけ出してやるんだから」


 ムキになる性格は高校の頃から変わっていない。靴を履いて扉を解錠した葵の右腕をつかむ。


「少し落ち着いたらどうだ。まだ昼前だろう。ここへ来るにしても途中でどこかに寄り道しているだけかもしれないし、もう少し待ってみたらどうだ」


 ドアノブを握っていた葵の右手から力が抜けた。無言で小さな紙片を渡す。『許してくれないなら家出します。探さないでください。お母さんなんか大嫌い』と書かれている。


「今朝、それがテーブルの上に置いてあったの。夜明け前に家を出たみたい。こんなことをするような子じゃなかったのに」


 葵は私を見上げた。その目は憎しみに満ちている。


「何もかもあなたのせいよ。いい年して高校生に手を出して恥ずかしくないの」

「それについては弁解のしようもない。もし優霧が君に似ていなかったらこんなことはしなかっただろう」

「私に似ていたから付き合おうとした、そう言いたいの」

「そうだ。情けない話だが今でも君のことが忘れられないんだ。今日まで独身を貫いてきたのもきっとそのせいだと思う。君にとっては迷惑な話だろうが」


 葵の瞳が心なしか潤んだように見えた。同時にその上体を私の胸にしなだれかけてきた。


「遅いよ。今頃そんな言葉を聞かされても手遅れだよ。どうしてあの時そう言ってくれなかったの」


 これほど弱々しく愛おしさを感じさせる声を聞くのは初めてだった。


「遅いって、それはどういう意味なんだい」

「まだわからないの。あたしにとってもあなたが初恋の相手だったの。1年生の時からずっと好きだった」

「それはおかしいよ。だって告白した時に友人として付き合うと言ったじゃないか」

「あたしにだって見栄はあるのよ。餌を出されてすぐ飛びつく野良犬のような真似はできないでしょう。それくらい気づいてよ」


 いや、恋愛経験のない男子高校生に対してその要求はレベルが高すぎる。


「じれったくて仕方がなかった。一緒に勉強している時、さりげなく肘を押し付けたり髪を肩に触れさせていたのに光君は全然気づいてくれない。遊園地に行った時は仲間が気を利かして二人だけで観覧車に乗るように仕向けてくれたのに、景色ばかり眺めて手を握ってもくれない。思いきって泊りがけで海水浴に行った時も、二人で夜空を見上げるだけで何もせずに終わってしまった」


 確かに思い返せばそんなことがあったような気がする。しかしあの頃は友人の範疇を超えないように精一杯の努力をしていたからな。こんなことなら無理に欲望を抑え込むんじゃなかった。


「そこで一計を案じたの。友人に頼んで嘘の噂を広めてもらったのよ。そうすれば光君は嫉妬して強引にあたしを奪おうとするはず、そう思ったの」

「じゃあ、大学生の彼氏ってのは本当に根も葉もないデマに過ぎなかったのか」

「そうよ。だけどこの計画は完全に裏目に出てしまった。諦めてしまった光君を追いかけることはあたしのプライドが許さなかった。自暴自棄になったあたしは東京の大学に進学。バイト先のIT企業の社長に言い寄られて一夜を共にしたら妊娠。『責任取ってね』の一言で強引に結婚して、それ以後は別居婚のような状態が続いた。彼には結婚後、一度も肌を触れさせなかったわ。あたしの中にはまだあなたがいたから」


 そのIT社長が気の毒で仕方がない。身から出た錆とはいえ哀れすぎる。


「もし優霧が連れてきたのが光君でなければ、どんな人でも交際を認めたはず。でもあなただけは認められない。あなたが他の女の恋人になるなんて絶対に許せない。それがあたしの娘であっても耐えられない。だから反対した」

「葵、君はそこまでボクのことを……」


 心は高校生の頃に戻っていた。こちらを見上げる葵もまた高校生の彼女だった。まだやり直せる、肉体は老いたが心は老いてはいない。知らぬ間に私は葵を抱き締めていた。葵の顔が迫ってくる。薄く閉じた両目とわずかに開いた唇。その唇に自分の唇を近づける。玄関の扉が開く音がした。


「光君、来ちゃったよ~。ねえ、呼び鈴壊れてるんじゃないの。押しても返事がないから勝手に入って……えっ、お母さん、光君と何をしているの」


 開いた扉の向こうには優霧が立っていた。なんだよ、このお約束どおりの展開は。万事休すだ。

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